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そして、私は根負けしてしまった
しおりを挟む「彼はまじめすぎるが故に、己に罰を与えたがっていた。正直、最愛の妻も子も失った挙げ句、守ろうと思ったものもすべて手の中を滑り抜け、イグナットはこの上ない絶望を抱えていたのだろう。彼が私に毒を求めて王宮を訪れたのは、戦争が終わって十年経った頃だった」
(殿下が十八歳で、私が十歳の頃……)
「イグナットが世を去ろうと思ったのも、十年経って再び戦争が起こる気配もなく、ルーフェン卿のもとでクローディアもスクスク育っていると聞き、己の存在意義に迷い始めたからなのだろう」
「確かに、張り詰めていた気持ちが、緩む頃合いだったのかもしれませんね。むしろ戦争のあと、よく十年もバフェット領を守り続け、辺境伯としてのお勤めを立派に果たされたものだと思います」
ルシオの言葉に、クローディアもディストも頷く。
「城を訪れた彼は、いつもながら穏やかな顔だが、その奥に途方もない疲労と精神的重圧を押し隠していた。少しのあいだ世間話をしたあと、彼は『私に罰を与えてください』と毒を求める話を切り出した」
ディストは溜め息をつき、長い脚を組む。ソファに体を預け、無意識にまた息をついた。
「勿論、私は断固拒絶した。私も両親もイグナットを気に入っていて、初めにも言ったように彼は国にとってなくてはならない英雄だ。だが彼は、私が引き留める言葉も聞き入れないほど、自分自身に絶望していた」
ディストは室内ではない遠くを見て、唇を引き結ぶ。
「それからのイグナットは執念を見せた。タウンハウスに滞在し、毎日私のもとを訪れた。どうしても〝罰〟を得たい。自死する事は簡単だが、仕えるべき王族から〝罰〟がほしい。自分がこう望む事で、私が罪の意識に苛まれる事も承知した上で、泣いて謝罪しながら毒を望み続けた」
イグナットがどんな思いで、ディストに対し「自分を罰して殺してほしい」と言い続けたのか、想像しただけで胸が痛む。
(イグナット様は、自分のせいで誰かが苦しむような事を望む人ではないわ。それでも殿下に毒を望み続けたのは、それだけ死を望んでいた事他ならない)
自分に対し、温厚に接してくれていた時も、イグナットは毒を飲み続け緩やかに死にゆこうとしていた。
牧神のような穏やかな彼の心の底にあったものは、荒みきりただ破滅に向かう本能だった。
「…………っ」
クローディアのエメラルドグリーンの目から涙が一筋零れ、彼女は指先でその雫を拭う。
ディストは青い目で遠くを見て、ポツリと呟く。
「そして、私は根負けしてしまった」
罪悪感の混じった溜め息をつき、ディストは項垂れる。
「それでも、私はイグナットに思いとどまってほしかった。彼に渡したのは、『バッカスの溜め息』という本物の毒だ。だが、一回分を飲む程度では死に至らない。あれは長期間少量ずつ服用する事で、ようやく死に至る優しい毒だ。彼は泣いて感謝し、その日のうちに領地へ帰っていった。彼が一回分で死なない事は分かっていたから、私はすぐに手紙を書き、バフェット城へ届けさせた」
ディストは組んでいた脚を戻し、肩を落とす。
「使いの話では、意気揚々と毒を飲んで眠りにつき、翌朝普通に目覚めたイグナットはこれ以上なく絶望したようだ。私はその時点で、イグナットに『これが王太子からの〝生きよ〟という意思だ』と思い留まってほしかった」
「あぁ……」
ディストは最後の最後まで、イグナットの死を望んではいなかったのだ。
ソルもディストも、誰一人としてイグナットを進んで殺そうとなどしていなかった。
イグナット本人を除いて――。
「その後、私の使いから手紙を渡され、『バッカスの溜め息』の本来の使い方を知ったイグナットは、今すぐに死ねない事を受け入れたようだ。それもまた、自分の贖罪の一つとして受け入れた」
ディストから毒に関する事をすべて聞き、クローディアは秘められていた王太子の思いを知る。
(殿下とて、辺境伯の死の原因が自分にあると容易に知られたら、御身に良くない噂が立つのを恐れていたのかもしれない。私と初めて会った時にすぐ教えてくださらなかったのも、私を警戒していた……のもあるのだわ)
バフェット辺境伯の未亡人に、夫の死の原因を究明したいと言われたとしても、もしかしたらクローディアが毒を飲ませた相手に復讐したがっているかもしれないと、ディストは考えたのだろう。
だからミケーラまで同行したこの時になって、ようやく重い口を開く気になったのもおかしくない。
彼とて王太子という身分の重みを自覚している。
だから、心内ではクローディアに真実を教えたいと思っていたとしても、沈黙していたのだろう。
「お話してくださり、ありがとうございます。殿下にも深いご事情があった事、お察し致します」
頭を下げると、彼は軽く手を挙げる。
(殿下が十八歳で、私が十歳の頃……)
「イグナットが世を去ろうと思ったのも、十年経って再び戦争が起こる気配もなく、ルーフェン卿のもとでクローディアもスクスク育っていると聞き、己の存在意義に迷い始めたからなのだろう」
「確かに、張り詰めていた気持ちが、緩む頃合いだったのかもしれませんね。むしろ戦争のあと、よく十年もバフェット領を守り続け、辺境伯としてのお勤めを立派に果たされたものだと思います」
ルシオの言葉に、クローディアもディストも頷く。
「城を訪れた彼は、いつもながら穏やかな顔だが、その奥に途方もない疲労と精神的重圧を押し隠していた。少しのあいだ世間話をしたあと、彼は『私に罰を与えてください』と毒を求める話を切り出した」
ディストは溜め息をつき、長い脚を組む。ソファに体を預け、無意識にまた息をついた。
「勿論、私は断固拒絶した。私も両親もイグナットを気に入っていて、初めにも言ったように彼は国にとってなくてはならない英雄だ。だが彼は、私が引き留める言葉も聞き入れないほど、自分自身に絶望していた」
ディストは室内ではない遠くを見て、唇を引き結ぶ。
「それからのイグナットは執念を見せた。タウンハウスに滞在し、毎日私のもとを訪れた。どうしても〝罰〟を得たい。自死する事は簡単だが、仕えるべき王族から〝罰〟がほしい。自分がこう望む事で、私が罪の意識に苛まれる事も承知した上で、泣いて謝罪しながら毒を望み続けた」
イグナットがどんな思いで、ディストに対し「自分を罰して殺してほしい」と言い続けたのか、想像しただけで胸が痛む。
(イグナット様は、自分のせいで誰かが苦しむような事を望む人ではないわ。それでも殿下に毒を望み続けたのは、それだけ死を望んでいた事他ならない)
自分に対し、温厚に接してくれていた時も、イグナットは毒を飲み続け緩やかに死にゆこうとしていた。
牧神のような穏やかな彼の心の底にあったものは、荒みきりただ破滅に向かう本能だった。
「…………っ」
クローディアのエメラルドグリーンの目から涙が一筋零れ、彼女は指先でその雫を拭う。
ディストは青い目で遠くを見て、ポツリと呟く。
「そして、私は根負けしてしまった」
罪悪感の混じった溜め息をつき、ディストは項垂れる。
「それでも、私はイグナットに思いとどまってほしかった。彼に渡したのは、『バッカスの溜め息』という本物の毒だ。だが、一回分を飲む程度では死に至らない。あれは長期間少量ずつ服用する事で、ようやく死に至る優しい毒だ。彼は泣いて感謝し、その日のうちに領地へ帰っていった。彼が一回分で死なない事は分かっていたから、私はすぐに手紙を書き、バフェット城へ届けさせた」
ディストは組んでいた脚を戻し、肩を落とす。
「使いの話では、意気揚々と毒を飲んで眠りにつき、翌朝普通に目覚めたイグナットはこれ以上なく絶望したようだ。私はその時点で、イグナットに『これが王太子からの〝生きよ〟という意思だ』と思い留まってほしかった」
「あぁ……」
ディストは最後の最後まで、イグナットの死を望んではいなかったのだ。
ソルもディストも、誰一人としてイグナットを進んで殺そうとなどしていなかった。
イグナット本人を除いて――。
「その後、私の使いから手紙を渡され、『バッカスの溜め息』の本来の使い方を知ったイグナットは、今すぐに死ねない事を受け入れたようだ。それもまた、自分の贖罪の一つとして受け入れた」
ディストから毒に関する事をすべて聞き、クローディアは秘められていた王太子の思いを知る。
(殿下とて、辺境伯の死の原因が自分にあると容易に知られたら、御身に良くない噂が立つのを恐れていたのかもしれない。私と初めて会った時にすぐ教えてくださらなかったのも、私を警戒していた……のもあるのだわ)
バフェット辺境伯の未亡人に、夫の死の原因を究明したいと言われたとしても、もしかしたらクローディアが毒を飲ませた相手に復讐したがっているかもしれないと、ディストは考えたのだろう。
だからミケーラまで同行したこの時になって、ようやく重い口を開く気になったのもおかしくない。
彼とて王太子という身分の重みを自覚している。
だから、心内ではクローディアに真実を教えたいと思っていたとしても、沈黙していたのだろう。
「お話してくださり、ありがとうございます。殿下にも深いご事情があった事、お察し致します」
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