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イグナットの死
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あとは結婚誓約書にお互いサインをし、形式上の夫婦となる。
イグナットは調子のいい日と悪い日があるようで、クローディアは毎日ソルに彼の体調を聞いて、良さそうな日には食事を彼の寝室に運び、一緒に食べていた。
いくらイグナットが結婚は形だけと言っても、冷たい関係の夫婦になるのは嫌だ。
イグナットは優しくて良い人だし、あと数年しか生きられないのなら、楽しい思い出を作ってあげたいと思った。
バフェット城の使用人たちとも徐々に仲良くなり、クローディアが連れてきた侍女や騎士たちも、この土地の者たちに受け入れられているようで安心した。
ラギや騎士たちと一緒に湖まで行って釣りをし、料理人に採れた魚を調理してもらった。
その魚料理をイグナットの元に自ら持って行き、「私が釣ったのですよ!」と自慢げに言うと、彼は楽しそうに目を細めてくれた。
クローディアはあえてありのままに振る舞い、イグナットを笑わせた。
ソルも涙ぐんだ様子で「こんなに楽しそうな旦那様を、近年見た事がありません」と感謝を述べてきた。
城の者たちは全員イグナットを敬愛しているようで、彼に良い変化を与えたクローディアの事も、いつしか好いてくれるようになっていた。
だが楽しく穏やかな生活も、永遠には続かない。
イグナットに面会できない日は増えてゆき、バフェット領に来て二年目の冬に彼は帰らぬ人となった。
大量の血を吐いての最期だった。
ソルに「お辛そうにしている姿を、クローディア様に見せたくないと言われています」と制されても、クローディアはイグナットの寝室に入った。
覚悟を決めた瞳で次第に生気を失うイグナットを見つめ、最期の最期まで、彼の手を両手で握っていた。
彼が亡くなった冬の朝、連日イグナットに付き添っていたため寝不足になっていたクローディアも、緊張の糸が切れて気を失ってしまった。
「お嬢!」
焦ったラギの声が聞こえた気がしたが、椅子ごと倒れるようにして、クローディアは意識を失った。
目が覚めると、四柱式のベッドの帳の向こうで、暖炉の火が爆ぜる音が聞こえる。
薄暗い中でゆっくりと手をもたげ、表、裏と返してイグナットの手を握っていた己の手を確認する。
「……ラギ」
小さな声をかけると「ここにいます」と護衛の声がした。
「イグナット様は?」
「そのまま、寝室にいらっしゃいます。今、城の者が葬儀の準備をしています」
「……そう」
肺にある空気をすべて出すような溜め息をつき、クローディアは眦から涙を零した。
「……いい人、だったわ」
「はい」
「……っ私、最初はこの縁談をとても嫌だと思ってしまったの。お爺さんに嫁ぎたくないって……、酷い事を考えてしまったわ」
涙混じりのクローディアの懺悔を、ラギは黙って聞いてくれる。
「それなのに、イグナット様はすべてを了解した上で、私を温かく迎え入れてくださった……! ここに来た最初のうちも、まだ少し警戒していたの。でも、本当に彼は私がここで楽しく過ごす事を望んでいた。妻というより、まるで孫娘を見ているようないたわりの目で、私が話す事すべてを、楽しそうに聞いてくださった」
脳裏に思い浮かぶのは、イグナットとの穏やかで優しい日々。
決して彼は床を動く事はなかったけれど、精神的に満たされた時間だった。
「旦那様は幸せだったと思いますよ。お嬢は人を幸せにできる才能がある。最期の二年間で、旦那様は沢山の幸せをお嬢にもらったのです。それでなければ、あんなに穏やかなお顔にはなりません」
目を閉じ、まな裏に蘇るのは、イグナットの最期の苦しげな呼吸。
大量に血を吐いて寝具が赤黒い血にまみれ、それでも彼は決して弱音を吐かなかった。
生の化身ともいうべく若いクローディアに恨み言を言うでもなく、今の妻である彼女の前で、前の妻や子供に「いま行く」と口にする事もなかった。
最期までイグナットは、物静かで苦しみやつらさを一人で抱え込む人だった。
優しすぎる夫に心からの感謝を抱きながら、クローディアは「お疲れ様でした」と彼に告げ、血で濡れた唇に生まれて始めてのキスをした。
白くなった髪を優しく撫でつけ、ハンカチで夫の口元を拭いた。
侍医が傍らに立ち、ソルが声もなく慟哭する中で、イグナットは妻に見守られて静かに旅立った。
そのあと、クローディアは気を失ってしまったのだ。
イグナットは調子のいい日と悪い日があるようで、クローディアは毎日ソルに彼の体調を聞いて、良さそうな日には食事を彼の寝室に運び、一緒に食べていた。
いくらイグナットが結婚は形だけと言っても、冷たい関係の夫婦になるのは嫌だ。
イグナットは優しくて良い人だし、あと数年しか生きられないのなら、楽しい思い出を作ってあげたいと思った。
バフェット城の使用人たちとも徐々に仲良くなり、クローディアが連れてきた侍女や騎士たちも、この土地の者たちに受け入れられているようで安心した。
ラギや騎士たちと一緒に湖まで行って釣りをし、料理人に採れた魚を調理してもらった。
その魚料理をイグナットの元に自ら持って行き、「私が釣ったのですよ!」と自慢げに言うと、彼は楽しそうに目を細めてくれた。
クローディアはあえてありのままに振る舞い、イグナットを笑わせた。
ソルも涙ぐんだ様子で「こんなに楽しそうな旦那様を、近年見た事がありません」と感謝を述べてきた。
城の者たちは全員イグナットを敬愛しているようで、彼に良い変化を与えたクローディアの事も、いつしか好いてくれるようになっていた。
だが楽しく穏やかな生活も、永遠には続かない。
イグナットに面会できない日は増えてゆき、バフェット領に来て二年目の冬に彼は帰らぬ人となった。
大量の血を吐いての最期だった。
ソルに「お辛そうにしている姿を、クローディア様に見せたくないと言われています」と制されても、クローディアはイグナットの寝室に入った。
覚悟を決めた瞳で次第に生気を失うイグナットを見つめ、最期の最期まで、彼の手を両手で握っていた。
彼が亡くなった冬の朝、連日イグナットに付き添っていたため寝不足になっていたクローディアも、緊張の糸が切れて気を失ってしまった。
「お嬢!」
焦ったラギの声が聞こえた気がしたが、椅子ごと倒れるようにして、クローディアは意識を失った。
目が覚めると、四柱式のベッドの帳の向こうで、暖炉の火が爆ぜる音が聞こえる。
薄暗い中でゆっくりと手をもたげ、表、裏と返してイグナットの手を握っていた己の手を確認する。
「……ラギ」
小さな声をかけると「ここにいます」と護衛の声がした。
「イグナット様は?」
「そのまま、寝室にいらっしゃいます。今、城の者が葬儀の準備をしています」
「……そう」
肺にある空気をすべて出すような溜め息をつき、クローディアは眦から涙を零した。
「……いい人、だったわ」
「はい」
「……っ私、最初はこの縁談をとても嫌だと思ってしまったの。お爺さんに嫁ぎたくないって……、酷い事を考えてしまったわ」
涙混じりのクローディアの懺悔を、ラギは黙って聞いてくれる。
「それなのに、イグナット様はすべてを了解した上で、私を温かく迎え入れてくださった……! ここに来た最初のうちも、まだ少し警戒していたの。でも、本当に彼は私がここで楽しく過ごす事を望んでいた。妻というより、まるで孫娘を見ているようないたわりの目で、私が話す事すべてを、楽しそうに聞いてくださった」
脳裏に思い浮かぶのは、イグナットとの穏やかで優しい日々。
決して彼は床を動く事はなかったけれど、精神的に満たされた時間だった。
「旦那様は幸せだったと思いますよ。お嬢は人を幸せにできる才能がある。最期の二年間で、旦那様は沢山の幸せをお嬢にもらったのです。それでなければ、あんなに穏やかなお顔にはなりません」
目を閉じ、まな裏に蘇るのは、イグナットの最期の苦しげな呼吸。
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白くなった髪を優しく撫でつけ、ハンカチで夫の口元を拭いた。
侍医が傍らに立ち、ソルが声もなく慟哭する中で、イグナットは妻に見守られて静かに旅立った。
そのあと、クローディアは気を失ってしまったのだ。
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