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バフェット伯イグナット

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「ありがとうございます」

 クローディアが微笑むと、イグナットは彼女の手の甲に敬愛のキスを送った。
 背後にはラギが控え、クローディアはソルに勧められてベッド脇にある椅子に腰掛ける。

 夏場だが石造りの城は冷えるので、室内には暖炉の火が揺れている。

 マントルピースの上にある肖像画は、若き日のイグナットと妻子だ。

 クローディアの視線に気付いたのか、イグナットが苦く笑う。

「……今回は若く未来のあるあなたに、酷な申し出をしましたね」

 初夏の日差しに少し眩しそうに目を細め、彼が言う。

 光の加減で琥珀色にも見える茶色い目は、彼を理知的な人物に見せる。顔立ちも整っていて、肖像画を見ても若い頃はとても美男子だったと分かる。

(この人は悪い人ではない。ソルや城の騎士たちの対応から、私がここで酷い目に遭う事はないわ)

 すぐ現状を理解すると、クローディアは感じよく微笑んだ。

「イグナット様がお優しそうな方で安心致しました。ふつつかな嫁ですが、どうぞ宜しくお願い致します」

 礼をして顔を上げると、慈愛の籠もった笑みを浮かべたイグナットと目が合った。
 彼はしばらくクローディアを見つめたあと、静かに口を開く。

「私は見ての通りの状態です。あなたと形だけの夫婦になっても、夫としてあなたを求める事はないでしょう。私が健康だったとしても、クローディアを女性として求める事はありません」

「え……」

 病気ならば……と思ってここまできたが、健康だとしても自分を女として求めないと言われ、やや不安になった。

 イグナットと積極的に男女の仲になりたいと思っていた訳ではないが、健康な男性に求められないというのは、自分に女性としての魅力がないのでは……と思ったからだ。

 クローディアの思惑を察したからか、イグナットはすぐに首を横に振り否定する。

「誤解されないでください。あなたは誰が見ても魅力的です。もし私が若く、妻子がおらず何のしがらみもなければ、クローディアに夢中になっていたでしょう」

 世辞でもそう言われ、クローディアは多少安堵する。

「私が先ほどのように言ったのは、あなたのお父上であるルーフェン子爵に多大な恩があるからです」

「お父様に……?」

 彼女の問いに、イグナットは静かに頷く。

「あなたが覚えていないとても小さな頃に、私はクローディアに会っていました。ルーフェン子爵からはあまり聞いていないかもしれませんが、私と彼は昔からの友人でした」

 心の中で謎がじわりと広がってゆく。
 同時に父に対し、「最初からすべてハッキリ言ってくれればいいのに」という思いも湧き起こった。

「私はあなたをこの土地の女主人とするために招きました。いずれ私は病により死ぬでしょう。そのあと、未亡人という形になってしまいますが、あなたにはこの土地の正当な継承者として、自由に暮らしてほしい。そう思ってルーフェン子爵に縁談の話を持ちかけたのです」

 途方のない話をされ、クローディアは困ったように微笑む。

「それは私が騎士に交じって戦う、豪傑な令嬢だからですか?」

 恐らく彼も知っているだろう話をすると、イグナットは笑顔を見せた。

「それも一つの要因です。あなたならきっとこの城の者や騎士、民にも好かれるでしょう」

「他に理由はありますか?」

 一つの要因と言われたので、イグナットはもっと他にクローディアが納得する理由を言ってくれると期待した。

「他に明確な理由はありません。あなたは恩人のご息女で、社交界にいる陰湿な女性たちの中で朽ちていくには惜しい人です。私が死んだあと、この地を大切にしてくれる男性が現れたら、その人を婿とするのもいいでしょう。この土地がいつまでも平和であり、あなたが幸せに暮らす事が私の望みです」

 けれどイグナットは、クローディアが深く納得する答えをくれなかった。

(恩人の娘だから、いい思いをさせたいという事? イグナット様のお子が亡くなられたから、親しいお父様の娘である私を可愛がりたいとうお考えかしら?)

 よく分からないが、一旦これで納得する事にした。

 イグナットはどう考えても好意そのものでクローディアを迎えてくれているし、体調の悪い彼を困らせるのは本意ではない。

「分かりました。これからどうぞ宜しくお願い致します」

 明るく返事をすると、イグナットは安心したように微笑んだ。
 元気に振る舞っているが、彼の顔色は青白く、いまにも透けてしまいそうに儚い。

「城や領地の中は好きに歩いてください。ミケーラからの護衛や侍女たちにも、この土地の事を知ってもらいましょう。うちの城の者たちにも言い含めていますから、クローディアだけでなく、侍女や護衛たちに困った事があればいつでも言ってください」

「ありがとうございます」

 嫁いできて何より心配なのは、連れてきた侍女や護衛が、慣れない土地で困らないかという事だ。
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