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ココの部屋
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「おとう……さま?」
キョトンとしたコレットが闇のなか目を瞠らせると、黒いシルエットが動いてコレット越しにランプをつけた。
闇のなか、ジッと小さな音がして油が燃える臭いがする。
「ん……っ」
〝その臭い〟がコレットの記憶をこじ開けた。
真っ暗な中、自分は憂鬱な気持ちでこのランプをつけ、消していた。
――そんな感情が蘇る。
「ブリュイエール卿!? っくそ!」
ドアの向こうでアベルが舌打ちする声がし、廊下を走ってゆく足音が聞こえた。
ランプに照らされて室内がボゥッと浮かび上がり、コレットは上げかけた悲鳴を喉元で呑み込んだ。
「――――っ」
代わりに、喉元でヒュウッと風が鳴る。
可愛らしい柄であっただろう壁紙は、一面バリバリに引き裂かれていた。その間に、暖炉の炭を使ったと思われる黒文字で、「助けて」と殴り書きがされてある。
背が届く場所ならどこにでも書いた。
そんな狂気すら浮かぶ文字は、一度書いただけでは飽き足らず、何度も上から文字をなぞったようで、「助けて」の単語は黒々と光ってすらいる。
「これ……は……」
体の温度がザッと下がった気がし、ガタガタと体が震える。
「ここがココのベッドだよ。ほら、懐かしいだろう?」
トン、と肩を押されると、さして足を踏ん張ってもいなかった――むしろ膝から崩れ落ちそうになっていたコレットは、あっけなくベッドの上に尻をつけてしまう。
「ほら、ここでココは無邪気に寝て、お父様からのおやすみのキスを待ち侘びていたはずだ」
ランプの光を反射して、デジレの目は爛々と光っているように見えた。
虚ろな目。そして口元には貼り付いたかのような笑み。
そんな父にのし掛かられ――、彼の顔を避けようとしたコレットは天井を見て――。
「あ……、ぁ。……ああああぁああぁああぁっっ!!」
――〝彼女〟だ。
――〝彼女〟が見下ろしている。
天井にはコレットの体ほどの幅の絵画が掛かっていて、カンバスの中から一人の女性がコレットを見下ろしていた。
フワフワと風になびくプラチナブロンドに、デジレそっくりのブルーアイ。だがキュッと弧を描いた目のカーブや、二重の幅、ツンと尖った鼻の形や顔の輪郭まで、その人はコレットにうり二つだった。
「あぁ、やっぱりココは姉さんそっくりだ。ああ、会いたかった。ずっとこうしたかった」
ここではないどこかを見てデジレは陶酔した笑みを浮かべ、コレットにのし掛かってくる。
先ほどまでの紳士然とした態度はどこかへ、物静かな彼はいまや狂気に包まれていた。
――そうだ。
――自分はこうやって、〝彼女〟そっくりだと毎日囁かれていた。
――『姉さんが死んだ二十一歳まであともう少し。そうなったらココは、姉さんの生まれ変わりとして、お父様に愛されるんだよ?』
ねっとりとした父の声がする。
唇へのキスはなかったものの、唇以外の顔にキスをされ、剥き出しになった腕や手、脚や足の指に至るまで口に含まれ、舐めしゃぶられた。
半狂乱になって叫び、嫌だと言っても父はやめてくれなかった。
同時に先ほど覚えた違和感も理解する。
屋敷の他のドアはすべて内開きだったのに、コレットの部屋だけは外開きだったのだ。
この部屋に内鍵がかかる前、コレットが父親のすることを嫌がって逃げだそうとしても、使用人が外から押さえつけて出してくれなかった。
コレットとジスランがやって来たとき、彼女を素直に歓迎していた使用人は新参の者なのだろう。でなければ、この家の狂気を知ってあんな笑顔を浮かべられる訳がない。
やがてコレットの部屋のみ外鍵も内鍵もついて、父だけが首に提げた金色の鍵で自由に行き来していたのだ。
兄はドアの向こうから気遣わしげな声を掛けるが、父に逆らえない。自分に興味を示さない母の声など、とうに忘れてしまった。
――いや、コレットの〝本当の母〟は、ずっと前に自ら命を絶ってしまっていたのだ。
弟によって道ならぬ関係に引きずり込まれ、望まない子を孕んだ。
その罪に怯え、〝紫色の目を持つ〟女児を育てる自信もなく、子を産んですぐ死を選んだ。
それを知ったのは、父の奇行に耐えきれず壁紙をかきむしった時。
可愛らしい小花柄の壁紙をコレットの爪が破った時、その下からもとの住人の叫びが現れたのだ。
あの時の恐怖より、底知れない絶望をコレットは知らない。
あぁ、あのデスク。
あのデスクにはすべてが詰まっていた。
本当の母――ルイーズが書き綴った日記に、〝この部屋でなされた〟地獄の日々が書き綴られていた。
血を分けた弟――デジレにのし掛かられ、「愛している」と言われむりやり体を奪われた。姉として、女として、どれだけの屈辱と悲しみと怒り、絶望を抱いただろう。
ルイーズが自死したあと、デジレは同じ部屋をコレットに与えた。
壁一面の狂気の痕跡は、母から娘に継がれたものだったのだ。
カロリーヌと結婚してもなお、デジレは実姉であるルイーズとその間にできたコレットへの執着を手放さなかった。
姉を犯し姉が死んだ部屋で、娘を閉じ込めて育て続けた狂気を、外界の誰が知るだろう。
食事と風呂の時だけ部屋から出し、あとは深窓の令嬢という雰囲気を醸し出す彼女を社交界に連れ出した。
育て上げた姉そっくりの美貌を見せびらかすために、自ら娘をエスコートして舞踏会に出掛けた。
コレットに夫ができてもできなくても構わない。
もし男ができるのなら、デジレの狂気を受け入れられる、立場の弱い男を見つけるつもりだったのだろう。
父に支配されたコレットは、他の誰に興味を持つこともできなかった。
ニコリともせず、精巧に作られた等身大の人形のような彼女に、最初は群がった男性たちもすぐ諦めて離れていく。
そんな中、ジスランだけがコレットを気に掛けてくれたのだ。
遠い記憶のなか、じんわりと胸に染み入るジスランの笑顔が浮かぶ。
――あれは、十九歳最後の舞踏会だ。
キョトンとしたコレットが闇のなか目を瞠らせると、黒いシルエットが動いてコレット越しにランプをつけた。
闇のなか、ジッと小さな音がして油が燃える臭いがする。
「ん……っ」
〝その臭い〟がコレットの記憶をこじ開けた。
真っ暗な中、自分は憂鬱な気持ちでこのランプをつけ、消していた。
――そんな感情が蘇る。
「ブリュイエール卿!? っくそ!」
ドアの向こうでアベルが舌打ちする声がし、廊下を走ってゆく足音が聞こえた。
ランプに照らされて室内がボゥッと浮かび上がり、コレットは上げかけた悲鳴を喉元で呑み込んだ。
「――――っ」
代わりに、喉元でヒュウッと風が鳴る。
可愛らしい柄であっただろう壁紙は、一面バリバリに引き裂かれていた。その間に、暖炉の炭を使ったと思われる黒文字で、「助けて」と殴り書きがされてある。
背が届く場所ならどこにでも書いた。
そんな狂気すら浮かぶ文字は、一度書いただけでは飽き足らず、何度も上から文字をなぞったようで、「助けて」の単語は黒々と光ってすらいる。
「これ……は……」
体の温度がザッと下がった気がし、ガタガタと体が震える。
「ここがココのベッドだよ。ほら、懐かしいだろう?」
トン、と肩を押されると、さして足を踏ん張ってもいなかった――むしろ膝から崩れ落ちそうになっていたコレットは、あっけなくベッドの上に尻をつけてしまう。
「ほら、ここでココは無邪気に寝て、お父様からのおやすみのキスを待ち侘びていたはずだ」
ランプの光を反射して、デジレの目は爛々と光っているように見えた。
虚ろな目。そして口元には貼り付いたかのような笑み。
そんな父にのし掛かられ――、彼の顔を避けようとしたコレットは天井を見て――。
「あ……、ぁ。……ああああぁああぁああぁっっ!!」
――〝彼女〟だ。
――〝彼女〟が見下ろしている。
天井にはコレットの体ほどの幅の絵画が掛かっていて、カンバスの中から一人の女性がコレットを見下ろしていた。
フワフワと風になびくプラチナブロンドに、デジレそっくりのブルーアイ。だがキュッと弧を描いた目のカーブや、二重の幅、ツンと尖った鼻の形や顔の輪郭まで、その人はコレットにうり二つだった。
「あぁ、やっぱりココは姉さんそっくりだ。ああ、会いたかった。ずっとこうしたかった」
ここではないどこかを見てデジレは陶酔した笑みを浮かべ、コレットにのし掛かってくる。
先ほどまでの紳士然とした態度はどこかへ、物静かな彼はいまや狂気に包まれていた。
――そうだ。
――自分はこうやって、〝彼女〟そっくりだと毎日囁かれていた。
――『姉さんが死んだ二十一歳まであともう少し。そうなったらココは、姉さんの生まれ変わりとして、お父様に愛されるんだよ?』
ねっとりとした父の声がする。
唇へのキスはなかったものの、唇以外の顔にキスをされ、剥き出しになった腕や手、脚や足の指に至るまで口に含まれ、舐めしゃぶられた。
半狂乱になって叫び、嫌だと言っても父はやめてくれなかった。
同時に先ほど覚えた違和感も理解する。
屋敷の他のドアはすべて内開きだったのに、コレットの部屋だけは外開きだったのだ。
この部屋に内鍵がかかる前、コレットが父親のすることを嫌がって逃げだそうとしても、使用人が外から押さえつけて出してくれなかった。
コレットとジスランがやって来たとき、彼女を素直に歓迎していた使用人は新参の者なのだろう。でなければ、この家の狂気を知ってあんな笑顔を浮かべられる訳がない。
やがてコレットの部屋のみ外鍵も内鍵もついて、父だけが首に提げた金色の鍵で自由に行き来していたのだ。
兄はドアの向こうから気遣わしげな声を掛けるが、父に逆らえない。自分に興味を示さない母の声など、とうに忘れてしまった。
――いや、コレットの〝本当の母〟は、ずっと前に自ら命を絶ってしまっていたのだ。
弟によって道ならぬ関係に引きずり込まれ、望まない子を孕んだ。
その罪に怯え、〝紫色の目を持つ〟女児を育てる自信もなく、子を産んですぐ死を選んだ。
それを知ったのは、父の奇行に耐えきれず壁紙をかきむしった時。
可愛らしい小花柄の壁紙をコレットの爪が破った時、その下からもとの住人の叫びが現れたのだ。
あの時の恐怖より、底知れない絶望をコレットは知らない。
あぁ、あのデスク。
あのデスクにはすべてが詰まっていた。
本当の母――ルイーズが書き綴った日記に、〝この部屋でなされた〟地獄の日々が書き綴られていた。
血を分けた弟――デジレにのし掛かられ、「愛している」と言われむりやり体を奪われた。姉として、女として、どれだけの屈辱と悲しみと怒り、絶望を抱いただろう。
ルイーズが自死したあと、デジレは同じ部屋をコレットに与えた。
壁一面の狂気の痕跡は、母から娘に継がれたものだったのだ。
カロリーヌと結婚してもなお、デジレは実姉であるルイーズとその間にできたコレットへの執着を手放さなかった。
姉を犯し姉が死んだ部屋で、娘を閉じ込めて育て続けた狂気を、外界の誰が知るだろう。
食事と風呂の時だけ部屋から出し、あとは深窓の令嬢という雰囲気を醸し出す彼女を社交界に連れ出した。
育て上げた姉そっくりの美貌を見せびらかすために、自ら娘をエスコートして舞踏会に出掛けた。
コレットに夫ができてもできなくても構わない。
もし男ができるのなら、デジレの狂気を受け入れられる、立場の弱い男を見つけるつもりだったのだろう。
父に支配されたコレットは、他の誰に興味を持つこともできなかった。
ニコリともせず、精巧に作られた等身大の人形のような彼女に、最初は群がった男性たちもすぐ諦めて離れていく。
そんな中、ジスランだけがコレットを気に掛けてくれたのだ。
遠い記憶のなか、じんわりと胸に染み入るジスランの笑顔が浮かぶ。
――あれは、十九歳最後の舞踏会だ。
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