輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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「別に何もしないから、緊張しなくていいよ」
 一緒にエレベーターに乗り、緊張でカチコチになっている美弥を時人が笑う。
「べ、別に何かしてもいいんだよ? こ、……恋人っ、なんだし」
 緊張しながらも美弥は時人の手をしっかりと握っていて、人生で初めてできた恋人に早速背伸びした事を望んでいる。
「はは、そういう事は沙夜ちゃんの許可が出てからだよ」
 美弥に送った薔薇の花束は、荷物になるので時人が持っていた。
 美弥はチラチラと自分の左手の薬指に嵌った指輪に目をやり、時人に見られないようにこっそりとニヤニヤしている。だがそんな気配は時人はお見通しで、こちらもまた美弥に気付かれないようにこっそりと笑っているのだった。
 高層マンションの最上階に着き、ワンフロアがそのまま時人の家になっている玄関のドアを、時人は虹彩認証でロック解除する。
「上がって。コーヒー淹れるよ。遅くなる前には家に送るから」
 車のキーを置いて時人はリビングに入り、スーツのジャケットを脱いでキッチンに向かう。その背中に美弥が声を掛けた。
「時人さん、私にコーヒー淹れさせて」
「ん?」
「高校三年生の秋に私のコーヒー飲んでくれなかったでしょう? だから、淹れさせて」
 悪戯っぽく笑って言うと、時人があの時の失態を思い出して苦く笑う。
「じゃあ、お願いするよ」
「はいっ」
 おどけた美弥が手で敬礼らしきポーズを取り、鼻歌を歌いながらキッチン台の上にある道具で準備を進めてゆく。
「時人さん、こういうのいいね」
「うん?」
「私、ずっとずーっと時人さんにコーヒーを淹れてあげるから」
 もう早新婚気分の美弥が照れ臭そうに言って笑い、その姿が儚い幻と重なる。
「あぁ、……幸せだ」
 煌く東京のネオンを眼下にコーヒーの豆を砕く音がし、香ばしい香りが鼻に届く。
「……葵さんも時人さんにコーヒーを淹れてたの?」
 ドリップポットで沸かした湯を注ぎ、少し蒸す。
「……そうだね。ほんの何回か淹れてくれて……、ブルーマウンテンが好きだという事も把握してくれた」
 その言葉に美弥はあの秋の日、時人が急に家を出て行ってしまったのを理解した。
 二人ともがお互いの存在を辛く思っていた時、時人の目に自分は葵そのものに見えていたのだろう。
「申し訳ない」と思うのも変だが、微妙な気持ちになる。
 けれど今は――、自分が時人を幸せにして、笑わせてあげたい。
 時人が葵の事で沢山泣いて悲しんだ分、葵の魂が入っているかもしれない自分が。

 二人でゆっくりとしたコーヒータイムを取り、時人は美弥に「お茶請け」と言って無造作に高級チョコレートの箱を出してきた。
「もらい物なんだが、あまり自分一人では食べる機会がなくて」
「そぉ? 頂きます」
 手をさまよわせてどのチョコレートを取るか迷い、美弥はハート型の物を摘まんで口に入れた。
「おいひぃ」
 チョコレートの甘さに顔を緩め、美弥がテレビの食レポをしている女性のような声を出す。
 こんなやり取りを、時人はあの失ってしまった夏の日の続きのように感じていた。
 今はもう、安心してこの笑顔を見守っていられる。
 時人が自然にリラックスした表情で美弥を見守っていると、その視線に気付いた美弥が照れながら距離を詰めてくる。
「ね、時人さん」
 頬を赤くしながらも美弥は明らかに何かを時人に期待していて、その若々しい反応が時人には少々眩しい。
「駄目だよ、沙夜ちゃんの許可が出るまでは下手な事はしない」
 だが時人もいい大人なので、くっついてくる美弥を拒みはしないものの、言葉の通り時人から行動を起こそうとはしない。
「もぉ」
 相変わらず『保護者』とか『大人』という態度を貫く時人に美弥は呆れ、少し困らせてやろうと時人の腕を両手で抱くようにしてから、至近距離で時人の横顔を見つめ始めた。
「……綺麗な顔」
「何だい、それ」
 女性に言われても嬉しくないと時人が笑い、ふとそのもみあげに美弥の指が触れる。
「時人さんも苦労したんだね、白髪あるよ。六十二だからかな?」
 こんなことを言うのはムードがないかもしれないが、美弥は時人に対するちょっとした悪戯の気持ちでそう言って笑ってみせる。
 が、その言葉に時人は色素の薄い目を大きく見開いた。
「白髪?」
 まるでそれは、毎日目にしている自分の手にほくろがあると、初めて他人に指摘されたような顔。
「ごめんなさい、ムードのないこと言っちゃった……」
 申し訳なさそうに美弥が言い、もみあげに触れていた指を話して誤魔化すように笑う。
 けれど、そうではない。
 時人が驚いたのはムードとかそういう事ではない。
「美弥、ちょっとごめん」
 時人はそう断って立ち上がり、リビングにある高級なチェストの上にある鏡の前に立ち、顔を斜めに向けた。
「……白い」
 鏡に映った時人のもみあげには、確かに数本だけ白いものが混じっていた。
 それを愛しむような目で見て指で撫で、そっと睫毛を伏せた時人の頬に、一筋の涙が流れる。
「どうしたの? 時人さん」
 それ程白髪を気にさせてしまったのかと思い、年上でも時人の事が好きだと伝えようと美弥が背後に立つ。
「……俺は、どうやら人間になれたかもしれない」
「え?」
「今まで……、白髪なんて生えた事がなかったんだ」
 振り向いた時人は、今にも泣き出してしまいそうな笑顔を浮かべていた。
 それは確かな証拠。
 時人が『人』として、正常な時間を刻んでいるという事実。
 化け物ではなく、人間として美弥と同じ長さの時間を歩いている事。
 佇む時人の頬を涙が滑り、静かな感動が彼を満たしてゆく。
「どうして……だろう?」
 時人の目の前に立った美弥は、ほっそりとした指でそっと時人の涙を拭ってやる。
 もう時人は昔のようにポロポロと泣く『泣き虫のお兄ちゃん』ではなくなったはずなのだが、どうにも涙腺が弱い所は変わっていないらしい。
「多分……、輸血じゃないかな」
 自分の手で涙をグイと拭い、時人が気持ちを落ち着かせようとソファに座り直してコーヒーを飲む。
「輸血? 刺された時の?」
「あぁ。俺を吸血鬼という化け物にしていたのはね、一代限りのものではなくて、宇佐美家に受け継がれる血なんだ。普通の人間の血に混じって、吸血鬼特有のウイルスのようなものがある。
 きっとそれが……刺されて輸血を受けた時、強い人間の血液に負けて白血球やら何やらに食べられていったのだと思う」
「……吸血鬼の血って、そんなに弱いものなの?」
 イメージでは、人ならざる者の血となれば強大なパワーがありそうだ。
「いいや。世の中に俺のような化け物の血を持つ者がどれぐらいいるかは分からないが、それはごくごく少数なんだと思う。それこそ人の目に触れて騒がれない程にひっそり。そういう少数の血は、圧倒的多数の人間の血に比べてずっと弱い劣性遺伝のものなんだと思うんだ」
「そう……なんだね」
 肩透かしを喰らった気分だ。
 これから先、自分が年老いても時人はこの魅力的な姿のままという運命を、背負ってゆく覚悟をしようとしていたのに。
 でも――、
「私、喜んでもいいの? 時人さんと一緒に生きていけるって思って、喜んでもいい?」
「当たり前だよ。俺だってこの呪われた体に長い間絶望していたんだ。だから……、嬉しい」
 最後の言葉は、笑い声と共に歯の間から抜ける空気のようにかすれてしまった。

 自分の人生にも葵の人生にも、何者にも、世界にすら要らないと思っていた後藤の存在は、時人の人生をある点では破滅に導き、ある点では再起へと導いたのだ。
 どんな人間にも、その人間なりの価値がある。
 例え万人から嫌われ、犯罪を犯したどうしようもない人間だとしても、その者がこの世に生を受けた事に何らかの意味はあるのだ。
 希望というものが光のようにある時、その傍らに影のように絶望はある。
 この世界に純粋な喜び、幸福だけという事はありえず、それに比例した量で悲しみや絶望があるのだ。
 それが、葵や美弥たちと出会う前の時人には感じられなかった、普通の人間としての人生のあり方。
 白髪という人の証を得て、時人はこれから六十秒を一分間とした歳の取り方をする事ができる。
 痛みに耐えるような顔で時人は目を瞑り、大きな感動に打ち震えていた。

 これで――、やっとまともに『人』として生きる事ができる。
 愛を告げた人――美弥と共に歩む事ができる。
 世の中の誰にも引け目を感じる事はなく、堂々と生きていく事ができる。

「時人さん?」
 心配そうに時人を見つめる美弥の目を真っ直ぐに見つめ、それまで儚い場所を孤独に歩んできた夢追い人の目が、しっかりと現実を前にして笑った。
「共に――、生きていこう」
 少年のように無邪気な笑顔で時人が言い、思い切り美弥を抱きしめた。
 鼻にかする美弥の芳しい香りは、以前よりもずっと薄れてしまった気がするが、今感じるのは秋月美弥という一人の人間の、少女らしい体臭や、香水の香りがする。
 もう美弥からは葵と同じ血の香りはしない。
 これは、時人が鼻にする『人』の匂い。

 それから時人は、ゆっくりと美弥に語っていった。

 この世に劣性遺伝として生まれた、孤独で感情というものを知ろうとしなかった、ベジタリアンの吸血鬼の話を。
 彼が若い時に素晴らしい女性と可愛らしい姉妹に出会い、二人がどうやって惹かれ合い、どうやって別れたのか。
 繋がっていった命の螺旋が、今目の前で自分を望んでくれている、一人の美しい少女へと導いてくれた事。

 二人がこれから人として、どうやって幸せになっていくのか。

 ゆっくりと、ゆっくりと。
 二人の時間はまだ、始まったばかりだから。

                      完
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