輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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 二〇四八年 六月

 酷い寝汗をかいて時人が起きた。
 また、『あの』夢だ。
 あれから三十年以上の時間が過ぎようとしているのに、まだ時人の鼻に生々しい血の臭いが残る。
 夢の中で葵は重みを失った肉の塊になり、血の気を失った無表情の顔は眠っているようにも見えるが、それが時人を苦しめる。
 後藤の絶叫は、一生耳から離れる事はないだろう。
 現場から逃走した後藤が、何者かに襲われて酷い目に遭ったという話は、世間には伏せられている。
 時人と争って喚いていた後藤の声が届いたのか、後藤はすぐに発見されて搬送され、その先に警察が駆け付けたのだという。
 近距離で起きた事件として葵の事件と後藤の事件は結び付けられ、葵の体内から見つかった体液と後藤のDNAが一致し、後藤はまもなく逮捕された。
 他にもマンションの防犯カメラに後藤の姿が映っていたり、隣に住む夫人が聞き込みに後藤と思われる男性が訪れる度に、葵の部屋から大きな音と悲鳴が聞こえて来たと証言した。
 だが不可解なのは痛ましい事件の犯人である後藤が、すぐ近くで何者かに襲撃されていたという事だ。
 後藤を襲った犯人は、と警察はそちらの方にも捜査の手を伸ばそうとしたが、その前に警視総監と友人である時人の父の力が及び、時人の名前が明るみに出る事はなかった。
『あの晩』、酷い顔色で帰宅した時人を父は一発だけ殴り、母は蒼白な顔で静かに泣いて、それから時人は部屋に閉じこもった。
 シャワーを浴びても、幾ら体を洗っても、血の香りがプンプンと彼を包んで離れない。
 もしかしたら嗅覚に刻み付けられてしまったのかもしれない。
 葵の芳しい血の香りがしたかと思えば、後藤の汚らしい血の臭いがし、時人を混乱させる。
 カーテンを閉め切った部屋で、時人は虚ろな澱の中にいた。
 葵を喪ってしまった事が信じられないという気持ちが、いま自分が見ている現実は全て嘘なのだと言わせたがっている。
 目を閉じれば、葵の優しい声が聞こえる気がする。
 葵の優しい手が、時人の止まらない涙を拭ってくれている気がする。
「泣かんといて下さい」と、困ったように微笑んでいる気がする。
 彼女の春に満ちた瑞々しい果物のような香りが鼻をかする気がする。
 酷いクマができてしまった目蓋を重たく開き、天井を見上げて薄暗い空間に手を伸ばす。
 そこに葵がいて、その手を握ってくれる気がし、時人は目に見えない幻を追い求めていた。
 後藤は警察病院で治療を受けた後、裁判にかけられるそうだが知った事ではない。
 怒りと憎しみのままに凶行を犯してしまった時人だが、後藤の命を奪わなかった事に今更ながら安堵していた。
 自分が人殺しをしなかった事に安堵していた訳ではない。
 後藤に、冥府の神の元へ行った葵を追い掛け回すような事をさせなくて良かったという思いで安心していたのだ。
 閉め切ったドアの向こうから、父が無機質な声で落ち着いたら世話になった警視総監に挨拶をしなさいと言っていたのと、時人が姿を見られてしまった夫人に金を握らせて、多少の圧力をかけて口封じをしておいたと聞こえた気がしたが、それもどうでもいい。

 復讐は果たした。

 けれど、――何と味気ないものか。
 生き地獄の目を遭わせてこちらの気がスッキリするかと思えば、そんな事は決してない。
 気持ち悪い後味の悪さが尾を引くが、それは決して後悔などではない。
 命の重さは同じ、とどこかの聖人が言ったり、善良な人がそう言っているのをどこかで耳にした気もするが、今はそうは思えない。
 葵の命と、あの虫けらの命の重さが同じであっていいとは思わない。
 因果応報。
 そう思うようにした。
 だからきっと葵は次の生を受けて幸せになる。
 そういう風にしか、時人は自分を慰める事ができなかった。
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