21 / 51
現在5
しおりを挟む
二〇四八年 六月
酷い寝汗をかいて時人が起きた。
また、『あの』夢だ。
あれから三十年以上の時間が過ぎようとしているのに、まだ時人の鼻に生々しい血の臭いが残る。
夢の中で葵は重みを失った肉の塊になり、血の気を失った無表情の顔は眠っているようにも見えるが、それが時人を苦しめる。
後藤の絶叫は、一生耳から離れる事はないだろう。
現場から逃走した後藤が、何者かに襲われて酷い目に遭ったという話は、世間には伏せられている。
時人と争って喚いていた後藤の声が届いたのか、後藤はすぐに発見されて搬送され、その先に警察が駆け付けたのだという。
近距離で起きた事件として葵の事件と後藤の事件は結び付けられ、葵の体内から見つかった体液と後藤のDNAが一致し、後藤はまもなく逮捕された。
他にもマンションの防犯カメラに後藤の姿が映っていたり、隣に住む夫人が聞き込みに後藤と思われる男性が訪れる度に、葵の部屋から大きな音と悲鳴が聞こえて来たと証言した。
だが不可解なのは痛ましい事件の犯人である後藤が、すぐ近くで何者かに襲撃されていたという事だ。
後藤を襲った犯人は、と警察はそちらの方にも捜査の手を伸ばそうとしたが、その前に警視総監と友人である時人の父の力が及び、時人の名前が明るみに出る事はなかった。
『あの晩』、酷い顔色で帰宅した時人を父は一発だけ殴り、母は蒼白な顔で静かに泣いて、それから時人は部屋に閉じこもった。
シャワーを浴びても、幾ら体を洗っても、血の香りがプンプンと彼を包んで離れない。
もしかしたら嗅覚に刻み付けられてしまったのかもしれない。
葵の芳しい血の香りがしたかと思えば、後藤の汚らしい血の臭いがし、時人を混乱させる。
カーテンを閉め切った部屋で、時人は虚ろな澱の中にいた。
葵を喪ってしまった事が信じられないという気持ちが、いま自分が見ている現実は全て嘘なのだと言わせたがっている。
目を閉じれば、葵の優しい声が聞こえる気がする。
葵の優しい手が、時人の止まらない涙を拭ってくれている気がする。
「泣かんといて下さい」と、困ったように微笑んでいる気がする。
彼女の春に満ちた瑞々しい果物のような香りが鼻をかする気がする。
酷いクマができてしまった目蓋を重たく開き、天井を見上げて薄暗い空間に手を伸ばす。
そこに葵がいて、その手を握ってくれる気がし、時人は目に見えない幻を追い求めていた。
後藤は警察病院で治療を受けた後、裁判にかけられるそうだが知った事ではない。
怒りと憎しみのままに凶行を犯してしまった時人だが、後藤の命を奪わなかった事に今更ながら安堵していた。
自分が人殺しをしなかった事に安堵していた訳ではない。
後藤に、冥府の神の元へ行った葵を追い掛け回すような事をさせなくて良かったという思いで安心していたのだ。
閉め切ったドアの向こうから、父が無機質な声で落ち着いたら世話になった警視総監に挨拶をしなさいと言っていたのと、時人が姿を見られてしまった夫人に金を握らせて、多少の圧力をかけて口封じをしておいたと聞こえた気がしたが、それもどうでもいい。
復讐は果たした。
けれど、――何と味気ないものか。
生き地獄の目を遭わせてこちらの気がスッキリするかと思えば、そんな事は決してない。
気持ち悪い後味の悪さが尾を引くが、それは決して後悔などではない。
命の重さは同じ、とどこかの聖人が言ったり、善良な人がそう言っているのをどこかで耳にした気もするが、今はそうは思えない。
葵の命と、あの虫けらの命の重さが同じであっていいとは思わない。
因果応報。
そう思うようにした。
だからきっと葵は次の生を受けて幸せになる。
そういう風にしか、時人は自分を慰める事ができなかった。
酷い寝汗をかいて時人が起きた。
また、『あの』夢だ。
あれから三十年以上の時間が過ぎようとしているのに、まだ時人の鼻に生々しい血の臭いが残る。
夢の中で葵は重みを失った肉の塊になり、血の気を失った無表情の顔は眠っているようにも見えるが、それが時人を苦しめる。
後藤の絶叫は、一生耳から離れる事はないだろう。
現場から逃走した後藤が、何者かに襲われて酷い目に遭ったという話は、世間には伏せられている。
時人と争って喚いていた後藤の声が届いたのか、後藤はすぐに発見されて搬送され、その先に警察が駆け付けたのだという。
近距離で起きた事件として葵の事件と後藤の事件は結び付けられ、葵の体内から見つかった体液と後藤のDNAが一致し、後藤はまもなく逮捕された。
他にもマンションの防犯カメラに後藤の姿が映っていたり、隣に住む夫人が聞き込みに後藤と思われる男性が訪れる度に、葵の部屋から大きな音と悲鳴が聞こえて来たと証言した。
だが不可解なのは痛ましい事件の犯人である後藤が、すぐ近くで何者かに襲撃されていたという事だ。
後藤を襲った犯人は、と警察はそちらの方にも捜査の手を伸ばそうとしたが、その前に警視総監と友人である時人の父の力が及び、時人の名前が明るみに出る事はなかった。
『あの晩』、酷い顔色で帰宅した時人を父は一発だけ殴り、母は蒼白な顔で静かに泣いて、それから時人は部屋に閉じこもった。
シャワーを浴びても、幾ら体を洗っても、血の香りがプンプンと彼を包んで離れない。
もしかしたら嗅覚に刻み付けられてしまったのかもしれない。
葵の芳しい血の香りがしたかと思えば、後藤の汚らしい血の臭いがし、時人を混乱させる。
カーテンを閉め切った部屋で、時人は虚ろな澱の中にいた。
葵を喪ってしまった事が信じられないという気持ちが、いま自分が見ている現実は全て嘘なのだと言わせたがっている。
目を閉じれば、葵の優しい声が聞こえる気がする。
葵の優しい手が、時人の止まらない涙を拭ってくれている気がする。
「泣かんといて下さい」と、困ったように微笑んでいる気がする。
彼女の春に満ちた瑞々しい果物のような香りが鼻をかする気がする。
酷いクマができてしまった目蓋を重たく開き、天井を見上げて薄暗い空間に手を伸ばす。
そこに葵がいて、その手を握ってくれる気がし、時人は目に見えない幻を追い求めていた。
後藤は警察病院で治療を受けた後、裁判にかけられるそうだが知った事ではない。
怒りと憎しみのままに凶行を犯してしまった時人だが、後藤の命を奪わなかった事に今更ながら安堵していた。
自分が人殺しをしなかった事に安堵していた訳ではない。
後藤に、冥府の神の元へ行った葵を追い掛け回すような事をさせなくて良かったという思いで安心していたのだ。
閉め切ったドアの向こうから、父が無機質な声で落ち着いたら世話になった警視総監に挨拶をしなさいと言っていたのと、時人が姿を見られてしまった夫人に金を握らせて、多少の圧力をかけて口封じをしておいたと聞こえた気がしたが、それもどうでもいい。
復讐は果たした。
けれど、――何と味気ないものか。
生き地獄の目を遭わせてこちらの気がスッキリするかと思えば、そんな事は決してない。
気持ち悪い後味の悪さが尾を引くが、それは決して後悔などではない。
命の重さは同じ、とどこかの聖人が言ったり、善良な人がそう言っているのをどこかで耳にした気もするが、今はそうは思えない。
葵の命と、あの虫けらの命の重さが同じであっていいとは思わない。
因果応報。
そう思うようにした。
だからきっと葵は次の生を受けて幸せになる。
そういう風にしか、時人は自分を慰める事ができなかった。
0
お気に入りに追加
60
あなたにおすすめの小説
王子様な彼
nonnbirihimawari
ライト文芸
小学校のときからの腐れ縁、成瀬隆太郎。
――みおはおれのお姫さまだ。彼が言ったこの言葉がこの関係の始まり。
さてさて、王子様とお姫様の関係は?
フォーチュンリング
饕餮
恋愛
ゲームや本だけの世界だと思ってた。
自分の身におきるなんて、考えてもいなかった。
ある日、家族が事故に巻き込まれ、両親と兄が死んだ。祖父母はその遺体確認のために出掛け、私は一人、庭に出てホタルブクロを見ていた。母の大好きだったホタルブクロを。
その時突然ホタルブクロが光り、「助けて」と言う声と共に、私の魂はその光に導かれるように過去へと飛ばされ、運命の出逢いを果たした。そして使命を果たすものの、結局は別れる事になった。
『瀬を早み
岩にせかるる
滝川の
われてもすゑに
あはむとぞおもふ』
それは、叶う事のない約束。
逢いたい、でも、逢えない。
出逢うはずのない魂は出逢い、出逢うはずのない魂は別れた。
――定めのままに。
そして再び出逢うはずのない魂が出逢った時――
運命の輪が、廻りだす――
★処女作であり、習作です。
タイムトラベル同好会
小松広和
ライト文芸
とある有名私立高校にあるタイムトラベル同好会。その名の通りタイムマシンを制作して過去に行くのが目的のクラブだ。だが、なぜか誰も俺のこの壮大なる夢を理解する者がいない。あえて言えば幼なじみの胡桃が付き合ってくれるくらいか。あっ、いやこれは彼女として付き合うという意味では決してない。胡桃はただの幼なじみだ。誤解をしないようにしてくれ。俺と胡桃の平凡な日常のはずが突然・・・・。
気になる方はぜひ読んでみてください。SFっぽい恋愛っぽいストーリーです。よろしくお願いします。
元カノと復縁する方法
なとみ
恋愛
「別れよっか」
同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。
会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。
自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。
表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~
菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。
だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。
蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。
実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる