輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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過去4-3

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 気付いていた。
 彼女のマンションに近付くほど、彼女のあの甘い血の香りが強くなっていた事に。
 まさか、という気持ちを振り払い、不吉な想像してしまいそうになる頭をフリーズさせて、時人は葵のマンションへ辿り着き、その隣にあるビルの壁を蹴って葵の部屋があるフロアに着地した。
「ひっ」
 外に出ていた隣人らしい夫人が、時人の登場に悲鳴を上げて腰を抜かす。
「葵さんは!?」
 だが時人はそんなものに構っていられない。
 自分の異常性が露見されるよりも、今は葵の安否が先だ。
「あ……葵ちゃんは……、さっき、物凄い音と悲鳴が聞こえて……、いつもの……、あの自称彼氏だとかいう人が来てたんじゃないかしら……、それよりあなた、今」
「念のために救急車と警察をお願いします」
 乾ききった喉に無理矢理唾を押し込んで飲み込み、時人は葵の部屋のドアを開いた。

 音楽が聞こえる。
 これは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。

 葵がいつだったか、照れながら「こんな風にリサイタルをするのが夢なんです」と、イヤフォンを片方貸してくれた時に流れていた曲だ。
 気分がいい時にいつも聴く曲だと彼女は言っていた。
 これから時人と共に暮らせる事を思って、少しでも自分の不安を打ち消したいがためにCDを流していたのだろうか。
「葵さん……?」
 そろり、と声を出して葵を呼ぶと、音楽が掛かっている以外は背筋がヒヤリとするほどにシンとした部屋に時人の声が落ちる。
 時人の手は自然と自分の下腹部を押さえていた。
 そうでもしないと、この濃厚な血の香りに刺激されて、下半身が意に反した現象を起こしてしまいそうだったからだ。
「あおい……、さん」
 部屋へ入り、以前はあの幼い姉妹のはしゃいだ声が響いた部屋は、暗鬱たる空気に満ちている。
 自然と、呼吸も動悸も速くなっていた。
 破壊されたトイレのドアからは、明かりが漏れてその床に葵のスマホが落ちていた。
 あそこから、震える指であの一言だけをやっとの思いで送信したのだろうか。
「葵さ――」
 洗面所の横を通り抜け、リビングに入って時人が声を失った。

 死がある。

 直感的にそう感じたのは、どうしてだろう。
 毒になってしまいそうなこのプンプンとした甘い匂いが、致死量だと分かったからだろうか。
 それとも――、時人の中の人ならざる力がそのような直感を得ていたのだろうか。

 葵はいた。

 窓にすがりつくように片手を掛け、その身にレールから外れてしまったレースのカーテンを、花嫁のヴェールのように被って。
 その腹から、にょきりと異物を生やして。
「あおいさん……?」

 もう助からない――、と頭のどこかで誰かが言い、
 まだ間に合う――、と頭のどこかで誰かが言った。

「と……、き、……、さ」
 今にも消えてしまいそうな声が震える息と共に聞こえ、そこで時人は我に返って葵の側へ駆けつけた。
「葵さん! しっかりして下さい! 救急車と警察を頼みましたから!」
 大声を出す時人に、葵は蒼白になってしまった顔でうっすらと微笑む。
 色白だった肌は紙のように真っ白で、健康的なピンクだった唇も色を失っていた。
「……ん、で」
「何ですか!? 今はいいですから! 後で病院で聞きますから!」
 時人の目から涙が零れ、葵の顔にポタポタと雨粒のように落ちる。
 その涙を、葵は血の気が失せて酷く寒く感じる体に、とても熱く感じていた。

 ああ、時人さんの涙がこんなにも熱い。
 この人は温かな心を持った人。
 私のたった一人の大切な人。
 優しくて、涙もろくて、誰よりも愛しい人。
 泣かないで。
 どうか、泣かないで。

 そう言いたいのに呼吸はとても弱く、声を出す事ができない。
 壮大なピアノ協奏曲がまるで葬送曲のように思え、大好きなこの曲を流していて良かったな、と葵は薄れゆく意識の中で思う。
 幼い頃から音楽が大好きで、両親が買い与えてくれたピアノが大好きで、いつかピアニストになって世界を駆けまわり、大きなホールでコンサートを開くのが夢だった。
 夢――、に終わろうとしている。

 けれどいいの。
 私は自分の夢は叶えられなったけれど、心から愛する人に出会って恋をするという夢は叶えられたもの。
 誰よりも優しい人とほんの少しの時間でも一緒にいて、心の底から笑い合えて幸せだと思えた。
 ――幸せ、だった。

「葵さん……っ! 頑張って下さい! もう少しで救急車が来ますから!」
 時人の整った顔が涙でグシャグシャになり、葵の大好きな大きな手が優しく何度も何度も撫でてくれる。

 時人さん、泣かないで。
 あなたが悲しむほど私、そんなにもう苦しくないの。
 あなたが悲しい方が、私は辛いの。

 できる限りの力で息を吸い、何かを言おうとして葵はガフッと咳き込み、血を吐いた。
 葵の体は滅多刺しにされていた。
 後藤が凶器を振り回したのか、腕や脚にも深い切り傷があり、特に酷いのは胸部や腹部。
 そしてとどめとばかりに葵の腹から包丁の柄が生えている。
 もう彼女が虫の息なのは時人にも分かっていた。
 シンとした部屋の中に重厚なラフマニノフが流れ、葵の細い呼吸が喉をヒューと鳴らす。
「葵さん、必ず助かりますからね! あなたはこれから俺と一緒に生きるんです! 両親は家で同居していいと言ってくれました。だから……、だから」
 涙声で必死に葵の意識を取り留めようとする時人の声に、葵は薄く微笑んで自分の頭を撫でる時人の手に、もはや感覚のなくなってしまった手でそっと触れた。

 ああ――、腕がこんなに重たい。
 これじゃあピアノは弾けないなぁ。

「何ですか? 葵さん。痛いですか? 痛いですよね? もう少しですから、もう少し、だから――」
「とき、ひと……さん。わたしの……、ち、を、……あげ、……る」
「……!」
 葵の死に際の言葉に、時人は頭を強打されたようなショックを受けた。
「わた、し……を、……あな、……た、の、……いち……ぶ、に、っし、……て」
 そう言われて初めて、時人は自分の化け物の血を思い出した。
 もしかすれば今葵の血を飲めば、彼女を仲間にできる――?
 彼女を救える――?
 だが、何かに気付いたような時人の顔に、葵は小さく一つだけ頭を振った。
 その黒い瞳の中に、最後まで人でありたいという意志を汲み取ったのは時人なのか、それとも彼がそう読み違えたのか。
 それきり葵は疲れてしまったように長い睫毛を伏せ、動かなくなってしまった。
「……葵さん」
 弱々しい鼓動が、どんどん小さくなってゆく。
「あおい……さん」

 嘘だ。

 目の前で命が終わろうとしている。
 手の中で大切な人が逝こうとしている。
 指の間から、サラサラとした砂のように命が零れてゆく。

 ――ふつり。

 テレビの電源が切れるように、葵の意識が切れた。

 もっと時人さんと一緒にいたかったな。
 時人さんと結婚したかった。
 時人さんを幸せにしてあげたかった。
 時人さんの涙を拭ってあげたかった。
 時人さん、だいすき。

 そんな溢れるような思いを遺して、葵は時人に二度と笑顔を見せる事はなくなってしまった。

「あおいさん……」
 滂沱の涙をそのままに、時人が力の抜けた声を出す。
「あおいさん……?」
 幻に呼び掛けるような声でそっと葵の肩を揺すると、ゴロ、と頭が揺れた。
「……」
 生々しいその『肉』の反応に時人はギクリとし、背中に氷を入れられたように全身が震え、また涙で目の前が曇ってしまう。

 嘘だ。
 こんなの、嘘だ。
 葵さんは俺を光の中へグイグイと引っ張っていってくれるような、太陽のような人で。
 こんな人形のような肌の色じゃなくて。
 もっと――、生気に溢れていて。
 夢があって。
 そうだ、彼女はピアニストになるんだ。
 彼女の手はとても綺麗で。

 ――葵の手はハンマーでグチャグチャに潰されていた。

 彼女は俺とこれから一緒に暮らして、ゆくゆくは結婚して。

 ――時人と幸せな愛の時間を育んだはずの葵の体は、乱暴に犯された跡があった。

 彼女は――。
 葵さんは――。

 幸せだった幻想を思い起こそうとするものの、それは時人の頭からボロボロと風化したレンガのように崩れ落ちてゆく。

 綺麗な思い出にひびが入り、
 誰よりも美しかった笑顔は痣だらけの顔になり、
 彼女が紡いでいた美しい音楽は――、
 ――もう聴く事はできない。

 CDの演奏はいつの間にか終わっていて、文字通り静寂が支配する部屋の中に濃密な血の臭いと、死の色だけがとっぷりと澱のように溜まっていた。
 そこにいるのは滅多刺しにされ、衣服を破かれ強姦された葵。
 好きな人の危機に間に合わず、呆然としている時人。
「あおいさん」
 焦点を失った時人の目が動かない葵を見て、そっと唇を重ねた。

 最後のキスは、血の味がした。
 最初のキスも、血の味だった。

「……っ、は」
 動かない空気の中で、時人の息遣いだけが熱帯夜の重苦しい湿気のような音を立てる。
 何も動かない部屋の中で、時人だけが蠢いていた。
 自制を失った赤い瞳が光り、ピチャピチャと音をたてて葵の血を舐める。

 ――美味しい。
 ――美味しい。

 甘くて、喉に絡みついて、官能的な味がして。
 蟲惑的な甘味。
 脳がその味に陶酔を覚える。

 ――違う、違うんだ。
 俺はこんな事がしたいんじゃなくて。
 一刻も早く助けを呼んで、葵さんを助けてあげたいのに――。

 体が性的に反応した状態で、時人は服が血で汚れるのも構わず、床に這いつくばって葵の血を舐め、葵の肌を舐め回した。
 自分は何をしているのかという信じられない気持ちを頭の片隅に置きつつ、舌と体は本能のままに葵を求める。
 自分は今禁を犯していると頭の中で赤いランプが点滅しているのに、芳しい血の香りを吸い込んだ鼻孔から快楽が脳に届き、時人の理性を崩す。
 そして彼は薄闇の中、愛しい女の血を浅ましく舐め続けるのだ。
 その理性を失った双眸から、化け物の涙を流して。
 己の舌が舐め取り、味わっているのは罪の味だと思いながら。
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