輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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過去1-5

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 姉妹の母親の実来がマンションを訪れたのは、夕方になってからだった。
「ママ!」と玄関に走って行く姉妹の背中を追い掛けて、時人も自己紹介をどうしたものかと思いながら玄関へ向かった。
「葵、預かっててくれておおきに」
 実来はよそ行きの格好で髪は綺麗にカットされ、ついでにあちこち見て回ったのか手には洋服が入った袋や、菓子や惣菜などが入っている紙袋も提げていた。
「こんにち……ああ、ええと、こんばんは。初めまして」
 奥からひょっこりと顔を出した時人を見て、実来はきょとんとして妹の顔を見る。
 実来はなるほど葵の姉だけあって、確かな美貌の持ち主だった。恐らく一華と沙夜もこの血を受け継いだ美人になるのだろうか。
「葵、こちらさんは?」
「宇佐美時人さんっていうの。公園でさっちゃんのおトイレに寄ってたら、いっちゃんがちょっと走って行ってもて。それで遠い所で転んでたのを、時人さんが助けてくれはったの」
「まぁ。それはおおきに。こら、いち。葵ちゃんから離れたらあかんて言うたでしょ?」
「えへへ、はぁい」
 実来に怒られるも、一華は反省した様子はなく実来の足元にべったりとくっついている。
「お姉ちゃん、ちょっと上がってく?」
「そやね、お茶一杯だけお願い」
 子供たちに纏わりつかれながら実来も葵の部屋に上がり、手土産に持ってきたゼリーを食べる事になった。
「……けど、葵も隅に置いとけへんなぁ。こぉんな男前捕まえて」
「えぇ? いやや、そんなんやないもん」
 実来と葵の姉妹の会話を聞いていると、綺麗な京都弁が耳に心地いい。
「嘘だぁ、葵ちゃんお兄ちゃんの事イシキしてる癖に」
 大きな声で言ったのは一華だ。
 沙夜は二人がいい雰囲気になっていたのは、自分だけの秘密にしておきたいという気持ちがあったのか、横目で姉を睨んでいる。
「こら、いち。時人さんをおちょくったらあきまへん」
「えへへ、はぁい」
 そんな会話を聞きながら、時人は普段あまりゼリーは食べないが、この家族と食べる物なら美味しく食べられる気がした。
「けど安心した。葵が他の男の人に興味を持って」
「え?」
 実来の言葉は時人に不安を与えた。
 まるで半紙にボトリと落とされた墨汁のように。
『他の』という事は、時人以外に誰かがいたという事だ。
 元彼が忘れられなかったとか、そういう背景が――?
 一気に不安になってしまった時人をそっと見て、葵が「お姉ちゃん」とやんわりたしなめる。
「ううん、言わせて。時人さん、あなたええ人そうやさかい言わせてもらいます。この子、えらい乱暴な男に掴まってもて。私も親も別れろって言うてんのにズルズルした関係を引きずってるんです。……もし時人さんが本気でこの子を好きになってくれはったら……、どうか助けたって下さい」
 実来の声は切実だった。
 けれど、時人も臆病な訳ではないが、まだ付き合うとも決まっていないのに、その言葉に二つ返事で「助ける」と言うほどできた人間でもない。
 ちら、と葵を見ると「ごめんなさい」という表情で苦く笑い、緩く首を振っていた。
「……暴力を受けているんですか?」
 ゼリーを食べ終わった姉妹は、実来のスマホを貸してもらってゲームをしていた。
 潜められた時人の声に、葵は力ない視線を落とす。
「……あんまり私を大切にしてくれはるお人やなくて」
 その多少ぼかした言い方からでも、時人は不快になってしまった。
 誰にも穢されてはいけないこの女神のような女性を、乱暴に扱っている男がいるだなんて、想像しただけで腹立たしい。
「……葵は優しい子なんです。あの男に出会うまで、お付き合いをした事もあらへんのです。告白されて断れへんでズルズル付き合ってもたけど、ほんまはあんな男より時人さんみたいな優しそうな人の方が、ずぅっとお似合いやと思います」
 実来の言葉は姉だからこそ、真実味と重みがある。
 世界に祝福されているような葵が、こんな闇を抱えていただなんて想像もしなかった。
 昼間、あんなにも美しい音楽の世界で輝いていたのに。
 可愛らしい姪っ子に囲まれ、自分の奏でる音を一音一音大切に聴き手に届け、女神のような横顔で天からの恩恵を時人にも与えてくれていたのに。
 自分の手を見る。
 宇佐美家の嫡男であれと、護身術や武術を叩き込まれたこの拳。
 食べる物に偏りがあるので筋骨隆々とはいかないが、喧嘩になって相手の拳を避けるぐらいはできるだろうと思う。
 合気道の技をかければ、カウンターも可能だろう。
 だが自分から進んで喧嘩をした事はないし、道場の師範にも決して教えた技を喧嘩で使ってはならないとも、きつく言われていた。
 けれど――、好きになった女性を守るためなら……。
 胸の奥に徐々に固まりつつある決意は、時人に初めて戦う男としての顔つきをさせる。
 そして時人には武術や護身術を教わったという事以外に、勝算があった。
 幾ら外見が痩せていると見られて舐められても、時人には並の人間には負けないという自負がある。
 けれどそれは――。

「時人さん」
 自分の拳を見て思い詰めている時人の手を、隣から葵がそっと握った。
「ええんです。お姉ちゃんが堪忍です。私を心配してくれての事やて分かってるんですが、初対面の時人さんにお願いする事やあらしまへん」
 やんわりと突き放され、時人は傷付いた目で葵を見るしかできない。
「葵、でもね」
「お姉ちゃん」
 尚も言葉を被せようとする未来に、葵がまた頭を振る。
「自分の不始末ぐらい、自分でつけさせて。自分で好きになった人は、自分で手に入れたいの」
 葵がハッキリと時人のことを「好きになった人」と言ったので、時人は驚いて葵を見た。それを見て実来は満足そうに微笑んでいる。
「……時人さんはどうなんですか? ああ、堪忍です。まるでこれじゃあ私お姑さんやね」
 実来は妹が心配なあまりにくどくなってしまう自分を恥じたが、それでも妹の前に現れた時人は、とても優しそうで誠実な青年に見える。
 そこには生まれた土地を離れて一人暮らししている可愛い妹を、何とかして条件のいい男性に結び付けたいという姉の愛情があった。
「……俺も、葵さんに惹かれています。ただ、お付き合いをするのなら、やはり相応の手順を踏んでから正式にお付き合いたいをしたいと思います」
 時人らしい誠実な答えだった。
「……そうですね、それが筋でしょうね」
 実来が溜息混じりに笑い、時人がすぐに葵を救ってくれるような言動をしなかったので、やや気落ちしたように髪を掻き上げて紅茶を飲む。
 本心としては葵が今付き合っている男から奪うぐらいの気概が欲しいが、そんな強引なやり方をする相手なら、時人もその程度の男という事になるのだ。
 冷静に判断する時人だからこそ、彼が葵に相応しいと思う。
「ママ帰ろうよぉ」
 スマホから顔を上げた一華がそう言い、実来が時計を確認した。
「そうやね、お家帰ろうか」
 そんな言葉を耳にして時人も時計を見るが、その手を葵が握ってくる。
「……良かったら、ご飯食べてかはりませんか?」
 黒い目の奥に隠された情熱があった。
「……頂きます」
 そして、女性からのそれを断るほど時人だって野暮ではない。
「ほな葵、ほんまにおおきにね。いち、さや。ちゃんとお礼して」
「葵ちゃんどうもありがとう!」
「葵ちゃんごちそうさまでした! お兄ちゃんもバイバイ!」
「今日は一日おおきにさんでした、またね」
「いっちゃん、さっちゃんバイバイ」
 玄関で時人と葵が母子を見送り、実来はその二人がまるで新婚夫婦のようにも見え、まだ時人という青年のことを詳しく知らないながらも、妹が幸せな恋愛をすることを祈った。
「……ご飯、何なら食べれますか?」
 リビングの方へ戻りながら葵が尋ね、その肩に時人がそっと手をやる。
「……聞きたい事があります」
 趣味のいい版画が飾られた廊下で、ぽつり、と時人の声が落ちる。
「……そう、ですね。私、まだちゃんとお話してませんね」
 肩に載せられた手に手を重ね、それを握って葵が時人を先導してリビングへ戻った。
「どうぞ座って。お茶は」
「いいんです。それよりあなたの話を」
 時人に促されて葵は彼の隣に座り、また時人の大きな手を握って彼の目を見つめ、打ち明ける。
「私、厳密には現在お付き合いしてる人がいてます。合コンで出会った美術大の絵描きさんです。けど、あんまり大切にしてくれはらなくて……。時人さんに嘘つこうと思ってたとかやないんです。その人とはお別れするつもりでいましたさかい」
 葵の告白を、時人は悲しい目で聞いていた。
 こんな優しくて綺麗な人が、本来なら与えられるべき幸福な愛情を受けず、悲しい思いをしていただなんて、想像もしたくない。
 こういう綺麗な人こそ、自分とは違って絵に描いたように幸せであるべきなのに。
 それはまた、時人の葵への勝手な幻想だった。
 葵は彼の表情を見て愛しそうに微笑み、触れた手をそっと撫でる。
「私はエスカレーター式のお嬢様育ちで、……多分男の人を見る目がなかったんやと思います。……けど、今やっと自分が心から好きやと思える人に出会えたんです」
 涙を流している時人を見て、葵も泣き出しそうな顔でクシャッと笑ってみせた。
「初対面とかそういうの、ほんまに好きになれたら関係ないんやと思います。出会ってからの時間がどうであれ、時人さんがえらい優しくて純粋なお人やてすぐに分かります」
 長い睫毛を伏せ、時人の手を握って自分の胸元でぎゅっと握る。
 そして、告げた。
「時人さんが好きです。お付き合いして下さい」
 葵が知らない扉を次々に開けてゆく。
 女性を好きになるという事。
 本来なら時人の方が年上の男性らしくリードしなければならないのに、葵はどんどん先を歩いて時人を光の差す道へと導いてくれる。
 自分がリードしなければ、と思うのに、葵はまるで子供が知らない土地を恐れもなく走り抜けるかのように、どんどん先へ先へと進んでゆく。
 花が綻ぶような笑顔を浮かべ、葵の黒曜石の目にも水晶の涙が浮かび上がる。
「人を好きになるって、こんなにドキドキして自分の知らん部分をどんどん知ってくって、初めて知りました。きっと、これから時人さんとお付き合いしたら、私もっと変わってくんやないかしら」
 二人の間には新しい風が吹いて、手を取り合った彼と彼女は新天地を歩こうとしていた。
「私、きっと時人さんとなら上手くやってける気ぃするんです。今の人とはちゃんとお別れしてきますさかい、ほしたらお付き合いして下さい」

 女性に何を言わせてしまっているんだろう。
 本当は俺から告白をしなければならないのに。

 興奮して体温の上がった葵からは、あのいい香りが濃密に漂っていた。
 この上ない幸福に包まれた時人は、とろりとした陶酔に包まれて――つい、気を緩めてしまった。
 幸せそうに細められた目が、赤く光る。
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