輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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過去1-3

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 葵のマンションは、目白にあった。
 京都から出てきた音大生だというから、一人暮らしのアパートを何となく想像していたのだが、なかなかに立派なマンションの最上階にあって、時人は葵への印象を内心変えつつある。
 そういう時人の実家も港区の赤坂にあるので、あまりどうこう言うつもりもないのだが。
「あっつーい!」
 一華が大きな声を出して部屋の中に入り込み、葵にクーラーをせがむ。
「葵ちゃん、シャワー入りたい」
 汗でビショビショになってしまった沙夜が泣きそうな顔で言い、葵は「そうやね」と言ってちょっと困った顔で時人を見た。
「時人さん、この子たちシャワーに入れてきますさかい、ちょっと座って待っててくれはりますか?」
「いいですよ。お構いなく」
 葵に勧められて時人がアイボリーのソファに座ると、テーブルに冷たい麦茶がコースターに載せられて出てきた。
「ほな、すぐに出てきます」
 子供たちの荷物だろうか。よく子供連れの母親が持っていそうな大きなバッグから葵が姉妹の着替えを出すと、「行こ」と姉妹を連れて洗面所の方へ行ってしまった。
 かしましい声はやがてドアを隔てた中で反響する声となり、水音がする。
 それを微笑ましく耳にしながら、時人はこんな展開になった今日一日を記念すべき日だと感じていた。
 初めはいつも通りの休日が始まり、使用人に「家にいるのも不健康だから」と追い出されるようにして外へ出たのだ。
 大きな公園を目的地にしてブラブラと歩き回り、食べていなかった朝食を補うために、途中でトマトジュースのペットボトルを買ってそれを片手に歩き回っていたのは、少し変な人と思われたかもしれない。
 毎週、そんな感じだった。
 平日は大学に通い、将来は宇佐美の跡取りとして、様々な経営を父から任せられる人間にならなくてはならない。
 けれど、「しなければならない」稽古事や勉強の他に興味を持てるものはなく、もちろん大学でサークルに入る事もなくぼんやりとした毎日を過ごしていたのだ。
 時折、友人から誘われて合コンに参加し、空気のように隅の方で酒を飲む事もある。
 いつもなら賑やかな友人が女性を誘う事に成功し、自分は人数合わせの役目を終えて帰るのだが、時々奇特な女性が時人に声を掛けてくる。
 時人はいわゆる近寄り難いタイプの美形で、それでもそういう雰囲気の男性を好む女性はごくたまにいる。
 時人自身もあまり物事を強引に進めるタイプでもなく、女性に押し切られてデートをしたり、ラブホテルへ行ったこともある。
 けれど、女性という存在すらも時人に「楽しい」とか「夢中になる」といった感情を生み出す事はなかったのだ。
 付き合った女性はそんな時人にすぐに愛想を尽かし、相応に自分を甘やかしてくれたり褒めてくれる男性へと走っていった。
 年頃の女性が求めるには、時人はあまりにも淡白すぎたのだ。
 そして、時人自身もそういう事は強く望んでいなかった。
 子供の頃から恋愛には興味がなく、いずれ両親が決める女性と結婚して宇佐美家を守る事ができればいい。そんな投げ遣りな気持ちがあったのも正直な所だ。
 けれど――。
 目を閉じて、耳を澄ます。
 遠くから聞こえるシャワーの水音と、ボイラー音。
 楽しそうな姉妹の声と、葵の声。
 こんな風に「愛しい」、「大切にしたい」という感情になったのは初めてだ。
 こんな――、切ない感情になったのも初めてだ。
 恋愛ドラマを見たり、友人が貸してくれた漫画で恋愛表現があっても、今までは「どういう理屈でこんな感情になるのか」と冷めた目で見ていた。
 一時の感情の揺れによって、冷静な判断を欠く状態になる恋愛というものを、むしろ蔑視してすらいたのだ。
 だが今なら分かる。
 理屈なしに自分の全てを投げ打ってでも、守って、愛して、愛されて、共にいたいと言う気持ち。
 この気持ちに理由などない。
「葵さん」
「みまさか、あおい、さん」
 麦茶で冷えた舌が紡ぐ名が、こんなにも特別に思える。
 信仰とは無縁だった彼が、この出会いに運命を感じて、神に感謝すらしていた。
 葵の部屋は落ち着いた色合いの家具で統一されていて、その空間そのものが彼女のように優しく感じる。
 音楽を愛する彼女らしい、音符モチーフの壁時計が刻む音すらも、泣き出したくなるように優しいリズムに思えた。

**

「おまっとぉさんです」
 風呂場で沢山笑ってサッパリとした葵と姉妹は、とてもいい笑顔をしていた。
「いっちゃん、さっちゃん、サッパリしたかい?」
「うん!」
「お兄ちゃんは?」
「お兄ちゃんはクーラーが涼しいから、いいんだよ」
「ふぅん」
 涼しそうなワンピース姿になった姉妹は、ちょこちょこと時人の両脇に座り、彼の顔を覗き込んでくる。
「時人さん、これどうぞ」
 葵がそう言って冷たいおしぼりを出し、「今更で堪忍です」と恥ずかしそうに笑う。
「ありがとうございます」
 ちら、とシャワー上がりの葵を盗み見して時人がおしぼりを受け取り、手を拭いてから少し迷い、「失礼します」と恥ずかしそうに笑ってから顔や腕を拭き始めた。
「あー! お兄ちゃんいちのお父さんと一緒だ!」
「ほんとだぁ! おじさんだ!」
「こらぁ、いっちゃん、さっちゃん。時人さんにそないないけず言う子には、アイスあげへんえ?」
 葵が怒ったふりをすると、姉妹がキャアキャアと騒ぐ。
「あー! 葵ちゃんお兄ちゃんの事庇ってる! 好きなんだ~!」
「好きなんだ~!」
「もぉぉ」
 子供たちにはやし立てられて時人と葵が困り、それでも顔を見合わせて笑ってしまう。
「ねぇ、葵ちゃん、アイス食べよう!」
「アイスー!」
 しかし子供の興味というものは次々と移るもので、その対象がデザートともなると時人と葵の関係がどうこうという事など、すぐに霞んでしまう。
「はいはい、今出しますえ」
 返事をした葵がキッチンへ向かい、この日のために買ったのかパーティーパックのカップアイスを出してきた。
「はい、何味がええですか?」
「いちチョコー!」
「じゃあ、さやストロベリー!」
「はいどうぞ。時人さんは? ……食べはりますか?」
「ええ、頂きます。……じゃあ、バニラを」
「ふふ、ほな私はお抹茶味」
 それぞれ担当のフレーバーが決まって葵がスプーンを配ると、それからは幸せなアイスクリームタイムになった。
「ねぇ、葵ちゃん。アイス食べたらピアノ弾いて」
「ええよ」
 沙夜のお願いに葵が微笑み、時人は沙夜が与えてくれたタイミングを幸運だと感じた。
 本当は時人自身が、葵のピアノを聴きたいと思っていたのだ。
(ありがとう、沙夜ちゃん)
 心の中で礼を言い、時人は久し振りに食べる市販のアイスクリームを味わった。
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