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馴れ初め編/第二章 お酒と油断はデンジャラス

29.揺らぐ炎に最高の美酒を(國枝視点)

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「國枝さん。どうして、私の名前を知ってたんですか?」

 信号待ちの最中、重苦しさが漂う車内を変化させたのは、千優の小さな問いかけだった。

「……え?」

 唐突に聞こえた声と内容に驚き、國枝は思わず一瞬だけ助手席の方を向く。
 すると、顔を真っ赤に染めこちらを見つめる彼女の姿が視界に映りこんだ。

「どうしてって……。そりゃあ、柳ちゃんは柳ちゃんだもの。知っていて当然……」

「そ、そうじゃなくて! 下の、名前」

 すぐに前方へ視線を戻し、ドクンと脈打つ心音を感じながら、努めて平静を保ち首を傾げる。
 しかし、質問の意図を理解しないまま紡いだ言葉は、ひどく慌てた声に遮られた。
 そして、息を吸う音が聞こえたと思えば、後に続く声は蚊の鳴くように小さくなものへ変わる。

(下の名前? ……あっ)

 最初は彼女が何について話しているのかわからなかった。
 しかし、必死に記憶を掘り起こした國枝は、ようやくそれを理解する。

『千優、ち、ひろ……く、ぁ……はぁ……っ』

 昨夜身体を重ねた時、果てる直前、気づけば何度も彼女の名を呼んでいたことを思い出した。
 再び助手席へ目を向けると、千優はいつの間にか俯いている。
 しかし、必死に隠そうとしている頬が赤く染まっているのが見えてしまった。
 こちらの様子をうかがうように、時折あげる視線すら、すでに可愛い。
 こんなにも恥ずかしがっているのはきっと、あの時のことを彼女が思い出しているからだろう。

「……クスッ。もう、柳ちゃんったら忘れちゃったの? 初めて会った時に、ちゃんと自己紹介してくれたじゃない」

「えっ! そ、そう……でしたっけ? うわっ、恥ずかしい。い、今のは忘れてください!」

 彼女の様子をしばし眺めれば、じわじわと笑いがこみ上げ、思わずクスクスと声が漏れてしまった。
 すると、戸惑い混じりの眼差しは、衝撃と動揺を含んだものへ変わり、千優の表情を忙しなく変えていく。
 コロコロと変わり続ける表情を、出来ることならずっと眺めていたい。
 そんな願望が表面化しないよう、今にも飛び出しそうになる欲を心の中で必死に押し殺す。
 再び國枝は前方を向き、思考を運転へ集中するよう切り替えた。

 それでも、抑えきれない欲に負け、チラリと横を盗み見る。
 視線の先には、頭を抱え酷く落ち込む彼女の姿があり、申し訳なく思えば無意識に苦笑いが零れた。



『國枝、紹介するよ。こいつ、総務の柳って言うんだ』

『柳、です。初めまして』

 同期の後藤から初めて千優を紹介された時、彼女は少し緊張した面持ちをし、自ら名を乗った。しかし、それは名字だけ。
 初対面の時に名前を知ったなど嘘だ。つい出来心で口を開けば、申し訳なさを感じつつ、後は勝手に流暢な嘘が紡がれていく。
 後藤や篠原は、普段から千優の事を名字で呼んでおり、國枝自身も柳ちゃんと呼んでいるため、『千優』と口にしたのは昨夜が初めてだった。

(言えるわけ、無いじゃない)

 正式な対面を果たす以前から存在を知っており、気づけば目で追いかけていたなんて。
 名前を知った本当の理由が、仕事中首から下げている社員証を盗み見たからなんて。
 どうしても名前が知りたくて、不自然にならないようアンテナを張り巡らせていたなんて、言えるわけがない。





 千優の案内に従い走り続けた國枝は、とあるアパートの近くで路肩に車を止めた。

「ここで大丈夫?」

「はい、ありがとうございました。そこなので、もう大丈夫です」

 彼女の視線を追いかけると、視界に映りこむのは、小綺麗ではあるが、隠しきれない古さの残るアパートだった。
 会社から離れた場所にある古いアパートに女性が一人暮らし。
 何か理由があるのかと予想しながら、自宅を指さし微笑む彼女の姿に、フッと口元が緩む。

「忘れ物はない?」

「……國枝さん、今ここで忘れ物があったらどうするんですか」

「そうなったら、延長ドライブよ!」

 小首を傾げながら、小さな本気を冗談に変えて口にすると、呆れた声と視線が容赦なく向けられる。
 忘れ物など無いに決まっている。家を出る前、千優は何度も持ち物を確認していた。それを傍で見ていたのだから、見間違えるわけもない。
 それでも口をついて出てしまう言葉に、自分は一体何を期待しているのだろうと笑いがこみ上げてくる。

 膝に乗せた鞄を開け、「大丈夫だと思いますけど……」と彼女は再度中身を確かし始める。
 素直な姿がまた可愛らしくて、ついつい緩む頬に力をこめた。

(もう、終わるのか……)

 助手席のドアを開け、彼女が一歩外へ踏み出せば、この幸せな時間が終わってしまう。
 普段通りの態度を心掛けていても、昨夜、自分が千優を抱いたという事実だけは消えない。
 きっとそれは、彼女も理解しているはずだ。


「え? あ、あの……」

 スッとホワイトアウトした意識が戻っていく。
 パチパチと数回瞬きをくり返せば、今しがた鞄の中を捜索していた千優の手首を掴んでいる自分がいた。
 驚きの声が耳に届き、大きく見開いた瞳がこちらを見つめる。

(やっぱり、細いな)

 視線を動かせば、男と比べるには細い手首が目についた。
 力任せに握れば簡単に折れるであろう細腕で、きっと彼女は、多くの人々を救ってきたのだろう。
 脳裏によみがえるのは、いつだって真っ直ぐ前を見つめ続ける千優の横顔。
 そして、昨夜初めて目にした、羞恥に頬を染め乱れる女の顔だ。

「柳ちゃん。どうしてアタシが、懇親会の時に酔った貴女を助けたかわかる?」

 口から零れた問いかけに返ってくる言葉はない。返ってくるのは、こんな時でさえ真っ直ぐな瞳だけ。
 その奥でわずかに揺れ動くものが、千優の困惑を色濃くあらわしていた。
 しかし、一度声に乗せた想いを留めることなど、出来そうもない。

「どうして家に連れていったかわかる? 朝ごはんを作った理由も、今こうして……家まで送り届けた理由も。……どうして、貴女を抱いたのかも」

 矢継ぎ早な質問は、相手に戸惑いを与えるだけ。そんなことはわかっていた。
 それでも、加速する心音がやけに耳障りで、胸の奥からこみ上げる想いは止められない。

「あ、あの……國枝さ」

「好きだからだよ」

 ようやく彼女の口が開いたと思えば、聞こえてくるのは酷く震えた声だった。
 しかし、そんな小さな音は、己の声によってすぐにかき消されていく。

「好きだよ。俺は、お前が……千優が好きだ」

「……っ」

 昂った想いは熱へ変わり、車内に響く低音を少しばかり掠れさせる。
 瞬きすら忘れ、見開かれた千優の瞳。
 そんな彼女の瞳に映る己を見つめながら、手首を掴んでいた手を上へ滑らせるように動かしていく。
 やけに熱い指先が、細く冷たいそれに絡む。二つをすり合わせるように擦りつけると、太さの違いに、指先でさえ己と彼女の差を痛感させられた。
 それでも、数時間ぶりに触れた彼女のぬくもりが嬉しい。
 ピクリと肩を上下させる千優の姿に、高揚感と小さな困惑が心の中で入り混じった。





   ◇   ◇   ◇   





 千優の家から自宅への帰り道、國枝は一人ハンドルを握る。

「……クスッ」

 上機嫌で思い出すのは、つい先程の出来事だ。


 告白後、瞬く間に顔を真っ赤に染めた千優は、「お、お世話になりました!」と叫びながら、荷物を手に車から飛び出して行った。
 そのまま、彼女はぎこちない走りを見せ、アパートの一階、一番手前の部屋の扉を開け消えていく。

(あそこが柳ちゃんの部屋か)

 新たな情報を入手し、子供のように心を弾ませながら、國枝は空気を入れ替えようと運転席と助手席の窓を開ける。
 すると、視界の端に千優の家のドアが映り込んだ。きちんと閉まっていたはずのそこがゆっくり開いていくのが見え、何事かと首を傾げる。
 車内からしばらく様子をうかがっていると、ドアの陰から、こっそり千優が顔を覗かせているではないか。
 きっと、國枝の帰宅を確認しているのだろう。こちらの様子をうかがうその仕草が、逆効果だと気づかずに。

「やっ、なぎちゃーん」

 ちょうど良く窓が開いていたため、國枝はシートベルトを外すと助手席側へ身を乗り出し、笑顔で数回手を振る。
 例え聞こえないとわかっていても、彼女の名を口にすることを忘れずに。

「……っ」

 すると、こちらの様子に気づいたのか、千優は、慌てた様子で家の中へ引き返し、玄関のドアを閉ざしてしまう。
 随分警戒されたものだと、歪な笑いが口から零れる。
 愛しさに付随して湧き上がる悪戯心が、國枝の口元にこの上ない笑みを作り出した。


 昨夜からの出来事は、予想の斜め上をいくものばかりだった。
 しかし、冷静になった今、千優に対し少なからず申し訳ないという気持ちはある。
 だからと言って、己の行動すべてを後悔するつもりは無い。

 もしもあの時、千優を家へ帰していたら、未だ告白すらしていなかっただろう。
 少しずつ距離を縮め、こちらを意識させていく。そんな筋書を何もかもすっ飛ばし、自分はたった一日でゴールへたどり着いた。
 きっと、これで良かったのだ。
 今はまだ何とも思っていない男達が、いつ千優の魅力に気づき動き出すかわからない。
 いつ横から掻っ攫われるかわからぬ恐怖を味わうのなら、他の者達より一歩前を進みたかった。


 今後、どんな形であろうと、少なからず千優は自分を意識してくれるのは確実。
 今はただそれだけでいい。
 あの瞳が見つめてくれているなら、あとはこの腕の中へ閉じ込めるだけ。

 ――千優は誰にも渡さない。

 決意を新たにした瞬間、心の奥底でゆらゆらと小さな光を灯していた炎が、一際大きく燃え上がった。





「あ、そうだ! 帰る前にビールでも買って行こう」

 今日はとても気分がいい。せっかくの休日なのだ。昼間から飲む酒も悪くないだろう。
 自宅にあるキッチンの片隅には、愛しい姫から送られた紙袋が今も鎮座している。
 その中に残っている缶詰で作った料理をつまみに飲むアルコールは、きっとこの上ない程の美酒に違いない。
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