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馴れ初め編/第二章 お酒と油断はデンジャラス

19.嬉しさとぬくもり

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 数日後、ついに約束の日はやってきた。
 仕事を終え、会社近くで待ち合わせをし、そのまま國枝の案内で飲みに行く。
 たったそれだけのことなのに、初めて向かう場所に対するワクワクと、二人で飲むことに対する緊張のせいか、朝からどうにも気持ちが落ち着かない。
 しかし、おすすめの店に対する期待は、時間が経つにつれ大きくなり、緊張を上回っていく。

(どんな店なんだろう)

 たった一度だけ訪れた彼の家はインテリアの趣味が良く、お手製の朝食も美味しかった。
 そんな人が太鼓判を押す店に、期待するなと言う方が難しいのだ。
 酒飲みの血が騒ぎ、仕事への集中力を欠いた千優は、頻繁に時間を確認する羽目になった。





 終業時刻はとっくに過ぎ、人気もまばらになった廊下を、千優は足早に移動する。

(くっそ、めっちゃ走りたい)

 ちらりと腕時計を確認すれば、既に約束の時間を三十分も過ぎている。
 原因は、就業間近になって部長から頼まれた追加の仕事だ。
 断るわけにもいかず、無我夢中で片付けたにも関わらず、時間は無情に過ぎていく。
 飲み会延期を願う旨を國枝に伝えると、「待っているから気にしないで」なんて返信がきた。

『待たせるのは申し訳ないので、やっぱり別の日で……』

『追加の仕事、そんなに時間がかかりそう?』

『今からやれば、多分一時間くらいかと』

『それじゃあ、やっぱり待ってるわ。今度はいつ二人の予定が合うかわからないし』

 國枝の言葉に、商品開発部の面々は帰宅時間が不規則らしいと以前聞いた事を思い出す。
 それが事実なら、國枝にとっては、振替日を決めることも容易では無いのだろう。
 しばし思案した結果、最終的には千優が折れるしかなく、人を待たせているという焦りが、昼間欠いた集中力を復活させてくれた。

『こら柳、走るな!』

『うぃっす!』

 急いで帰り支度を済ませ、総務部を飛び出した千優は、國枝のもとへ急いだ。
 気持ちが焦るあまり駆け出した彼女を咎めたのは、同じ部署の先輩社員だった。
 反射的な返事は、女性として微妙なものとなったが、気にする余裕はない。
 大学卒業後から勤め続け、上下関係がすっかり刷り込まれた両足が、己の意思に反し速度を緩めていく。
 先輩に逆らえない辛さを痛感し、思わず心の中で涙を流した。

 その後、言いつけを守り律儀に早足で玄関フロアへ辿り着いた千優は、入り口近くに見知ったシルエットを発見した。

「お疲れ様、柳ちゃん」

「はぁ、はぁ。……?」

 早足とは言えわずかに呼吸が乱れる。呼吸を整えながら向けた眼差しの先には、会社の外で待ち合わせていたはずの國枝が立っていた。
 ニコリと微笑みながら手を振る姿に、思わず首を傾げそうになる。

「あの……なんで、ここに?」

「そろそろ柳ちゃんの仕事が終わる頃かと思って、迎えに来たのよ」

「わざわざすみま……っ」

「はーい、減点」

 疑問に返答する声は、相変わらず優しいものだった。
 気を遣わせたことを申し訳なく思い、つい口から零れた言葉は、唇へ押しつけられた人差し指によって遮られる。
 予想外な彼の仕草に、カッと頬の辺りが熱を持つ。

「こういう時は、何ていうの?」

 数秒も経たず、指はゆっくりと離れていく。そのかわりと、小首を傾げる國枝の顔が近づいてきた。
 至近距離で見つめ合う状態に、距離を取ろうと足が無意識に後退する。

「ほーら、柳ちゃん。なんて言うの?」

「ありがとう、ございます」

 促す声と一緒に今度は反対側へ首を傾げる。その視線に耐え切れなくなり、どうにか紡いだ声は、蚊の鳴くような小さなもの。
 それでも、國枝は満足そうに笑い、ポンポンと千優の頭を撫でる。
 頬の熱から生まれる怒りを、子供扱いについて向ければいいのか、顔を近づけたことに向ければいいのかよくわからない。
 グルグルとまわる視線につられ、入り乱れる様々な思考が、今日も彼女の頭を悩ませた。





 目的の場所は割と会社の近くにあり、談笑しながら歩けば移動も苦にならない裏路地にひっそりと佇んでいた。
 扉にはオープンの英字が刻まれたプレートが下げられ、玄関先には店名と営業時間、そして数種類のメニューが載ったボードが立てかけてあるだけ。
 シックな色合いでまとめられた外観は落ち着いた雰囲気が漂い、店先を照らす照明も素敵だ。

(こんな店があるなんて、知らなかった)

 時折茅乃や篠原達と飲みに行く機会はあるが、こんな洒落た店で飲んだ記憶は無い。
 通勤ルートとは逆方向に位置する店までの道は、普段見慣れない光景が新鮮で楽しかった。

「柳ちゃん。そんな所に突っ立ってないで、入ってきなさい」

「は、はい」

 もしこの店が良い雰囲気なら、皆を連れて飲みに来てもいいかもしれない。
 ふわりと宙に浮かぶ気持ちのせいで緩む口元を急いで引き締め、千優は一足先に店内へ向かう國枝の後を追いかけた。





「國枝さん、この煮物めちゃくちゃ美味いです」

「ふふっ、アタシもそれ、大好きよ」

 イカと大根の煮物を頬張ると、口の中に旨味が徐々に広がっていく。普段作らない料理の数々を堪能し、その美味しさに感動を覚えながら、すぐ横にいる男の方をふり向く。
 すると、嬉しそうに微笑む國枝と目が合い、子供のようにはしゃぐ自分が少し恥ずかしくなった。
 気を紛らわせたい一心でグラスを手に取り、残っていた焼酎を流し込む。
 空になったグラスをテーブルへ置くと、カランと溶け残った氷がぶつかる音が聞こえた。


 入店してから瞬く間に三十分が過ぎ、すっかり店の虜となった千優。
 数人のカウンター席と片手で足りるテーブル席を見る限り、小規模の店なのは明白。それもまた、魅力の一端となっていると彼女は思った。
 店内に流れる控えめな音楽と、時折客同士の話し声が聞こえてくる。
 規模の大きな居酒屋やチェーン店の飲み屋特有の騒々しさは無く、かと言ってバーなどの堅苦しい雰囲気も感じない。
 まさにここは、酒と料理、そして適度な会話を楽しむための店なのだろう。


 店に来た当初、千優は場違いな所へ来たと後悔していた。
 大人な空間に自分という異分子が紛れ込むような感覚。そして見知らぬ地へ足を踏み入れた緊張のあまり、体が強張って仕方なかった。
 しかし、今更帰ることも出来ず、國枝にリードされるままカウンター席に着き、差し出されたメニューを眺めていた。
 カウンターの向こうには四十代と思わしき男性が一人佇み、その後ろを時折二人の従業員が料理を運ぶため行き来する。

『おぉ、螢じゃないか。久々だな』

『マスター、お久しぶり』

 ソワソワと店内を見回していると、カウンターの向こうにいる男性が國枝へ声をかけた。
 親しげに話す二人を見つめれば、國枝がこちらに手を向け、後輩だと紹介してくれる。
 促されるまま軽く頭を下げた千優は、改めて名乗り軽く挨拶を交わす。
 すると、そのまま流れるように、マスターと呼ばれた男から好きな酒は何かと問われた。

 初めてのことに困惑し、助けを求め國枝の方を向いても、「柳ちゃんは、普段どんなお酒飲むの?」と笑みを浮かべるだけ。
 しばし返答に迷いながら、とりあえずよく飲む銘柄を答えると、マスターがおすすめだという焼酎や日本酒の瓶をカウンター後ろの棚から次々出してくれた。
 詳しい話を聞くと、どうやらマスターは酒好きが高じてこの店を開いたらしい。
 客の好みに合わせた酒を選んでくれたり、気になるものについて説明もしてくれると、國枝が教えてくれた。

 友人や仕事仲間と飲みに行く機会は何度もあったが、これ程までの至れり尽くせりなサービスを目の当たりにするのは初めてだった。
 しばし呆然とした千優は、なんとも魅力的な対応に心底感動を覚える。
 他にも、個人経営ながらメニューが多く、ほとんどが小皿で提供されるため、色んな種類が楽しめる所も魅力の一つだった。

(これは、確かに気に入っておすすめしたくなるわけだ)

 次は何を頼もうかと、リーズナブルな値段が並ぶメニューを眺めながら、千優は小さく何度も頷いた。





 その後、いくつかお気に入りの酒を見つけ、美味しいつまみと共に堪能すること一時間。
 普段の飲み会で飲む以上の酒を口にした千優は、すっかり酔っぱらっていた。
 世間話をし、時に仕事の愚痴をこぼし合い、美味いつまみを食べれば自然と酒がすすむ。
 そのお陰と言ってよいかは謎だが、入店時挙動不審状態だった千優の面影は消え、顔にはだらしなく緩んだ笑みが浮かぶ。

「國枝しゃーん、次は何食べますー?」

「あぁ、もう……はいはい、もう終わりよ終わり。柳ちゃん、そろそろ帰りましょう?」

「嫌だ。もっと飲む!」

 少量酒が残るグラスを取り上げられ、不満げに頬を膨らませると、苦笑いを浮かべる國枝と目が合った。

「いくら明日が休みだからって飲みすぎよ。まったく、もう……」

 ため息交じりに肩をすくめる姿を前に、彼の言い分を考えるが、鈍った頭は思うように働かない。
 思考を止め、視線をテーブルへ落とせば、取り皿に残るタコのから揚げが目についた。

(おぉ、勿体ない)

 慌てて箸を手に取り、つまんで口の中へ放り込む。もぐもぐと口を動かし味と歯ごたえを堪能する。自炊ではきっと出せない味だろう。

「あ、そうだ。柳ちゃんの家ってどこに……まぁいいか。ちょっとお手洗いに行ってくるから、いい子で待ってるのよ」

 ポンポンと撫でられた頭が妙にくすぐったい。國枝の声に頷けば、隣から椅子が動く音と共に、スッと気配が消えていく。

「…………」

 一人になった千優は、しばしから揚げとの闘いを続け、ようやくすべてを飲み込んだ。
 不思議な達成感を味わいながら隣をふり向くと、先程まで傍に居たはずの彼の姿が無い。

(あぁ、そう言えばトイレだっけ……)

 ぼんやりした意識の中、よみがえるのは頭を撫でられた記憶だ。
 また子供扱いされたと悔しさがこみ上げる。しかし、気持ちをぶつける相手は、今ここには不在だ。





 店内に流れる音楽を聞きながら、ここへ来てからのことを思い返す。
 新たなお気に入りの酒が見つかった喜び、美味しい料理を久々に味わえた喜び、そして國枝と言葉を交わす喜び。たくさんの嬉しさを味わうことが出来た。
 これまでは、困惑の方が先立っていたはずなのに、不思議と今日は違った。
 理由はわからないが、心が陽だまりのようにあたたかく、心地よかったことは、はっきりと思い出せる。

「早く、戻ってこないかな……」

 ポッカリと空いた隣の空間が気になり、少しだけ肌寒い。視線の先に、さっきまであった微笑みは無い。
 普段より体は温まっているはずなのに、どうして寒いと感じるのだろう。
 その理由を追い求め、重力に逆らえず落ちる瞼と共に、千優の意識はゆっくりと沈んでいった。
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