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馴れ初め編/第一章 きっかけは懇親会
09.歯車は動き出す その2
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このまま話し込んでいては、せっかくの朝食が冷めてしまう。そんな國枝の言葉に従い、千優はいただきますと顔の前で両手を合わせた。
最初にコンソメスープを数口、そのままサラダ、オムレツとテーブに並ぶ料理を口へ運んでいく。
「……っ! 美味しい」
「ふふ、口に合って良かった。バターとジャムもあるから、お好きにどうぞ」
トーストにバターを塗りながら、國枝は視線をテーブル端に置いてあるそれぞれの容器へ向ける。
彼は何もかもが完璧である。いや、用意周到というべきか。
「本当……お世話になりっぱなしですみません」
トースト片手に眉を下げ呟けば、気にするなと笑い飛ばす声が聞こえる。
酔いつぶれた後輩など放っておいてもいいようなものだが、自分はこの人に助けられた。
一宿一飯の恩義に何か出来ないものかと、自然と周囲を見回す。
だが、目に映るのは、どこもかしこも自宅のアパートとは比べ物にならないモノばかり。
整理整頓され、清潔感が漂う室内。所々に置かれた小物がアクセントになり、センスの良さを感じてしまう。
(せめて……せめて、食器洗うくらいはやらせてもらおう、絶対に!)
自分の出る幕など無い。それはすぐに理解出来たが、何もせず帰るわけにはいかないと、千優は必死に手伝える事柄を探した。
テーブルに並べられた料理も、男の手料理とは思えぬ出来栄えだ。普段最低限の自炊をこなす自分より、はるかに腕がいい。
風呂上がりの着替えや、美容法に関しても、驚くほど気がまわるせいで、終始自分は受け身状態。
『柳さんと國枝さんって、本当に性別と中身が真逆ですよねー』
脳裏を過るのは、いつか聞いた女子社員の言葉。
(本当に、國枝さんって女みたい……)
ジャムを塗ったトーストを咀嚼しながら、コーヒーを飲む彼の姿を盗み見る。
パッと見ただけでは、心の声が具現化したのかと勘違いしそうになるから怖い。
会社で挨拶を交わし、時折立ち話をする時とは何かが違う。
少し気の抜けた伏せがちな視線。國枝から漂う妙な色気に、不思議と心臓が脈打つ。
同性の家に泊めてもらい、一緒に朝食を食べる。そんな何でもないワンシーンなら、特に思うことは無い。
しかし、視界の端に映りこむ角ばった指が、この人は男なのだと証明するせいで、乱れた思考が引き戻される。
異性だと意識させられるのは、目覚め直後目にした光景も一因になっているに違いない。
しなやかだが、確な筋肉質の裸体を思い出しそうになり、千優は心を無心にしようと勢いよくコーヒーを喉へ流し込んだ。
食事の間、話題を提供するのはもっぱら國枝ばかり。千優はただ頷いたり、時折言葉を返したりするのがほとんどだった。
(あ、そう言えば……)
そんな最中頭を過ったのは、脱衣所で感じた疑問について。
「あの、國枝さん」
「……? 何、どうした?」
それまであまり積極的な様子では無かった千優が、自ら話しかけたことが嬉しいのか、國枝はニコリと笑みを浮かべ首を傾げる。
「國枝さんって、化粧とかするんですか?」
「……へっ? しないわよ、流石に化粧は」
「じゃあ、どうして……」
『あれ? どうして化粧落ちてるんだろう?』
『ふふふ……それは、昨夜のうちに寝ている柳ちゃんの顔を、アタシが一生懸命化粧落としシートで綺麗にしたお陰よ』
脱衣所にあった鏡に映る顔を見て気づいた違和感。その理由を説明されれば、再び頭を下げるしかなかった。
しかし、その時は思いもしなかった疑問が、今となって脳裏に浮かぶ。
國枝は確かに言った、化粧などしないと。だとしたら、何故あんなものを持っていたのだろうか。
「化粧なんてしないのに……どうして化粧落としシートがあるんですか?」
「あぁ……あれは家族が泊まりに来た時に忘れていったのよ。取りに来るよう言ったんだけど、面倒らしくて。捨てないでおいて良かった」
苦笑いを浮かべ、彼は「捨てるなんてもったいないしね」と肩をすくめ話す。
その言葉に、なるほどと納得し、千優は無言で頷いた。
疑問が解決する反面、化粧をしていると言われても「やっぱりか」と納得していそうな自分がいる。
「…………」
そんな相反する不思議な思考に陥ってしまう程、己は目の前にいる男について何も知らない。その現実を突きつけられた気がした。
朝食までご馳走になったお詫びにと、千優は自ら申し出て食器の片付けを終わらせる。
初めて立ち入った國枝家のキッチンは、リビング、そしてダイニング同様きちんと掃除がいきわたっており、感服するしかない。
その後、洗濯したてのブラウスに袖を通し、休日には不釣り合いなスーツを身にまとう。
そして、いつも持ち歩いている鞄とジャージが入った紙袋を手に取った。
「もう……わざわざ柳ちゃんが洗濯しなくても、私が後でしておくわよ」
「いいや、流石にそこまで世話になるのは……」
後日何かお礼の品を添え返却しようと、紙袋の中身へ視線を向け、軽く首を横にふる。
そのまま、何度目かわからぬ感謝の言葉を伝え、頭を垂れる。
頭上から聞こえてくるのは、クスクスと可笑しそうな、どこか優しさのある笑い声。
「これからは、篠原の無意識な挑発に乗っちゃ駄目よ? あと、強いお酒の一気飲みも駄目」
「……はい」
窘める声に思わず肩を落とす。その光景はまるで、母親に叱られる子供のようだ。
顔をあげると、眼差しの先には、いつもと変わらぬ笑みがある。
(聞いてみようかな)
あとはここを出て自宅へ向かうだけ。そんな状況で脳裏を過ったのは、ずっと心の片隅にあったもう一つの疑問。
「國枝さん……あのー……」
「ん? どうしたの?」
内容が内容だけに、無意識に目が泳いでしまう。
忙しなく動く視線に、無性に心がざわついた。
徐に口を開けば、視界にきょとんと首を傾げ先輩の姿が映り込む。
「大変聞きにくいのですが……何故、私は服を着ていなかったのでしょうか? 國枝さんも上……裸だったし……」
意を決して疑問をぶつけ、恥ずかしさのあまり俯きそうになる顔と、國枝へ向けた視線を無理矢理固定する。
昨夜、ホテルに居た時はスーツを着ていたはずなのに、何故目覚めた時は下着姿だったのか。それは千優にとって、いくら考えても答えが見つからない難問だった。
「あぁ、それは……」
一体どんな答えが返ってくるのか。笑い飛ばせる内容であるよう、心の中で必死に願う。
ドクン、ドクンと脈打つ心音を感じていると、口角を上げ、先程より笑みを深くした顔がゆっくりこちらへ近づいてきた。
「……昨日の柳、すっごくセクシーだった。ドキドキして……俺、どうにかなりだったぞ」
(っ!? な……なっ!)
耳元で囁かれるのは、普段の國枝からは想像出来ない低音ボイス。加えてその内容は、瞬く間に千優の脳内を真っ白に染め上げていく。
――この日を境に、二人のすべてが変わり始めた。
最初にコンソメスープを数口、そのままサラダ、オムレツとテーブに並ぶ料理を口へ運んでいく。
「……っ! 美味しい」
「ふふ、口に合って良かった。バターとジャムもあるから、お好きにどうぞ」
トーストにバターを塗りながら、國枝は視線をテーブル端に置いてあるそれぞれの容器へ向ける。
彼は何もかもが完璧である。いや、用意周到というべきか。
「本当……お世話になりっぱなしですみません」
トースト片手に眉を下げ呟けば、気にするなと笑い飛ばす声が聞こえる。
酔いつぶれた後輩など放っておいてもいいようなものだが、自分はこの人に助けられた。
一宿一飯の恩義に何か出来ないものかと、自然と周囲を見回す。
だが、目に映るのは、どこもかしこも自宅のアパートとは比べ物にならないモノばかり。
整理整頓され、清潔感が漂う室内。所々に置かれた小物がアクセントになり、センスの良さを感じてしまう。
(せめて……せめて、食器洗うくらいはやらせてもらおう、絶対に!)
自分の出る幕など無い。それはすぐに理解出来たが、何もせず帰るわけにはいかないと、千優は必死に手伝える事柄を探した。
テーブルに並べられた料理も、男の手料理とは思えぬ出来栄えだ。普段最低限の自炊をこなす自分より、はるかに腕がいい。
風呂上がりの着替えや、美容法に関しても、驚くほど気がまわるせいで、終始自分は受け身状態。
『柳さんと國枝さんって、本当に性別と中身が真逆ですよねー』
脳裏を過るのは、いつか聞いた女子社員の言葉。
(本当に、國枝さんって女みたい……)
ジャムを塗ったトーストを咀嚼しながら、コーヒーを飲む彼の姿を盗み見る。
パッと見ただけでは、心の声が具現化したのかと勘違いしそうになるから怖い。
会社で挨拶を交わし、時折立ち話をする時とは何かが違う。
少し気の抜けた伏せがちな視線。國枝から漂う妙な色気に、不思議と心臓が脈打つ。
同性の家に泊めてもらい、一緒に朝食を食べる。そんな何でもないワンシーンなら、特に思うことは無い。
しかし、視界の端に映りこむ角ばった指が、この人は男なのだと証明するせいで、乱れた思考が引き戻される。
異性だと意識させられるのは、目覚め直後目にした光景も一因になっているに違いない。
しなやかだが、確な筋肉質の裸体を思い出しそうになり、千優は心を無心にしようと勢いよくコーヒーを喉へ流し込んだ。
食事の間、話題を提供するのはもっぱら國枝ばかり。千優はただ頷いたり、時折言葉を返したりするのがほとんどだった。
(あ、そう言えば……)
そんな最中頭を過ったのは、脱衣所で感じた疑問について。
「あの、國枝さん」
「……? 何、どうした?」
それまであまり積極的な様子では無かった千優が、自ら話しかけたことが嬉しいのか、國枝はニコリと笑みを浮かべ首を傾げる。
「國枝さんって、化粧とかするんですか?」
「……へっ? しないわよ、流石に化粧は」
「じゃあ、どうして……」
『あれ? どうして化粧落ちてるんだろう?』
『ふふふ……それは、昨夜のうちに寝ている柳ちゃんの顔を、アタシが一生懸命化粧落としシートで綺麗にしたお陰よ』
脱衣所にあった鏡に映る顔を見て気づいた違和感。その理由を説明されれば、再び頭を下げるしかなかった。
しかし、その時は思いもしなかった疑問が、今となって脳裏に浮かぶ。
國枝は確かに言った、化粧などしないと。だとしたら、何故あんなものを持っていたのだろうか。
「化粧なんてしないのに……どうして化粧落としシートがあるんですか?」
「あぁ……あれは家族が泊まりに来た時に忘れていったのよ。取りに来るよう言ったんだけど、面倒らしくて。捨てないでおいて良かった」
苦笑いを浮かべ、彼は「捨てるなんてもったいないしね」と肩をすくめ話す。
その言葉に、なるほどと納得し、千優は無言で頷いた。
疑問が解決する反面、化粧をしていると言われても「やっぱりか」と納得していそうな自分がいる。
「…………」
そんな相反する不思議な思考に陥ってしまう程、己は目の前にいる男について何も知らない。その現実を突きつけられた気がした。
朝食までご馳走になったお詫びにと、千優は自ら申し出て食器の片付けを終わらせる。
初めて立ち入った國枝家のキッチンは、リビング、そしてダイニング同様きちんと掃除がいきわたっており、感服するしかない。
その後、洗濯したてのブラウスに袖を通し、休日には不釣り合いなスーツを身にまとう。
そして、いつも持ち歩いている鞄とジャージが入った紙袋を手に取った。
「もう……わざわざ柳ちゃんが洗濯しなくても、私が後でしておくわよ」
「いいや、流石にそこまで世話になるのは……」
後日何かお礼の品を添え返却しようと、紙袋の中身へ視線を向け、軽く首を横にふる。
そのまま、何度目かわからぬ感謝の言葉を伝え、頭を垂れる。
頭上から聞こえてくるのは、クスクスと可笑しそうな、どこか優しさのある笑い声。
「これからは、篠原の無意識な挑発に乗っちゃ駄目よ? あと、強いお酒の一気飲みも駄目」
「……はい」
窘める声に思わず肩を落とす。その光景はまるで、母親に叱られる子供のようだ。
顔をあげると、眼差しの先には、いつもと変わらぬ笑みがある。
(聞いてみようかな)
あとはここを出て自宅へ向かうだけ。そんな状況で脳裏を過ったのは、ずっと心の片隅にあったもう一つの疑問。
「國枝さん……あのー……」
「ん? どうしたの?」
内容が内容だけに、無意識に目が泳いでしまう。
忙しなく動く視線に、無性に心がざわついた。
徐に口を開けば、視界にきょとんと首を傾げ先輩の姿が映り込む。
「大変聞きにくいのですが……何故、私は服を着ていなかったのでしょうか? 國枝さんも上……裸だったし……」
意を決して疑問をぶつけ、恥ずかしさのあまり俯きそうになる顔と、國枝へ向けた視線を無理矢理固定する。
昨夜、ホテルに居た時はスーツを着ていたはずなのに、何故目覚めた時は下着姿だったのか。それは千優にとって、いくら考えても答えが見つからない難問だった。
「あぁ、それは……」
一体どんな答えが返ってくるのか。笑い飛ばせる内容であるよう、心の中で必死に願う。
ドクン、ドクンと脈打つ心音を感じていると、口角を上げ、先程より笑みを深くした顔がゆっくりこちらへ近づいてきた。
「……昨日の柳、すっごくセクシーだった。ドキドキして……俺、どうにかなりだったぞ」
(っ!? な……なっ!)
耳元で囁かれるのは、普段の國枝からは想像出来ない低音ボイス。加えてその内容は、瞬く間に千優の脳内を真っ白に染め上げていく。
――この日を境に、二人のすべてが変わり始めた。
応援ありがとうございます!
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