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馴れ初め編/最終章 その瞳に映るモノ、その唇で紡ぐモノ

65.それは小さなミステリー

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 やけに騒々しく、色んな意味で密な温泉旅行が終わった。
 翌日からまたいつもと変わらぬ日常へ身を投じるあまり、あの三日間はただの夢なのではと、時折考えてしまう。
 しかし、同じ部署で働く同僚達に買ってきたお土産を渡し、各々の笑顔を前にすれば、すべてが現実と理解する自分がいた。





「…………」

 仕事を終え帰宅した夜。早々に食事や入浴を済ませ、ぼんやりとテレビを眺めるが、その内容はあまり頭に入って来ない。
 傍にあったクッションを引き寄せ、胸の前で抱えるように抱きしめる。
 そのまま体の力を抜いて横たわれば、視界に映る景色が一瞬で変わった。
 テレビに流れる映像から、ハードディスクのデッキが収納された棚へ。忙しなく移り変わるものから、静止したものへ。
 しばらく、ぼんやりと視線の先にあるものを見つめれば、自然に聞こえてくる音声が耳障りに思えた。

「……っと」

 千優は横たわったままテーブルの上へ片手を伸ばしある物を探す。
 しばらくして、頭の中に思い描いていたものらしき形に触れれば、そのまま触れた物を掴み、眼前へ引き下ろした。
 彼女の瞳がとらえたのは、自らの意思で手にしたテレビのリモコン。
 迷うことなく電源ボタンを押すと、連動するようにテレビ画面から映像と音声が消えた。

 耳障りな音が無くなり、彼女はホッと息を吐く。そのまま手から力を抜くと、リモコンはコロリと床の上に転がり落ちた。
 無意識にその動きを追いかけながら、千優は思い出す。あの日起きた小さな騒動を。





 二泊三日の旅行最終日。
 旅館を出発し、高速道路に向かって走る車内は、何とも言えぬ緊張感に包まれていた。
 事情を知らない者が見れば、特に何の変哲もないと思うだろうが、当人達は違う。
 初日は賑やかだった空間が、驚くほど静まり返っているのが何よりの証拠だった。

「…………」

 千優は、誰にも気づかれぬよう小さなため息を吐き、窓の外に流れる景色へ目を向ける。
 昨夜の一件からすっかりザラついてしまった心は、未だ完治していない。
 溜め込んでいた諸々を酒と感情に任せ吐き出したことは、うろ覚えながら記憶している。

 篠原にひどい態度をとり、後藤や茅乃に心配をかけてしまったこと。旅館の仲居達にも迷惑をかけたこと。

 そして――國枝への恋愛感情を自覚したこと。


 すべて覚えているからこそ、朝になって目覚め、次第に脳が覚醒を始めるのと共に、ずっと気分が落ち着かず、どんよりと身体が重い。
 普段のキビキビとした行動力まで無くなり、茅乃に促されるままに動き、時々手伝ってもらったりと、いつもの千優からは考えられない状態だった。
 初日とは真逆な二人の関係が、少しだけおかしく思えたのは、きっと友人のおかげだろう。

 なんとか食事と出発の準備を済ませた後、茅乃に手を引かれるまま向かった車の前では、後藤が一人たたずんでいた。

『あの……二人、は?』

『もうすぐ来るさ。ほら、早く乗れ』

 そう言って彼は、顎を後部座席を示し、千優に乗車を促す。
 どうして後藤が一人だけ先に。そんな疑問を抱くが、自分を囲むように立つ、恋人達の穏やかな笑みを前にすれば、容易に答えは導き出された。
 きっとこれも、二人で考えたことなのだろう。とことん気遣い屋な彼女達の姿に、千優の口元に苦笑いが浮かぶ。

『あぁ! 完全に忘れてた。千優お願い、写真撮らせて!』

『え? えぇ?』

『お願い、一枚だけでいいから。國枝さんからの初プレコート姿の千優を撮らせてー!』

 ここは彼らの言葉に甘えるべきかと、荷物を車に乗せようとトランク側へ向かおうとした時、不意に聞こえる茅乃の叫びが、千優の足を止めさせた。
 慌ててふり返れば、両手を合わせ、まるで拝むように頭を下げる友人の姿が目につく。
 彼女の口から飛び出す発言に驚くあまり、千優は首だけを後方に向けた態勢のまま体を凍り付かせた。

『こんな時にどうでもいい事頼むな、アホッ!』

『ギャッ! 叩かなくてもいいじゃんか。だって初プレだよ? 後でねってなかなか着てくれなかった千優が、初旅行に着てくれたんだよ? 激レアじゃん、SSR待ったなしだよ。これを写真におさめず、いつおさめると言うの』

 後藤への説明よりも早く、茅乃は被写体である千優の許可なく、スマートフォンのカメラで写真を撮りだす。
 許可を出す出さないの問題以前に、驚愕と羞恥のあまり、茹蛸のごとく顔を真っ赤に火照らせ固まった千優に、返答するなど不可能だった。
 すっかり固まってしまった千優と、彼女を嬉々として撮影する茅乃。
 そんな女達へ呆れた眼差しを向ける後藤が、ようやく止めに入ったのは、すでに茅乃のスマートフォン内に、何十枚もの新規写真が保存された後だった。


 その後、後藤に頬を軽く叩かれ、茅乃に反対側の頬をつねられ正気を取り戻した千優は、二人に急かされる形で車のトランクに荷物を詰め込み、来た時と同じ後部座席に腰を落ち着けた。
 隣に茅乃が座ったのを確認した千優は、すぐに写真を撮っていないか、撮っていたとしたら消去して欲しいと詰め寄ったが、「大丈夫、大丈夫」とにこやかな笑みを浮かべられ、終始のらりくらりとかわされるのみ。

 それから数分後、男達も次々と車に乗り込み、一行は旅館を出発する。
 移動中聞こえてくるのは、道案内をする機械音声と、國枝、後藤の話し声くらい。
 行きは元気にはしゃいでいた篠原は、こちらが驚くほど静かで、逆に気味悪さを感じる程だった。

 皆、それぞれ思うことがあるのかもしれない。
 その原因は自分だと理解しているからこそ、余計気が重くなる。
 視線を窓の外から自身の膝の上に置かれた両手へ移し、千優は何度目かわからないため息を吐いた。


「……ふふっ」

 しばらくして、隣から聞こえる小さな笑い声に導かれ、俯いたままだった顔をあげる。
 すると、ブックカバーのかかった本を手に、どこか嬉しそうに笑う友人の姿が目についた。
 彼女は出発直後からほぼ変わらぬ体勢で、ずっとその本を読み続けている。己の世界へ没頭する姿は、尊敬しそうになる程、いつも通りだ。
 この場にいるほとんどの人間が、どこかしら普段と違う様子を見せているというのに、茅乃だけは我が道を突き進んでいる。

「よく、車の中で読めるね」

 千優は、車の中で本を読むという行為が苦手だ。いくら静かに走っている車の中とは言え、走行中に身体へ伝わる振動のせいで気分が悪くなる。
 真横で行われている事をしろと言われても、自分は断る以外の選択肢を持っていない。
 それを平気な顔で十分以上続ける様子を目の当たりし、驚くなと言う方が無理だ。

「……ふっ、全然余裕」

 俯いたままだった顔を上げ、ずれた眼鏡の位置を調整しながら、彼女は口角を上げニンマリと笑みを浮かべる。
 キランと眼鏡のレンズが光を放つような錯覚に、思わずゴシゴシと目を擦ってしまう。
 そうしている間に、茅乃はまた本の世界へ嬉々としながら旅立った。

 傍目からはわかりにくいが、その表情はいつも以上に楽しそうだ。
 今彼女が夢中になっているのは、漫画か、はたまた小説か。
 一体どんな物を読んでいるのかと、内容が気になった千優は、少しだけ距離を詰め興味本位のまま友人の手元を覗き見る。

「……っ」

 しかし、その視線はものの数秒で元に戻り、次の瞬間、彼女の頬はカッと頬が熱くなった。

(び、吃驚……した)

 茅乃が夢中になって読んでいるのは、どうやら漫画らしい。しかもその内容は、腐女子な彼女が大好きなモノ。
 ただの会話シーンくらいなら、千優とて、ここまで驚きはしない。
 以前、何度か強制的に読ませられたことがあるので、彼女も多少耐性はついている。

 しかし今目にしたのは、そんな彼女でさえ驚く濃密すぎるシーンだった。

 ひどい後悔に襲われながら再び視線を横に向けると、友人は未だ本の世界に留まっている。
 平然とした顔で破廉恥なシーンを読み進める技術は、流石としか言いようがなかった。


 読書の邪魔をするわけにもいかず、かといって他の誰かに声をかける気にもなれない。
 千優は再び去り行く窓からの景色を眺め、ぼんやりと時が過ぎるのを待つ。

『……発売日に買って堪能したかった』

 そんな時、不意に思い出したのは、二日前に聞いた茅乃の言葉。
 ひどく落ち込んでいた友人を思い出しながら、もう一度隣に座る影へ視線を向ける。
 すると、いまだに彼女は、黙々とBL漫画を読んでいる最中だった。
 この旅行中、茅乃のオタク的行動を目にするのは、今回が初めて。
 その視線はあまりにも真剣で、数ページ読み進めたと思えば、数ページ分戻り、またじっくりと読み返している。

(……?)

 そんな友人の行動は、千優の脳内に小さな疑問を生みだした。
 てっきり、いつものように手持ちの本を持ってきているだけと思った。
 だが、すでに熟読しているだろう漫画を、あそこまで必死に読むかと、疑問は消えず脳裏に蔓延る。

「茅乃」

「んー?」

 気にしなければ特に何も思わないような問題だが、千優はつい口を開き言葉を紡いでしまった。
 車内は相変わらずで、少々暇を持て余していたせいかおしれない。
 彼女が声をかけると、茅乃は視線は手元に落としたまま、声だけを返してくれる。
 集中している時に悪いと思っていたが、その様子から、会話はそれなりに可能と悟った。

「同じ漫画を、そこまで真剣に何度も読み返せるのって……すごいね」

 己の中にあらわれた小さな疑問をどうぶつけるべきか。
 散々悩んだ挙句、口から零れたのは、純粋な称賛めいた言葉だった。

「いいやー? 違うよ」

「……ん?」

 何度も読み返してしまうくらい、登場キャラクター、もしくはストーリーがすばらしいと熱弁される。
 そんな予測を立てていた千優の耳に、答えらしき返答が届く。
 しかし、聞こえてきたそれは、彼女の予想を裏切るものだった。

「それ……読んだこと無いやつ、なの?」

「そうだよ。ほら、一昨日私が言ってたやつなんだ。ようやく……ようやく読めた!」

(……んん?)

 千優が発した声は、隠しきれない戸惑いが滲むせいか、壊れたロボットのようにぎこちない。
 しかし、そんな様子など気に留めることなく、茅乃は弾んだ声を出し、ずっと伏せていた顔をあげた。
 そのまま彼女は、キラキラ輝く眼差しをこちらへ向けてくる。
 その言動を目の当たりにした瞬間、千優の中にあった疑問は勢いよく膨らんでいく。
 どうやら今彼女が手にしているモノは、発売日に買えなかったと、サービスエリアで騒いでいた例の漫画らしい。

 旅行初日に手元に無いと騒いでいた漫画を、最終日に読み耽る友人。
 それは、違和感しかない図式へ変化していく。

 この旅行中、千優に茅乃と別行動を取った記憶は無い。
 離れていたと言っても、思い出す限り、土産物を見て回っていた時くらいだ。
 もちろん、本屋に立ち寄るなんてこともしていない。ならば何故、あるはずの無い漫画の新刊が、今友人の手元にあるのだろう。
 それはまるで、小さなミステリー。さながら探偵にでもなった気分で、千優は一人頭を悩ませていた。
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