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馴れ初め編/第四章 その想い、湯けむりに紛れて

61.置いてきぼりの思考

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(す、き? 篠原が……私を?)

 久しぶりに味わう衝撃は、巨大なハンマーへ姿を変え、頭上から叩きつけるように振り下ろされる。
 倒れないよう両足に力を入れ踏ん張るのが精いっぱいで、みるみるうちに脳内を侵食する白を止められなかった。
 思考力と引き換えに、それはどんどん範囲を広げていく。

 しばらくして、焦点の定まらない千優の瞳はぎこちなく動き、二つのものを映し出した。
 一つは、いまだしっかりと己の両肩を掴む男の手。そしてもう一つは、真っ直ぐこちらを見つめる少しだけ震える瞳。
 いくつもの感情が入り混じった眼差しに、どう向き合えば良いかわからず、まるで伝染でもしたかのようにこちらの視線までもが揺らぎだす。
 見ている方が恥ずかしくなる程赤く染まった篠原の頬を、視界に入れぬよう努力するも上手くいかない。

「…………」

 返す言葉を見つけることが出来ず、出来ることと言えば、戸惑いの視線を彼に向けることくらいだった。


「もう何年も前から――」

 目の前で言葉を紡ぐ篠原の声が、次第に遠くなっていく。
 絶え間なく視線の先で口は動いているというのに、不思議と音を拾えないのは何故だ。

 働きの鈍くなった脳をどうにか稼働させても、探し求めるいくつもの答えはどこにも見つからない。
 目の前にいる男から向けられた感情が、ライクではなくラブだということは、何とか理解出来る。
 しかし、その事実をすんなりと受け入れてはいない自分がいることに、千優は気づいてしまった。

 思い返すのは、篠原寿明と出会ってからこれまで共に過ごしてきた数年の記憶。
 脳裏によみがえるのは、もっぱら後藤を交え三人で飲んだ光景ばかりだ。
 口を開けば、彼はいつもくだらない話しかしていなかった気がする。

(篠原が私を好きになる要素って、どこにあるんだろう? いや、その前に……そもそも、そんなものがあったのか?)

 脳内を埋め尽くす『何故』の二文字に、頭が爆発するのではと、千優は焦り始めた。
 小さな焦りは新たな焦りを生み出す。そしてまた次へと、終わることの無い感情の波が脳を支配していく。

「柳……」

 すると千優は、不意に己の耳が再び音を拾い始めたことに気づいた。
 突然音が消えた理由はよくわからないが、どうやら病気などでは無い様だ。
 おずおずと、聞こえてきた声の方へ視線を向けると、そこにあったのは、これまでと少し違う色に染まった瞳。
 一際高温の熱が混ざった眼差しに、千優の中で得体の知れぬものがざわざわと騒ぎ出す。

(どう、しよう)

 篠原と二人きりの空間は嫌になる程静かで、己の中で騒ぐ音が彼に聞こえるのではないかと、ひどく不安になった。
 どうにかして、この静寂を壊したい。壊さなければいけない。
 そう思うのに、その方法がわからない。

 ――自分は彼に何と言葉を返せばいい?

 堂々巡りする思考の中、ドクドクと脈打つ心音がやけに騒がしく思えた。





「篠原ー」

「……っ!」

 定まらぬ視線がいつの間にか己の足元へ向けられていた。
 裸足の指先と畳を視界におさめながら、千優は声にもならない浅く短い息を吐き出す。
 そんな時、引き戸越しに聞こえてきたのは、よく知った声だった。

(國枝さんだ)

 心優しい彼のことだ。
 きっと、いつまで経っても戻ってこない後輩達を心配し、様子を見に来てくれたのだろう。
 自分が呼ばれたわけでもないのに、何故か胸の奥が甘く疼きだし、千優は首を傾げたくなった。
 しかし、そんなものはほんの数秒で終わり、かわりに胸の奥へ広がるのは、ザラリとした焦燥。
 それは、わずかに残っていた彼女の冷静さをあっさりと奪っていく。

「……っ」

 俯いていた顔をあげると、大きく目を見開き、あきらかな困惑を見せる篠原と目が合う。
 その瞬間、頭で考えるよりも先に、身体が目に見えぬモノを本能で拒絶する。

(……えっ?)

 無意識に後退しようと千優は片足を下げた。
 そして次は反対の足をと体重を移動させた時、身体が後ろへ倒れこむようにグラリと傾く。
 訳がわからぬまま、やけにゆっくりと目の前の景色が変わっていく。そんな錯覚を千優は体感していた。
 今まで確かに目の前にいた同期の友人。
 次第にその姿も、彼の姿越しに見ていた壁も見えなくなっていく。そのかわり、彼女の視界に映りこむのは、自然な木の色合いが美しい天井だった。


「柳っ! って、うわあぁっ!」

「……っ」

 酷く焦った篠原の声を聞きながら、どこか夢見心地だった意識が強制的に現実へ戻された千優は、自分の体が倒れていることを漠然と認識する。
 気づいた時には、蛍光灯の眩しさに目を細め、広範囲にわたる痛みと衝撃に表情を歪ませるしかなかった。
 身体中に感じる痛みは、取り分け後頭部のものが酷い気がする。

 そのまま彼女は、数秒呼吸を忘れ、頭の中が白一色に染まるような感覚を味わった。
 そんな状態だからか、足を滑らせ、床へ倒れこんだことを、千優はすぐに認識出来なかった。
 わかることと言えば、背中や後頭部の痛み、視界に差し込む人工的な眩しさくらいなもの。
 打ちつけた身体を襲う痛みを耐える声は、息苦しさのあまり吐き出した息と共に音もなく消えていく。

(何が、あった? というか、すごい痛い。あと……なんか重い)

 すると、真っ白だった脳が徐々に覚醒し始めたお陰か、千優は次第に思考力を取り戻す。
 そんな彼女が一番最初に抱いたのは、激しい戸惑いだった。
 状況を把握しなければいけない。そう頭ではわかっているのに、痛む体、さらに何かが圧し掛かる重みが、意識を邪魔していく。
 目元に薄っすら浮かぶ涙を拭いもせず、千優は、どうにか現状の一欠片でも掴めないかと、意識を周囲へ向けた。

「……っ! どうしたの! 大丈夫?」

 すると、視線を動かすのとほぼ同時に、勢いよく戸を開ける音とひどく慌てた声が重なって聞こえてきた。
 先程と同じそれに、導かれるまま千優の眼差しが動き出す。
 そして数秒後、彼女はその瞳に、部屋の入口にたたずむ國枝の姿をとらえる。

「…………」

 畳が敷き詰められた床の上に仰向けで倒れているせいか、いつも自分より背の高い彼が、さらに大きく見える。
 ぼんやりとその姿を認識していると、少しずつ繋がり始めた思考回路が、再び現状把握のためと情報伝達速度を上げていく。
 どうやら自分の脳は、一つでも多くの情報を集めることに必死な様子。

(……あ、れ?)

 しかし、千優がある違和感に気づいた時、その速度は急激に落ち始めた。
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