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馴れ初め編/第四章 その想い、湯けむりに紛れて

56.理想と現実はかけ離れるものである

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 館内に入り、受付に立ち寄った面々は、女将から今回五人が宿泊する部屋についての説明を受ける。
 その途中、二部屋しか用意されていない事を知った千優は、驚きを隠せず、わずかに目を見開いた。

 しかし、冷静に考えてみれば、用意されている部屋が二つという事には納得がいく。
 元々篠原が譲り受けたのは、家族向けの宿泊券だったのだ。
 一人一部屋が割り当てられるなど、あり得ないだろう。

 ちらりと周囲を見回せば、茅乃達も少なからず戸惑いを隠せないようで、わずかだが強張った表情を浮かべている。
 そうは言っても、今回は完全に自分達のミスだ。
 事前に詳しく話を聞かなかったのだからと、心のモヤモヤを己の中へしまい込む。
 そんな時、説明が始まってからずっと黙り込んでいた後藤が口を開いた。

「学生に戻った気分で、ここは男女別で泊まるのがいいんじゃないか?」

 先輩の言葉に、思わず隣にいる茅乃の方へ視線を向ける。
 すると、彼女もこちらを向き、互いを見合う形となった。そのまま二人共に頷きあい、賛成の意を示す。
 初対面同然の人との同室は遠慮したいが、相手が気心の知れる茅乃ならば、千優にとってまったく問題は無い。

「えー、野郎三人で同じ部屋って……」

「あら、なーに? 篠原、アタシと同じ部屋は嫌だって言うの?」

「いいえ、そんな事ありません! っていうか、離れてくださいよ。気持ち悪い!」

 男性陣もすんなり納得するだろうと思っていれば、そう簡単に事は運ばない。
 三人の中でたった一人、篠原だけが不満を主張し始める。
 その口ぶりから、男三人で寝泊まりすることを、心底嫌がっている様子は感じられない。
 それなら素直に頷いてくれればと、子供じみたわがままに呆れていれば、スッと、國枝がしな垂れるように篠原へ体を預けた。
 そのまま、じゃれるように後輩に抱きついた國枝は、人目も気にせず篠原の耳元へ口を寄せる。その姿は、何故か驚くほど色っぽい。
 すると、今までの主張が嘘のように、駄々っ子だった男が意見をひるがえした。

 少々強引かつ、目のやり場に困る誘導ではあったが、國枝のファインプレーが功を奏し、部屋割りについてそれ以上揉めることは無かった。

「うぅ……どうせなら、男女ペアとかさぁ。色々方法はあると思うんすよ……」

「男女ペアが成立するなら、お前は一人部屋な」

「そうね。篠原は一人でのんびりしてればいいわ」

「二人共、俺に対して当たりがキツすぎ! っていうか、俺が一人だと三部屋必要になるし」

 キャンキャンと騒ぐ犬で遊ぶ飼い主達はどこか楽しそうで、千優は茅乃と二人、苦笑いを浮かべそのやりとりをしばらく眺めた。





 全員が部屋割りに納得し受付を済ませると、その足でそれぞれの部屋へ向かう。
 綺麗な景色が見える広々とした和室に案内された千優は、早速荷物を開け軽く整理を始めた。
 前日のうちに用意しておいた着替えやタオルなどを、取り出しやすい場所に並べ替えながら考えるのはこれからの予定について。
 夕食の時間は七時と決まっており、それまでに指定の場所へ来て欲しいと、案内してくれた仲居の説明を思い出す。
 全員一緒に食事が出来るよう、別に部屋が用意されるそうだ。

 荷物整理を一時中断し、チラリと視線を向けたのはローテーブルの上に置かれた時計。現在、時刻は午後五時過ぎ。

(あんまり早く行ってもダメだし……どうしよう)

「千優、お風呂行ってみよう!」

 七時まであと二時間弱。その間、どのように時間を潰そうかと千優は悩み始めた。
 そんな彼女の耳に届いたのは、やけに明るい友人の声。
 驚きつつふり返ると、そこに居たのは、着替え用の浴衣やタオルなど、入浴の準備を済ませ笑顔を浮かべる茅乃だ。
 彼女の頬に、ワクワクと弾む心を表わした書体の幻が見える。
 つい先程まで、車の中で落ち込んでいた女性と同一人物とは思えない程の変貌に、千優の開いた口はなかなか塞がらない。

「ここの温泉、美肌効果があるんだってさー。さっき仲居さんが教えてくれ……」

「かや、の?」

「……ん?」

「なんか……元気になった、ね?」

「あはは、何言ってるの。私はいつだって元気だよ。ほら、早く準備して行こう!」

「あ、あぁ……うん」

 そう言うのなら、あの落ち込み様は何だと、口元まで出かかった声を必死に押し戻す。
 今ここで声を発しても、何も自分は得られないと悟った千優は、どうにか心の中で戸惑いを昇華する。
 なおも一緒に温泉へ行こうと急かす友人の言葉に、千優はアタフタと準備を急いだ。

 仕度を済ませた千優は、部屋を出た後、茅乃に手を引かれるまま、旅館内の廊下を歩く。
 温泉、温泉と、心を弾ませる友人とは対照的に、千優の頭の中は、急激な友人の変化に対する疑問で溢れかえる。
 移動中、食べ物や観光地でいくら気を紛らわそうとしても、茅乃の心が全快することはなかった。
 それほどまでに、彼女の中で昨日発売だという漫画への想いは強かったのだろう。

 それが今はどうだ。
 目の前にいる友人は、普段オタク話をする時の彼女と変わらぬハイテンションぶりを発揮している。

(一体、何があった?)

 どん底へ落ちていた心の矢印が、何かの瞬間に向きを変えたのは確か。
 しかし、そのきっかけがわからぬまま、入浴セットを手にした千優は、上機嫌な茅乃に腕を掴まれ、女風呂へ連行される。


 篠原の寝坊、茅乃のテンション、國枝のセクハラと、初日から次々投下される爆弾達。
 のんびりと過ごす癒しの旅を期待していたはずが、どうやら理想と現実はそう上手く合致しない様だ。
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