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本編
第44話
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最後に光志と過ごしたのは半月前。
だけど、その日の目的は新居候補巡りで、志郎や倉本も一緒だった。
他人が居る空間でイチャつくなんて、到底美奈穂には出来ない。そんな彼女が精いっぱいの勇気を出して、自分に寄りかかって眠る彼の頭をこっそり撫でた。
そんな自分とは逆に、光志は前に座っている二人の目を気にせず抱きしめてくれたり、聞いているとドキドキする言葉を何度も言ってくれた。
でも、二人きりになった時に味わった甘くて痺れるようなキスは出来なかったし、息が止まりそうになるくらいの抱擁もなかった。
(光志さん……)
恋人からの激しいスキンシップには、まだ全然慣れていない。
だけど、辛うじて毎日やりとりするメッセージと、数日おきの通話だけじゃ足りない。
真逆すぎる感情に戸惑う美奈穂は現在、深刻すぎる“光志不足”に陥っている。
その深刻さを、当の本人はあまり自覚出来ていない。
お店が定休日のため、自宅で一日のんびりした美奈穂は、翌日通い慣れてきたお店の裏口から店内へ入る。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう、美奈穂ちゃん」
そのまま女性スタッフの控え室へ行くと、先に来ていた数名の先輩スタッフがお喋りをしている最中だった。
その中には亜沙美も居て、美奈穂の声にみんな挨拶を返してくれる。
美奈穂はドア近くのテーブルに置かれた出勤表に視線を落としながら、そばにある赤いボールペンを取った。
そして、今日の日付が書かれたスペースと、自分の名前が書かれたスペースが丁度交わった場所にチェックを入れる。
ここの従業員シフトは、基本的にパソコンで管理しているらしい。
だけど、念には念を入れて、実際の勤務状況とシフト表を照らし合わせるために出勤チェックをしていると教えられ、美奈穂は出勤したら必ず確認表に印をつけている。
「……ふああ」
「あれ? もしかして寝不足?」
お店から支給された制服に着替えるため、割り当てられたロッカーを開け、ひとまずバッグを中へ置く。
その瞬間出た欠伸に、美奈穂は慌てて手を口元へあて誤魔化した。
でも音までは誤魔化しきれなくて、近くに居た先輩の一人が心配そうに声をかけてくれる。
「……えへへ。実は昨日、レンタルしてた映画のDVDを夜中まで見ちゃって」
「あー、映画は一度見始めると止め時わからないものね。どんな映画を見たの?」
声のする方を振り向くと、更衣室にいる全員の視線がいつの間にか自分に向いていた。
その状況にギョッとしつつ、美奈穂は口元を隠したまま咄嗟に嘘をつく。
すると今度は別の女性が、うんうんと頷いてくれた。
そんな彼女からの質問に、以前借りた映画のタイトルを口にしながら、無意識に視線を逸らす。
それは、寝不足の理由が単なる夜更かしじゃないからだ。
でも、寝不足になった本当の原因は、ここじゃ絶対言えない。
胸の奥に、締め付けられるような痛みを感じながら、自分が咄嗟に口にした映画について語り合う先輩たちの声を聞く。
うまく誤魔化せたことへの安堵と、騙すような態度をとった申し訳なさを感じつつ、今のうちに着替えてしまおうと、美奈穂は胸元にあるボタンへ手を伸ばした。
『美奈穂ちゃん。今日は私と一緒に外でお昼食べましょう』
『えっ?』
朝のミーティングが終わり、営業中の看板を出せば、お店には次々にお客さんがやってくる。
美奈穂は知らなかったけれど、ここは時々グルメ雑誌やテレビでも紹介される結構な有名店らしい。
そのため、朝から夕方まで厨房とフロアの往復が続く。
途中、交代でとっている十分間の休憩時間になり、バックヤードへ引っ込もうとした時、突然亜沙美から二人きりのお昼に誘われた。
お昼休みの時間になり、一旦外に出した看板はクローズに。
そこで亜沙美はご機嫌な声で「美奈穂ちゃんとランチしてきまーす」と言い、美奈穂の手を引いてお店の外に連れ出してしまった。
お昼をどう過ごすかは基本的に自由らしい。お弁当を持ってきてもいいし、外へ食べに出掛けてもいいそうだ。
でも、店長の計らいで賄いが出されるため、スタッフのほとんどはそれを食べながら毎日ワイワイお喋りしている。
もちろん亜沙美もその一人なはずなのに、どうして?
なんて首を傾げている間に、美奈穂は亜沙美が夫と乗ってきた車に乗せられ、気づくとお店の裏にある駐車場から車道へ出ていた。
「亜沙美さん……あの、今日はどうしたんですか? ランチなら、良晴さんと一緒に行った方が良くないですか?」
「いいのいいの。今日は美奈穂ちゃんとランチしたい気分だから。ちょっと強引に誘っちゃったけど、もしかして迷惑だった?」
「い、いいえ! そんなことは無いです」
「ふふっ、それは良かった!」
助手席に座る美奈穂をチラチラ横目で見つめる亜沙美の視線は、どこか不安げだった。
そんな彼女の様子に慌てて首を振れば、隣からホッとした声が聞こえてくる。
最初こそ驚いたけれど、同僚からランチに誘ってもらうなんて初めてで、美奈穂は内心すごく浮かれているのだ。
これから二人が行くお店は、割と近場にある定食屋さんらしい。
「ほら、私たちが働いてるところってイタリアンでしょう? 一日中、ほぼ毎日あの空間にいると時々真逆な料理が食べたくなるんだよね。夕飯を和食にしてしのいだりするんだけど……衝動的に、和食―って時があって。そういう時は、良晴引っ張って駆け込むんだ」
そう言って照れ笑いを浮かべる亜沙美の様子を、美奈穂は目を細めながらどこか羨ましそうに見つめ、運転席から聞こえる言葉に耳を傾けた。
一日の仕事を終えた帰り道。アパートが近づき、だんだん人の往来が少なくなっていく道を歩きながら、昼間、亜沙美と出掛けた定食屋さんでのことを思い返す。
『美奈穂ちゃん、最近光志君とはどう?』
『……へっ?』
向かい合う形でテーブル席に着いて、それぞれ注文した定食を食べていた時だった。
サバ味噌定食を美味しそうに頬張っていた亜沙美が、不意に口を開く。
聞こえて来た言葉はあまりにも突飛で、ポリっと漬物をかじった直後、気づいたら間抜けな声が出ていた。
『ほら、この前一緒に引っ越し先見に行ったでしょう? どう? あれからデートとかした?』
『あ、えっと……してない、です』
『えっ!? 一度も?』
女性はいくつになっても恋バナが好き。
そんな言葉を証明するかのように、亜沙美はとびきりの笑顔を美奈穂へ向ける。だけど、返ってきた美奈穂の言葉にそれは一瞬で消え去った。
目が泳がせる反応も目にし、今度は大きく目を見開く。
続けざまの質問に美奈穂が小さく頷くと、それまで動いていた亜沙美の箸を持つ手が止まった。
その後、美奈穂は促されるまま自分の中に溜め込んでいた想いを吐き出しながら食事を続けた。
最初は、メッセージのやり取りや、電話越しに声を聞くだけでも毎日ドキドキしていた。
でも、日が立つごとに自分がわがままになっていくのがわかった。
出来るなら毎日話をしたい。光志の顔が見たい。電話越しじゃなく、直接会って話したい。彼に触れたい。
その想いは、時間が経つほど強くなっていく。
だけど、メッセージの返事が遅かったり、電話越しに聞こえる声がどこか疲れていたり、数少ない光志と過ごす時間の中で、彼が多忙なことは十分伝わってきた。
だから「会いたい」なんてわがままはどうしても言えなくて、この一か月自分なりに気を紛らわせてきたと。
話を終えた美奈穂は、すぐに「ごめんなさい」と頭を下げた。
楽しいランチタイムになるはずが、自分の愚痴のせいで一転お通夜状態になったと、激しい後悔に襲われる。
『ほらほら、そんな暗い顔しないの。こういう時は年長者にまっかせなさーい』
すると次の瞬間、落ち込む美奈穂を包む重苦しい空気を吹き飛ばすくらいの明るい声が聞こえた。
無意識にうつ向いていた顔を上げると、目の前にはにっこり笑顔でピースサインをする頼もしい亜沙美が大きく頷いてくれた。
少し潤んだ目元を見られたくない。そう思って美奈穂がトイレに立った隙をつくように、戻ってくると亜沙美がもうお昼の会計を済ませていた。
今日は自分が奢ると言って聞かない先輩に背中を押され、そのまま車に乗ってお店へ一直線。
それから午後のシフトをこなして、美奈穂は従業員たちに見送られながら、一番に退勤させられた。
(亜沙美さんに任せるって……結局どういう意味だったんだろう?)
定食屋さんで自信満々に笑っていた先輩の姿を思い出しながら、美奈穂は夜道で一人首を傾げる。
昼休みが終わった後、隙を見つけて「何をする気ですか?」と、亜沙美に何度も質問をぶつけた。
だけど彼女は答えてくれず、ただにこりとほほ笑むだけ。
退勤時間まで粘ったものの、ヒントすら貰えず、美奈穂はとぼとぼと帰路につく。
「……あれ?」
とりあえずこのまま家に帰って、ダメ押しでメッセージでも送ってみようか。
なんてことを思っていた時、美奈穂はアパート近くの路肩に止まった一台のタクシーを見つけた。
(誰か、これから出掛けるのかな?)
タクシー移動なんて、自分はもう何年もしていない。
最後にタクシーに乗ったのはいつだっけと思い出しながら、その横を通り過ぎようとした時、突然助手席側のドアが開いた。
そして中から乗っていた誰かが出てくると、タクシーの前方へ回り込み、運転席側を歩いていた美奈穂の前へ駆け寄ってくる。
「突然ごめんなさい。えっと……貴女が谷崎美奈穂さん、で間違いないかしら?」
「は、はいっ! 谷崎美奈穂は私、ですが」
美奈穂の目の前にあらわれたのは、茶髪をショートカットにしたスーツ姿の女性だった。
突然見知らぬ人の口から自分の名前が出たことに驚きつつ、つい反射的に頷いてしまう。
きっと光志や志郎たちが居たら「迂闊すぎる!」と怒られるかもしれない。
「私は木島江奈という者です。政府の番法案管理課に所属しておりまして……今日はうちの相楽から要請を受け、貴女をお迎えにあがりました」
唖然とその場に立ち尽くす美奈穂の前で江奈は笑みを絶やさず、ジャケットの内ポケットから取り出した名刺を差し出す。
反射的に受け取ったそれには、たった今江奈から説明された部署名と彼女の名前、そして連絡先などが記されていた。
「あの……私を迎えにって言うのは、一体……」
「今まで、よく我慢しましたね」
(……えっ?)
「一日分……いえ、念のため、二、三日はお泊りできるよう荷物をまとめてください。今から私と、私の番であり、これのドライバーをしている旦那が、貴女を藤沢さんのもとへお送りします」
自分の担当と言っていた志郎が来るならまだしも、どうして初対面の江奈が、なんて内心首を傾げる美奈穂。
すると、江奈はこの上なく優しく目を細めながら、ポンとそばにあるタクシーのボンネットを叩いた。
だけど、その日の目的は新居候補巡りで、志郎や倉本も一緒だった。
他人が居る空間でイチャつくなんて、到底美奈穂には出来ない。そんな彼女が精いっぱいの勇気を出して、自分に寄りかかって眠る彼の頭をこっそり撫でた。
そんな自分とは逆に、光志は前に座っている二人の目を気にせず抱きしめてくれたり、聞いているとドキドキする言葉を何度も言ってくれた。
でも、二人きりになった時に味わった甘くて痺れるようなキスは出来なかったし、息が止まりそうになるくらいの抱擁もなかった。
(光志さん……)
恋人からの激しいスキンシップには、まだ全然慣れていない。
だけど、辛うじて毎日やりとりするメッセージと、数日おきの通話だけじゃ足りない。
真逆すぎる感情に戸惑う美奈穂は現在、深刻すぎる“光志不足”に陥っている。
その深刻さを、当の本人はあまり自覚出来ていない。
お店が定休日のため、自宅で一日のんびりした美奈穂は、翌日通い慣れてきたお店の裏口から店内へ入る。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう、美奈穂ちゃん」
そのまま女性スタッフの控え室へ行くと、先に来ていた数名の先輩スタッフがお喋りをしている最中だった。
その中には亜沙美も居て、美奈穂の声にみんな挨拶を返してくれる。
美奈穂はドア近くのテーブルに置かれた出勤表に視線を落としながら、そばにある赤いボールペンを取った。
そして、今日の日付が書かれたスペースと、自分の名前が書かれたスペースが丁度交わった場所にチェックを入れる。
ここの従業員シフトは、基本的にパソコンで管理しているらしい。
だけど、念には念を入れて、実際の勤務状況とシフト表を照らし合わせるために出勤チェックをしていると教えられ、美奈穂は出勤したら必ず確認表に印をつけている。
「……ふああ」
「あれ? もしかして寝不足?」
お店から支給された制服に着替えるため、割り当てられたロッカーを開け、ひとまずバッグを中へ置く。
その瞬間出た欠伸に、美奈穂は慌てて手を口元へあて誤魔化した。
でも音までは誤魔化しきれなくて、近くに居た先輩の一人が心配そうに声をかけてくれる。
「……えへへ。実は昨日、レンタルしてた映画のDVDを夜中まで見ちゃって」
「あー、映画は一度見始めると止め時わからないものね。どんな映画を見たの?」
声のする方を振り向くと、更衣室にいる全員の視線がいつの間にか自分に向いていた。
その状況にギョッとしつつ、美奈穂は口元を隠したまま咄嗟に嘘をつく。
すると今度は別の女性が、うんうんと頷いてくれた。
そんな彼女からの質問に、以前借りた映画のタイトルを口にしながら、無意識に視線を逸らす。
それは、寝不足の理由が単なる夜更かしじゃないからだ。
でも、寝不足になった本当の原因は、ここじゃ絶対言えない。
胸の奥に、締め付けられるような痛みを感じながら、自分が咄嗟に口にした映画について語り合う先輩たちの声を聞く。
うまく誤魔化せたことへの安堵と、騙すような態度をとった申し訳なさを感じつつ、今のうちに着替えてしまおうと、美奈穂は胸元にあるボタンへ手を伸ばした。
『美奈穂ちゃん。今日は私と一緒に外でお昼食べましょう』
『えっ?』
朝のミーティングが終わり、営業中の看板を出せば、お店には次々にお客さんがやってくる。
美奈穂は知らなかったけれど、ここは時々グルメ雑誌やテレビでも紹介される結構な有名店らしい。
そのため、朝から夕方まで厨房とフロアの往復が続く。
途中、交代でとっている十分間の休憩時間になり、バックヤードへ引っ込もうとした時、突然亜沙美から二人きりのお昼に誘われた。
お昼休みの時間になり、一旦外に出した看板はクローズに。
そこで亜沙美はご機嫌な声で「美奈穂ちゃんとランチしてきまーす」と言い、美奈穂の手を引いてお店の外に連れ出してしまった。
お昼をどう過ごすかは基本的に自由らしい。お弁当を持ってきてもいいし、外へ食べに出掛けてもいいそうだ。
でも、店長の計らいで賄いが出されるため、スタッフのほとんどはそれを食べながら毎日ワイワイお喋りしている。
もちろん亜沙美もその一人なはずなのに、どうして?
なんて首を傾げている間に、美奈穂は亜沙美が夫と乗ってきた車に乗せられ、気づくとお店の裏にある駐車場から車道へ出ていた。
「亜沙美さん……あの、今日はどうしたんですか? ランチなら、良晴さんと一緒に行った方が良くないですか?」
「いいのいいの。今日は美奈穂ちゃんとランチしたい気分だから。ちょっと強引に誘っちゃったけど、もしかして迷惑だった?」
「い、いいえ! そんなことは無いです」
「ふふっ、それは良かった!」
助手席に座る美奈穂をチラチラ横目で見つめる亜沙美の視線は、どこか不安げだった。
そんな彼女の様子に慌てて首を振れば、隣からホッとした声が聞こえてくる。
最初こそ驚いたけれど、同僚からランチに誘ってもらうなんて初めてで、美奈穂は内心すごく浮かれているのだ。
これから二人が行くお店は、割と近場にある定食屋さんらしい。
「ほら、私たちが働いてるところってイタリアンでしょう? 一日中、ほぼ毎日あの空間にいると時々真逆な料理が食べたくなるんだよね。夕飯を和食にしてしのいだりするんだけど……衝動的に、和食―って時があって。そういう時は、良晴引っ張って駆け込むんだ」
そう言って照れ笑いを浮かべる亜沙美の様子を、美奈穂は目を細めながらどこか羨ましそうに見つめ、運転席から聞こえる言葉に耳を傾けた。
一日の仕事を終えた帰り道。アパートが近づき、だんだん人の往来が少なくなっていく道を歩きながら、昼間、亜沙美と出掛けた定食屋さんでのことを思い返す。
『美奈穂ちゃん、最近光志君とはどう?』
『……へっ?』
向かい合う形でテーブル席に着いて、それぞれ注文した定食を食べていた時だった。
サバ味噌定食を美味しそうに頬張っていた亜沙美が、不意に口を開く。
聞こえて来た言葉はあまりにも突飛で、ポリっと漬物をかじった直後、気づいたら間抜けな声が出ていた。
『ほら、この前一緒に引っ越し先見に行ったでしょう? どう? あれからデートとかした?』
『あ、えっと……してない、です』
『えっ!? 一度も?』
女性はいくつになっても恋バナが好き。
そんな言葉を証明するかのように、亜沙美はとびきりの笑顔を美奈穂へ向ける。だけど、返ってきた美奈穂の言葉にそれは一瞬で消え去った。
目が泳がせる反応も目にし、今度は大きく目を見開く。
続けざまの質問に美奈穂が小さく頷くと、それまで動いていた亜沙美の箸を持つ手が止まった。
その後、美奈穂は促されるまま自分の中に溜め込んでいた想いを吐き出しながら食事を続けた。
最初は、メッセージのやり取りや、電話越しに声を聞くだけでも毎日ドキドキしていた。
でも、日が立つごとに自分がわがままになっていくのがわかった。
出来るなら毎日話をしたい。光志の顔が見たい。電話越しじゃなく、直接会って話したい。彼に触れたい。
その想いは、時間が経つほど強くなっていく。
だけど、メッセージの返事が遅かったり、電話越しに聞こえる声がどこか疲れていたり、数少ない光志と過ごす時間の中で、彼が多忙なことは十分伝わってきた。
だから「会いたい」なんてわがままはどうしても言えなくて、この一か月自分なりに気を紛らわせてきたと。
話を終えた美奈穂は、すぐに「ごめんなさい」と頭を下げた。
楽しいランチタイムになるはずが、自分の愚痴のせいで一転お通夜状態になったと、激しい後悔に襲われる。
『ほらほら、そんな暗い顔しないの。こういう時は年長者にまっかせなさーい』
すると次の瞬間、落ち込む美奈穂を包む重苦しい空気を吹き飛ばすくらいの明るい声が聞こえた。
無意識にうつ向いていた顔を上げると、目の前にはにっこり笑顔でピースサインをする頼もしい亜沙美が大きく頷いてくれた。
少し潤んだ目元を見られたくない。そう思って美奈穂がトイレに立った隙をつくように、戻ってくると亜沙美がもうお昼の会計を済ませていた。
今日は自分が奢ると言って聞かない先輩に背中を押され、そのまま車に乗ってお店へ一直線。
それから午後のシフトをこなして、美奈穂は従業員たちに見送られながら、一番に退勤させられた。
(亜沙美さんに任せるって……結局どういう意味だったんだろう?)
定食屋さんで自信満々に笑っていた先輩の姿を思い出しながら、美奈穂は夜道で一人首を傾げる。
昼休みが終わった後、隙を見つけて「何をする気ですか?」と、亜沙美に何度も質問をぶつけた。
だけど彼女は答えてくれず、ただにこりとほほ笑むだけ。
退勤時間まで粘ったものの、ヒントすら貰えず、美奈穂はとぼとぼと帰路につく。
「……あれ?」
とりあえずこのまま家に帰って、ダメ押しでメッセージでも送ってみようか。
なんてことを思っていた時、美奈穂はアパート近くの路肩に止まった一台のタクシーを見つけた。
(誰か、これから出掛けるのかな?)
タクシー移動なんて、自分はもう何年もしていない。
最後にタクシーに乗ったのはいつだっけと思い出しながら、その横を通り過ぎようとした時、突然助手席側のドアが開いた。
そして中から乗っていた誰かが出てくると、タクシーの前方へ回り込み、運転席側を歩いていた美奈穂の前へ駆け寄ってくる。
「突然ごめんなさい。えっと……貴女が谷崎美奈穂さん、で間違いないかしら?」
「は、はいっ! 谷崎美奈穂は私、ですが」
美奈穂の目の前にあらわれたのは、茶髪をショートカットにしたスーツ姿の女性だった。
突然見知らぬ人の口から自分の名前が出たことに驚きつつ、つい反射的に頷いてしまう。
きっと光志や志郎たちが居たら「迂闊すぎる!」と怒られるかもしれない。
「私は木島江奈という者です。政府の番法案管理課に所属しておりまして……今日はうちの相楽から要請を受け、貴女をお迎えにあがりました」
唖然とその場に立ち尽くす美奈穂の前で江奈は笑みを絶やさず、ジャケットの内ポケットから取り出した名刺を差し出す。
反射的に受け取ったそれには、たった今江奈から説明された部署名と彼女の名前、そして連絡先などが記されていた。
「あの……私を迎えにって言うのは、一体……」
「今まで、よく我慢しましたね」
(……えっ?)
「一日分……いえ、念のため、二、三日はお泊りできるよう荷物をまとめてください。今から私と、私の番であり、これのドライバーをしている旦那が、貴女を藤沢さんのもとへお送りします」
自分の担当と言っていた志郎が来るならまだしも、どうして初対面の江奈が、なんて内心首を傾げる美奈穂。
すると、江奈はこの上なく優しく目を細めながら、ポンとそばにあるタクシーのボンネットを叩いた。
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