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本編
第7話
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「あんた……一体何したのさ!? 藤沢さん、さっきからあんたのこと睨んでるんだけど……」
「俺ァ、何もしてねえよ。須藤に言われて、ここへ連れてくるために、美奈穂ちゃんを抱き起そうとしただけだ」
「いや、それ十分やっちゃってますからね? 下野さんもわかっているでしょう? ――を見つけた男がどんな気持ちになるかくらい」
「そ、そりゃあ……」
遠くから、聞き覚えのある声がたくさん聞こえてくる。
複数の男女が言い争いを聞きながら、美奈穂は静かに目を覚ました。
ゆっくり瞼を押し上げると、まず目についたのは、照明が取り付けられた天井。
自宅のものとは違いすぎる質の良さは、寝起きの頭でも理解できる。
そんな見覚えのない景色と、自分が何かに横たわっていることを、ぼんやりする頭で認識した途端、右手を包み込むようなぬくもりに気づく。
(……っ!)
自分に触れているものは何だろう。
違和感や嫌悪が無い柔らかな熱の正体が気になった美奈穂は、首、そして目線をゆっくりと動かしていく。
その視線の先に居たのは、自分が別館まで呼びに行った男。今回の集まりに参加している一人、藤沢光志だった。
彼は、美奈穂の右手を包み込むように両手で握りしめ、まるで神にでも祈るように自分の額に美奈穂の手を押しつけていた。
熱心に祈りを捧げる横顔があまりにも綺麗で、トクンと、大きな胸の高鳴りを感じる。
すると、寝起きでどこかぼんやりしていた頭の中がじわじわとクリアになっていくのがわかった。
どんよりと曇っていた空の雨雲が徐々に消え、光り輝く眩しい太陽を見つけたような嬉しさと興奮に鼓動はさらに加速する。
それは、意識を失う前に感じた胸の高鳴りにどこか通じている気がして、また倒れてしまうんじゃないかと、急に怖くなった。
「お? 起きたみたいだな」
晴れやかだった心に、不意をつくように影が差し込んだ瞬間、光志を中心に映す美奈穂の視界にも影が差す。
声が聞こえた方、丁度光志が居る場所とは反対方向へ視線を向けると、無精ひげを生やした白衣姿の男性が、二ッと口角をあげ、美奈穂の前で笑みを浮かべた。
彼女が目覚めたことにいち早く気付いた男性の声を聞き、彼女の周りには、光志をはじめ、美智子、亜沙美、良晴、哲夫などのスタッフ仲間や、志郎を含めた数名の役人男性がバタバタと集まってきた。
亜沙美に補助してもらい、ベッドの上に起き上がった美奈穂は、自分の周りに集まった人たちのどこかホッとした様子に首を傾げる。
一体ここはどこなのか。自分に何が起こったのか。どうしてみんなが集まっているのか。
投げかけたい疑問が次々と頭の中に浮かんでくる。その中でどの問いを口にしようか迷っていると、急に目の前からベッドの周りに集まった人々が消え視界が真っ暗になった。
そして同時に、右手だけに感じていたぬくもりまで消えてしまい、美奈穂は混乱した。
だけど、その混乱は割とすぐに収まった。
理由は、同じ熱にすっぽり上半身を包み込まれたから。
不思議と安心させられるぬくもりに、彼女は小さく息を吐く。
ぬくもりの原因が、美奈穂が目覚めたことに感極まった光志が、我慢できず自分を抱きしめたからと知ったのは、複数の男性達によって強引に彼が引き剥がされた後。
ニヤニヤとこちらを見つめ「すっかりラブラブなんだから!」と、茶化してくる美智子、亜沙美の声を聞いた十数秒後だった。
どうやら美奈穂が目覚めた場所は、本館内にある医務室らしい。
強引に彼女から引き離された光志は、無精ひげを生やした男性医師の指示で隣にある個室へ強制的に連行されていった。
医務室に残ったのは、美奈穂、美智子、亜沙美。そして男性医師と、彼と同じ白衣を着た女性医師の五人だけ。
「はーなーせー!」
「おいおい、兄ちゃんそんなに暴れんなって! ……っ、だあっ!」
「藤沢さん落ち着いてください! 貴方もさっきしたでしょう? いくつか問診をするだけですから!」
「たった数分のことですよ。ほら、静かにしていないと、もっと時間がかかってしまいます……」
「うるさいっ! 問診するだけなら、女の医者だって居んだろうが。どうしてひげ野郎まで残ってるんだよ。男全員閉め出すんなら、あの野郎もこっちに連れてこい!」
部屋と部屋を隔てる扉の向こうから、ドタバタと物同士がぶつかる音や、言い合う声がひっきりなしに聞こえてくるのがわかる。
自分を捕まえる男たちの手から、光志が逃れようともがいている様子は、視覚情報ナシでも簡単に想像することが出来た。
それ程までに、彼の荒れ狂う怒号は強烈で、ベッドの上に身体を起こしたままの美奈穂は唖然とするしかない。
「うっせえな……少しくらい黙ってろクソガキ! こっちは、身重のカミさんから目、離すわけにいかねえんだよ。ひと様のモンに欲情する程落ちぶれちゃいねえから、十分そこらの時間黙って待ってろや!」
「……っ!」
すると今度は、ストッパー代わりに背中を預け、扉を押さえつけていた男性医師が光志に負けないくらいの怒号を隣の部屋へ向かって吐き出す。
美奈穂が目覚めた時に見せてくれた優しい笑顔は消え、怒りを露わにした顔、そして彼が身にまとう人を寄せ付けないオーラがそうさせるのか、今度は美奈穂だけじゃなく、美智子達まで若干引いている。
「アナタ、この子の前では汚い言葉遣いは止めてって言ってるでしょう?」
「お、おう……悪い」
そんな怒号が飛び交う状況を物ともせず、男たちの争いを一言で制したのは、スリムなボディーには少し不釣り合いに膨らんだお腹を撫で、キャスター付きの椅子に腰かけベッドへ近づいてくる女性医師だった。
その後、騒々しさの消えた医務室内で女性医師中原千草さんによる問診が始まった。
無精ひげを生やした男性医師は、どうやら彼女の旦那さんで、名前は兼治さん。
二人も、裏方スタッフの一員としてこの施設へ呼ばれたらしい。
彼女たちも、他の裏方スタッフと同じく番同士だということを、聴診器で心音を聞くついでとばかりに、千草さん自ら教えてくれた。
「お二人は、朝の顔合わせの時……調理場にはいませんでしたよね?」
「ええ、私達は車で来たから。お昼過ぎだったのよ」
「こいつの腹が目立ってることに、気づく奴は気づくからな。俺達は、ずっと医務室にこもってたんだよ。余計な詮索されたくなかったし」
時々兼治も参戦しながら、女同士の会話がしばらく続く。
その間、扉の向こうからは「まだか? 遅くないか?」と、不安と苛立ちが募る光志の声が何度も聞こえてきた。
そのたびに兼治が大人しく待っていろと黙らせ「お前絶対、分娩室の外で待ってるの合わないタイプだな」なんて、揶揄する声が飛ぶ。
すると次の瞬間、兼治の声に苛立った光志によって、ドンっと扉へ強い衝撃が走った。
「ちょっと! 無暗に殴らないでくれない? もし施設設備が破損したら、修繕費請求するよ」
「いちいち騒ぐなっつってんだろ! 腹の子がビビるじゃねえか!」
突然の音に驚くあまり、美奈穂はつい肩をビクつかせながら扉の方を見る。
そんな彼女の耳に届いた二つの叱責。
一つは扉の向こうから聞こえた志郎のもの。もう一つは、扉のそばにいる兼治のもの。
男たちのやり取りに、少しばかり意識を向けた千草は、美奈穂と違って動揺などせず「さっさと終わらせなくちゃね」と、どこか楽しげに笑い声をあげた。
聴診や体調面についての質疑応答が終わると、続けざまに倒れた時の状況について質問された。
どうして光志のもとへ行ったのか、なんて質問から始まり、彼の姿を見た瞬間どんなことを思ったかなど、事細かな問いが続く。
最初の方は緊張した様子を見せているものの、美奈穂は冷静に答えていた。
だけど、質問内容が自分の内面について触れるものが多くなるにつれ、恥ずかしさが前面に出てしまい、口ごもることが多くなる。
そんな彼女を、美智子も亜沙美も、もちろん中原夫妻も誰一人責めなかった。
「焦らないで。あっちに居る人達に、藤沢さんのことは任せて。美奈穂ちゃんは、美奈穂ちゃんのペースで話してくれればいいから」
そう言ってほほ笑む千草の姿は、まるで離れて暮らす母親を思い出させ、ほんの少し潤んだ涙腺を美奈穂はこっそり拭いながら微笑んだ。
「うーん、こんなものかなあ……」
問診が始まってから十五分程経った頃。
手にしたカルテに何やら書き込みをしながら、千草はクルクルと手にしたボールペンを回し唸る。
そんな彼女の様子を見た兼治は「もう檻開けていいかー?」なんて、まるで動物園の飼育員のようなセリフを笑いながら口にする。
ほぼ同性同士な室内とは言え、根掘り葉掘り聞かれた質問内容は後半になるにつれ羞恥心を煽るものが多かった気がしてならない。
あまりの恥ずかしさに火照った身体を冷まそうと、美奈穂は小さく息を吐きながら、頼りない手つきでパタパタと自分を仰ぐ。
「あ、そうだ。大事なこと忘れてたわ」
一際熱い頬の熱が引いて欲しいと、懸命に手を動かし風を送っていた時、急に書き物をしていた千草の手が止まる。
その言葉に、キョトンと首を傾げると、何故か千草はこれまでで一番輝くようなにんまりとした笑みを浮かべ、ススッとベッドに座る美奈穂の方へ近づいてきた。
「美奈穂ちゃん。ちょっと耳貸して?」
「え、っと……こう、ですか?」
突然のお願いに、一瞬反応が遅れる。
だけど今は、目の前にいる彼女が自分の担当医なのだと言い聞かせ、美奈穂は戸惑いが消えないまま、顔を横向きにし、千草の方へ自分の耳を近づける。
すると、満足げに小さく笑う彼女の声が聞こえた。
そして続けざまに、耳元に口を寄せた主治医の口から、小さな爆弾が投下される。
「気を失う前……思わなかった? 藤沢さんが欲しいって。心も、身体も、ぜーんぶ、自分だけのものにしたいって」
語尾にハートマークが飛び交う女性同士の内緒話でもするように、女性医師はどこか楽しげに問いかけてきた。
その言葉を聞いた瞬間、ほんの少し熱が引いてきたはずの身体は一瞬で熱さを取り戻していく。
ギギギッと、壊れたロボットのように首をぎこちなく動かし、正面を向く。
すると次の瞬間、全身を、一際顔を火照らせる美奈穂の目に映ったのは、茶目っ気たっぷりにピースサインをする担当医の満面の笑みだった。
「何か変なことされなかったか!?」
すべての診察が終わった後、ストッパー役の兼治がその場から離れた瞬間、扉は乱暴に開け放たれた。そして、その向こうから黒い何かが医務室へ飛び込んでくる。
それが、一目散に美奈穂の元へ駆け寄ってきた光志とわかったのは、両肩に置かれた無骨な手の重さと、間近から聞こえる声、そして自分を真っ直ぐ見つめる茶色い眼差しに気づいてから。
「えっと、あ……その……っ」
心配そうにこちらを覗き込む彼を安心させたい。
そう思って頷こうにも、さっき悪戯に投げかけられた質問が尾を引くせいで、美奈穂の頭の中は未だパニック状態だった。
おかげで顔から熱と赤みは引かないし、言葉もしどろもどろ。
「おい、こいつに何したっ!」
「何もしてないっての。お前にしたこと、そのまんまやっただけだ。あ、やったのはうちのカミさんな。俺じゃねえよ」
狼狽えてばかりな美奈穂の様子を目の当たりにした光志が、鋭い睨みを聞かせスタッフ達の方を振り返る。
そして、その視線はすぐ兼治へ固定された。
とは言っても、睨まれた兼治は特に慌てる様子を見せず、肩をすくめながら両手を顔の前にあげる。まるで、身の潔白を証明するかのように。
「俺にしたのと同じ……そうか。そうか」
自分の望んでいた反応を得られなかったからなのか、光志はまた美奈穂の方を向き、顔を真っ赤にしたまま落ち着かない様子の彼女を見つめる。
そして、しばらく自問自答したと思えば、口元にニヤリと笑みを浮かべ、彼は一人満足げに笑った。
もちろん、オロオロしっぱなしな美奈穂は、その様子に気づきはしない。
『気を失う前……思わなかった? 藤沢さんが欲しいって。心も、身体も、ぜーんぶ、自分だけのものにしたいって』
彼女は知らないし、気づきもしなかった。
自分が気を失っている間、光志が兼治からまったく同じ問いを投げかけられていたことを。
その事実を思い出し、美奈穂も自分を欲しいと思ってくれたことを、一人ニヤつきながら喜ぶヤバい男が誕生したことを。
「うっわ、気色悪いくらいにニヤついてんじゃん。あいつ……ヤバくね? 相楽、美奈穂ちゃんが危ないから、あいつ気絶でもさせるか?」
「大丈夫だよ。一度認定した相手に危害を加える奴なんて、誰一人として居ないんだから。まあ……ここまで執着激しいのは久々に見たけど」
そして、兼治と志郎が隣り合い、若干顔を引きつらせながらコソコソ話をしていることを、自分達だけの世界に浸る美奈穂と光志は知りもしなかった。
光志の興奮が落ち着き、美奈穂の精神も落ち着いた頃、二人は隣り合うようにベッドに座らされ、その前に役人男性を代表し志郎が立った。
一体今度は何が始まるのかと、美奈穂は緊張するあまりゴクリと喉を鳴らす。
すると、スーツ姿の別の男性から一枚の紙を受け取った志郎は、コホンとワザとらしく咳ばらいをした直後、受け取ったばかりのそれを二人の前に掲げ宣言した。
「藤沢光志さん、谷崎美奈穂さん。我々政府は、本日この時をもちまして、あなた方二人を運命の番と認定します」
高らかな宣言と共に、二人の名前が書きこまれた“運命の番認定証”が彼女たちの前に差し出された。
「俺ァ、何もしてねえよ。須藤に言われて、ここへ連れてくるために、美奈穂ちゃんを抱き起そうとしただけだ」
「いや、それ十分やっちゃってますからね? 下野さんもわかっているでしょう? ――を見つけた男がどんな気持ちになるかくらい」
「そ、そりゃあ……」
遠くから、聞き覚えのある声がたくさん聞こえてくる。
複数の男女が言い争いを聞きながら、美奈穂は静かに目を覚ました。
ゆっくり瞼を押し上げると、まず目についたのは、照明が取り付けられた天井。
自宅のものとは違いすぎる質の良さは、寝起きの頭でも理解できる。
そんな見覚えのない景色と、自分が何かに横たわっていることを、ぼんやりする頭で認識した途端、右手を包み込むようなぬくもりに気づく。
(……っ!)
自分に触れているものは何だろう。
違和感や嫌悪が無い柔らかな熱の正体が気になった美奈穂は、首、そして目線をゆっくりと動かしていく。
その視線の先に居たのは、自分が別館まで呼びに行った男。今回の集まりに参加している一人、藤沢光志だった。
彼は、美奈穂の右手を包み込むように両手で握りしめ、まるで神にでも祈るように自分の額に美奈穂の手を押しつけていた。
熱心に祈りを捧げる横顔があまりにも綺麗で、トクンと、大きな胸の高鳴りを感じる。
すると、寝起きでどこかぼんやりしていた頭の中がじわじわとクリアになっていくのがわかった。
どんよりと曇っていた空の雨雲が徐々に消え、光り輝く眩しい太陽を見つけたような嬉しさと興奮に鼓動はさらに加速する。
それは、意識を失う前に感じた胸の高鳴りにどこか通じている気がして、また倒れてしまうんじゃないかと、急に怖くなった。
「お? 起きたみたいだな」
晴れやかだった心に、不意をつくように影が差し込んだ瞬間、光志を中心に映す美奈穂の視界にも影が差す。
声が聞こえた方、丁度光志が居る場所とは反対方向へ視線を向けると、無精ひげを生やした白衣姿の男性が、二ッと口角をあげ、美奈穂の前で笑みを浮かべた。
彼女が目覚めたことにいち早く気付いた男性の声を聞き、彼女の周りには、光志をはじめ、美智子、亜沙美、良晴、哲夫などのスタッフ仲間や、志郎を含めた数名の役人男性がバタバタと集まってきた。
亜沙美に補助してもらい、ベッドの上に起き上がった美奈穂は、自分の周りに集まった人たちのどこかホッとした様子に首を傾げる。
一体ここはどこなのか。自分に何が起こったのか。どうしてみんなが集まっているのか。
投げかけたい疑問が次々と頭の中に浮かんでくる。その中でどの問いを口にしようか迷っていると、急に目の前からベッドの周りに集まった人々が消え視界が真っ暗になった。
そして同時に、右手だけに感じていたぬくもりまで消えてしまい、美奈穂は混乱した。
だけど、その混乱は割とすぐに収まった。
理由は、同じ熱にすっぽり上半身を包み込まれたから。
不思議と安心させられるぬくもりに、彼女は小さく息を吐く。
ぬくもりの原因が、美奈穂が目覚めたことに感極まった光志が、我慢できず自分を抱きしめたからと知ったのは、複数の男性達によって強引に彼が引き剥がされた後。
ニヤニヤとこちらを見つめ「すっかりラブラブなんだから!」と、茶化してくる美智子、亜沙美の声を聞いた十数秒後だった。
どうやら美奈穂が目覚めた場所は、本館内にある医務室らしい。
強引に彼女から引き離された光志は、無精ひげを生やした男性医師の指示で隣にある個室へ強制的に連行されていった。
医務室に残ったのは、美奈穂、美智子、亜沙美。そして男性医師と、彼と同じ白衣を着た女性医師の五人だけ。
「はーなーせー!」
「おいおい、兄ちゃんそんなに暴れんなって! ……っ、だあっ!」
「藤沢さん落ち着いてください! 貴方もさっきしたでしょう? いくつか問診をするだけですから!」
「たった数分のことですよ。ほら、静かにしていないと、もっと時間がかかってしまいます……」
「うるさいっ! 問診するだけなら、女の医者だって居んだろうが。どうしてひげ野郎まで残ってるんだよ。男全員閉め出すんなら、あの野郎もこっちに連れてこい!」
部屋と部屋を隔てる扉の向こうから、ドタバタと物同士がぶつかる音や、言い合う声がひっきりなしに聞こえてくるのがわかる。
自分を捕まえる男たちの手から、光志が逃れようともがいている様子は、視覚情報ナシでも簡単に想像することが出来た。
それ程までに、彼の荒れ狂う怒号は強烈で、ベッドの上に身体を起こしたままの美奈穂は唖然とするしかない。
「うっせえな……少しくらい黙ってろクソガキ! こっちは、身重のカミさんから目、離すわけにいかねえんだよ。ひと様のモンに欲情する程落ちぶれちゃいねえから、十分そこらの時間黙って待ってろや!」
「……っ!」
すると今度は、ストッパー代わりに背中を預け、扉を押さえつけていた男性医師が光志に負けないくらいの怒号を隣の部屋へ向かって吐き出す。
美奈穂が目覚めた時に見せてくれた優しい笑顔は消え、怒りを露わにした顔、そして彼が身にまとう人を寄せ付けないオーラがそうさせるのか、今度は美奈穂だけじゃなく、美智子達まで若干引いている。
「アナタ、この子の前では汚い言葉遣いは止めてって言ってるでしょう?」
「お、おう……悪い」
そんな怒号が飛び交う状況を物ともせず、男たちの争いを一言で制したのは、スリムなボディーには少し不釣り合いに膨らんだお腹を撫で、キャスター付きの椅子に腰かけベッドへ近づいてくる女性医師だった。
その後、騒々しさの消えた医務室内で女性医師中原千草さんによる問診が始まった。
無精ひげを生やした男性医師は、どうやら彼女の旦那さんで、名前は兼治さん。
二人も、裏方スタッフの一員としてこの施設へ呼ばれたらしい。
彼女たちも、他の裏方スタッフと同じく番同士だということを、聴診器で心音を聞くついでとばかりに、千草さん自ら教えてくれた。
「お二人は、朝の顔合わせの時……調理場にはいませんでしたよね?」
「ええ、私達は車で来たから。お昼過ぎだったのよ」
「こいつの腹が目立ってることに、気づく奴は気づくからな。俺達は、ずっと医務室にこもってたんだよ。余計な詮索されたくなかったし」
時々兼治も参戦しながら、女同士の会話がしばらく続く。
その間、扉の向こうからは「まだか? 遅くないか?」と、不安と苛立ちが募る光志の声が何度も聞こえてきた。
そのたびに兼治が大人しく待っていろと黙らせ「お前絶対、分娩室の外で待ってるの合わないタイプだな」なんて、揶揄する声が飛ぶ。
すると次の瞬間、兼治の声に苛立った光志によって、ドンっと扉へ強い衝撃が走った。
「ちょっと! 無暗に殴らないでくれない? もし施設設備が破損したら、修繕費請求するよ」
「いちいち騒ぐなっつってんだろ! 腹の子がビビるじゃねえか!」
突然の音に驚くあまり、美奈穂はつい肩をビクつかせながら扉の方を見る。
そんな彼女の耳に届いた二つの叱責。
一つは扉の向こうから聞こえた志郎のもの。もう一つは、扉のそばにいる兼治のもの。
男たちのやり取りに、少しばかり意識を向けた千草は、美奈穂と違って動揺などせず「さっさと終わらせなくちゃね」と、どこか楽しげに笑い声をあげた。
聴診や体調面についての質疑応答が終わると、続けざまに倒れた時の状況について質問された。
どうして光志のもとへ行ったのか、なんて質問から始まり、彼の姿を見た瞬間どんなことを思ったかなど、事細かな問いが続く。
最初の方は緊張した様子を見せているものの、美奈穂は冷静に答えていた。
だけど、質問内容が自分の内面について触れるものが多くなるにつれ、恥ずかしさが前面に出てしまい、口ごもることが多くなる。
そんな彼女を、美智子も亜沙美も、もちろん中原夫妻も誰一人責めなかった。
「焦らないで。あっちに居る人達に、藤沢さんのことは任せて。美奈穂ちゃんは、美奈穂ちゃんのペースで話してくれればいいから」
そう言ってほほ笑む千草の姿は、まるで離れて暮らす母親を思い出させ、ほんの少し潤んだ涙腺を美奈穂はこっそり拭いながら微笑んだ。
「うーん、こんなものかなあ……」
問診が始まってから十五分程経った頃。
手にしたカルテに何やら書き込みをしながら、千草はクルクルと手にしたボールペンを回し唸る。
そんな彼女の様子を見た兼治は「もう檻開けていいかー?」なんて、まるで動物園の飼育員のようなセリフを笑いながら口にする。
ほぼ同性同士な室内とは言え、根掘り葉掘り聞かれた質問内容は後半になるにつれ羞恥心を煽るものが多かった気がしてならない。
あまりの恥ずかしさに火照った身体を冷まそうと、美奈穂は小さく息を吐きながら、頼りない手つきでパタパタと自分を仰ぐ。
「あ、そうだ。大事なこと忘れてたわ」
一際熱い頬の熱が引いて欲しいと、懸命に手を動かし風を送っていた時、急に書き物をしていた千草の手が止まる。
その言葉に、キョトンと首を傾げると、何故か千草はこれまでで一番輝くようなにんまりとした笑みを浮かべ、ススッとベッドに座る美奈穂の方へ近づいてきた。
「美奈穂ちゃん。ちょっと耳貸して?」
「え、っと……こう、ですか?」
突然のお願いに、一瞬反応が遅れる。
だけど今は、目の前にいる彼女が自分の担当医なのだと言い聞かせ、美奈穂は戸惑いが消えないまま、顔を横向きにし、千草の方へ自分の耳を近づける。
すると、満足げに小さく笑う彼女の声が聞こえた。
そして続けざまに、耳元に口を寄せた主治医の口から、小さな爆弾が投下される。
「気を失う前……思わなかった? 藤沢さんが欲しいって。心も、身体も、ぜーんぶ、自分だけのものにしたいって」
語尾にハートマークが飛び交う女性同士の内緒話でもするように、女性医師はどこか楽しげに問いかけてきた。
その言葉を聞いた瞬間、ほんの少し熱が引いてきたはずの身体は一瞬で熱さを取り戻していく。
ギギギッと、壊れたロボットのように首をぎこちなく動かし、正面を向く。
すると次の瞬間、全身を、一際顔を火照らせる美奈穂の目に映ったのは、茶目っ気たっぷりにピースサインをする担当医の満面の笑みだった。
「何か変なことされなかったか!?」
すべての診察が終わった後、ストッパー役の兼治がその場から離れた瞬間、扉は乱暴に開け放たれた。そして、その向こうから黒い何かが医務室へ飛び込んでくる。
それが、一目散に美奈穂の元へ駆け寄ってきた光志とわかったのは、両肩に置かれた無骨な手の重さと、間近から聞こえる声、そして自分を真っ直ぐ見つめる茶色い眼差しに気づいてから。
「えっと、あ……その……っ」
心配そうにこちらを覗き込む彼を安心させたい。
そう思って頷こうにも、さっき悪戯に投げかけられた質問が尾を引くせいで、美奈穂の頭の中は未だパニック状態だった。
おかげで顔から熱と赤みは引かないし、言葉もしどろもどろ。
「おい、こいつに何したっ!」
「何もしてないっての。お前にしたこと、そのまんまやっただけだ。あ、やったのはうちのカミさんな。俺じゃねえよ」
狼狽えてばかりな美奈穂の様子を目の当たりにした光志が、鋭い睨みを聞かせスタッフ達の方を振り返る。
そして、その視線はすぐ兼治へ固定された。
とは言っても、睨まれた兼治は特に慌てる様子を見せず、肩をすくめながら両手を顔の前にあげる。まるで、身の潔白を証明するかのように。
「俺にしたのと同じ……そうか。そうか」
自分の望んでいた反応を得られなかったからなのか、光志はまた美奈穂の方を向き、顔を真っ赤にしたまま落ち着かない様子の彼女を見つめる。
そして、しばらく自問自答したと思えば、口元にニヤリと笑みを浮かべ、彼は一人満足げに笑った。
もちろん、オロオロしっぱなしな美奈穂は、その様子に気づきはしない。
『気を失う前……思わなかった? 藤沢さんが欲しいって。心も、身体も、ぜーんぶ、自分だけのものにしたいって』
彼女は知らないし、気づきもしなかった。
自分が気を失っている間、光志が兼治からまったく同じ問いを投げかけられていたことを。
その事実を思い出し、美奈穂も自分を欲しいと思ってくれたことを、一人ニヤつきながら喜ぶヤバい男が誕生したことを。
「うっわ、気色悪いくらいにニヤついてんじゃん。あいつ……ヤバくね? 相楽、美奈穂ちゃんが危ないから、あいつ気絶でもさせるか?」
「大丈夫だよ。一度認定した相手に危害を加える奴なんて、誰一人として居ないんだから。まあ……ここまで執着激しいのは久々に見たけど」
そして、兼治と志郎が隣り合い、若干顔を引きつらせながらコソコソ話をしていることを、自分達だけの世界に浸る美奈穂と光志は知りもしなかった。
光志の興奮が落ち着き、美奈穂の精神も落ち着いた頃、二人は隣り合うようにベッドに座らされ、その前に役人男性を代表し志郎が立った。
一体今度は何が始まるのかと、美奈穂は緊張するあまりゴクリと喉を鳴らす。
すると、スーツ姿の別の男性から一枚の紙を受け取った志郎は、コホンとワザとらしく咳ばらいをした直後、受け取ったばかりのそれを二人の前に掲げ宣言した。
「藤沢光志さん、谷崎美奈穂さん。我々政府は、本日この時をもちまして、あなた方二人を運命の番と認定します」
高らかな宣言と共に、二人の名前が書きこまれた“運命の番認定証”が彼女たちの前に差し出された。
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