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最終章 〇〇〇は元天使

52.幻の王太子

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 ピスティナ国の最南端に位置する海に面した小さな村。
 そこに新たな住人が仲間入りしてから、もう四年の月日が流れた。

「おはようございます、ワンダさん」

「ああ、おはようセラ。今日は朝から暑いねえ」

 各所に点在する村人達の家々。
 その一つから出てきたのは、洗い終えたばかりの洗濯物が入った籠を抱える若い女性だ。
 家の裏手にある干し場へ移動し、手にしていた籠を一旦その場に置いて一息つけば、隣の家に住む女性ワンダが声をかけてくる。
 時刻はもうすぐお昼時。ワンダも午前中に洗濯を終えようとしているのか、セラと呼ばれた女性が持つ籠より大きなそれに山盛り状態の衣服が重なり合っている。

「聞いたよ。また男を振ったんだって?」

「あは、はは……」

 隣り合った家に住み、親しくしている二人は、各々の洗濯物を干すため体を動かしながら他愛ない話に花を咲かせる。
 ワンダからふられた話題は、数日前、同じ村に住む男性から結婚を前提とした告白を受けたセラが、それを断ったという噂話だ。
 噂といっても、当事者であるセラからしてみれば、事実でしかないため、真っ向から否定も出来ず、引きつった笑いを返すのみ。

「この村にようやく馴染んできたんだから、そろそろ身を固めてもいいと思うんだけど……まだ気にしているのかい? 記憶のこと」

「…………」

 心配そうにこちらを見つめる女性の言葉に、セラは言葉を返すことなく、洗濯籠に残っているシーツを干そうと、腰をかがめる。
 二人がこんなやりとりをする理由。それは、セラがこの村の生まれではなく、四年前に近くの森で倒れているところを村人達に発見されたからだ。
 それ以来、彼女はワンダと夫、そして三人の子供たちが住む家の隣にある空き家へ身を置いている。
 見ず知らずの自分に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる村人達を前に、最初は戸惑っていたセラだが、ゆっくり環境に慣れていき、今ではすっかり住人達に溶け込んでいる。
 しかし、彼女は心に大きな問題を抱えている。己の素性、そしてこれまで生きてきた人生の記憶が無いのだ。
 覚えている事はただ一つ。自分の名前がセラということだけ。


 過去について何も覚えていない。それは、自分に優しく手を伸ばしてくれる村の人達との間に、目には見えない距離を作った。
 日常生活を送るだけなら、セラは村に住む誰とでも親しくし、彼らの言うことを素直に聞き入れ吸収しようとする。
 効率の良い家事の裏技や、海辺の村ならではの知恵など、たくさんのことを四年の間で学んできた。
 しかし、もう一歩自分のテリトリーへ踏み込んでくる者たちを、セラは無意識に拒絶する節がある。
 その一端が、ワンダが言っていた噂だ。

 自分の家のことだけではなく、村に置いてもらっている恩を返すため、セラは暇を見つけると村人の仕事を手伝うようにしてきた。
 それは畑仕事だったり、漁師たちが捕ってきた魚の処理だったり、様々だ。
 その姿は多くの村人の目に留まり、そして独身の若い男達の心を動かした。
 四年の間に、セラへ交際を申し込んだり、求婚した独身男達は多い。
 しかし、彼女は毎回首を横に振るばかりで、誰の手も取ろうとはしなかった。

(結婚、か……)

 洗濯したてのシーツを干しながら、ついワンダが口にしたことについて考える。
 記憶のないセラにとっては、自分の年齢すら曖昧だった。
 背格好から成人済みと見なされているものの、自分がいくつかなど正直わからない。
 それでも、この村に来て四年の月日が経った。つまり、彼女は四つ歳を重ねたことになる。
 それにより、結婚適齢期と呼ばれる歳など、とうに超えていることは自分でも気づいていた。
 しかし、自分へ愛を囁く男達の声に、心を動かされることは一度たりともない。

『セラ……セラ……セラーー』

 セラは毎晩必ずある夢を見る。
 暗闇の中をさ迷う自分の名を、どこからともなく呼ぶ男の声が聞こえる不思議な夢だ。
 村に住む男性達とは、ここで世話になって以来何度も話しているが、夢の中で聞こえる声を持つ者は誰もいない。
 しかしその声は、今もなお執拗に自分の名を呼び続ける。
 時に愛おしそうに、時に苦しげに。こちらがどんな問いを投げかけても返答はなく、セラと名前を呼び続ける声。

 よほどのことが無い限り、毎夜必ずと言ってよい程見る夢。
 翌朝目覚めると、十中八九眠っている間に流れ落ちたとしか考えられない涙で、いつも枕が濡れている。
 そんな一向に解決しない謎の現象は、セラの心の奥に鈍い痛みを与え続けていた。





「……ふう」

 今日の洗濯物を干し終え、足元に転がる空になった籠を見下ろしながら、セラは満足げに息を吐く。
 汚れていた衣服が綺麗になった姿を目にし、水分を吸って重くなったそれらを干し終えると、何とも言えない爽快感を味わえる。
 セラはこの達成感にも似た感覚を味わえる洗濯が嫌いではない。

 干し終えたばかりのそれらが乾くのは、時間にして数時間後。
 休憩を兼ねた昼食を済ませた後、午後からは村中を歩き回り、その時々で村人達の作業を手伝えば良いだろう。
 なんて一日の計画と言うにはほど遠いプランを頭の中で練る。
 そのままゆっくりと意識を現実へ戻すと、セラの視界にあるものが飛び込んでくる。
 それは、村で一番の噂好きと言われる中年女性が、自分とワンダの方へ走り寄る姿だった。

「どうしたって言うんだい? そんなに慌てちゃって」

 何か大変なことでも起きたのだろうか。
 そう考えたのは、どうやら自分だけでは無いらしい。
 セラ以上に手際よく洗濯物を干していたにも関わらず、一際量が多かったせいで、彼女とほぼ同時に最後の服を干し終えたワンダが、不思議そうに首を傾げ、肩で息をする女性に声をかける。

「はあ、はあ……た、大変なんだよ!」

「だから、何が大変だって?」

「王太子様を乗せた馬車が、すぐそこまで来てるんだよ! 近々、視察に来てくださるみたいだって話は聞いていたけど、まさか今日とは思わなくて。今、急いで皆に知らせてるの」

 そう口にした女性は「他の人達にも知らせなくちゃ!」と言い、慌ただしくセラ達の前から走り去っていく。
 まるで嵐が去った後のように、シンと静まり返った家の裏手で、セラとワンダはしばし唖然とし、無言のまま互いを見つめ合った。

「ワンダさん、あの……王太子様って?」

 台風のごとき女性が口にした内容を、すぐに理解出来ず、セラはつい、自分よりも状況を把握しているだろうワンダへ問いかける。
 すると、ワンダは小さく息を吐きながら、空になった己の洗濯籠を両腕に抱える。

「ああ、そうか。セラは知らないんだったね。まあ……こんな田舎の村で暮らすのには必要ないって、教えなかった私も悪いか」

 彼女は苦笑いを浮かべ申し訳なさそうに眉を下げると、そのまま言葉を続ける。

「王太子様っていうのは、それぞれの国を治めている国王のご子息ってこと。今のセラにはわからないかもしれないけど、あんたが生まれた国にも、必ず国王様のご子息、ご息女はいるはずだよ」

 記憶を失ったせいか、どこか常識が欠落しているセラ。そんな彼女にとって、ワンダの口から飛び出す話は実に興味深く、初めて耳にする言葉も多い。
 彼女に倣い、自分の洗濯籠を抱えたセラは、フムフムと頷きながらワンダの話に耳を傾けた。
 その様子に、ワンダは時折可愛い子供でも見つめるような目つきをしながら、なおも話を続ける。

「実は、ここの王太子様のお姿を目にした国民は、四年前までほとんど居なかったんだ。大病を患っていたとか、そもそも国王様にご子息など居ないんじゃないか、なんて言う人達までいてね」

 ケラリと笑いながら話すワンダだが、彼女が語る内容は、笑い話にして良いモノかと、無知ゆえに首を傾げたくなるものばかり。

「根も葉もない噂話が、私ら国民の間で囁かれている。そんな状況を不味いと思ったのか……真相はわからないけれど、四年前から王太子様が国のあちこちへ視察に行くようになったらしいよ。まさか、こんな辺鄙な田舎まで来てくれるとは思わなかったけど……お優しい方なんだろうね」

 自分が知っている情報はこれですべて。そう言いたげに、彼女は話を終えると小さく笑い「どこまでが本当なのかね」とケラケラ笑い出す。
 しかし、話を聞いたセラはワンダの言葉に素直に頷けず、口元にぎこちない笑みを浮かべるだけ。
 謎の夢を見た翌朝、涙で濡れた枕の冷たさに驚いて飛び起きる。その時に感じる、やけに早い心音に似た鼓動を、彼女は現在胸元に感じている。
 同時に、まるで心がザラつくような感覚を抱いていた。
 初めてのことにセラは戸惑いを隠しきれず、その様子に気づいたワンダに顔を覗き込まれるまで、何の反応も返せず、ただその場にたたずむだけだった。





 噂によると、王太子様はかなり容姿端麗な人らしい。
 先ほど自分たちの前から去っていった女性が、以前話していたという情報を口にしたワンダは、物は試しにと少々強引にセラの腕を引き、村人達が大勢集まる村の入り口へ向かう。

「ワ、ワンダさん! あたしはそういうのに興味はありませんよ」

「何言ってんだい。金を取られるわけじゃないんだから、冷やかしとでも思って見た者勝ちさ! 本当にイイ男なら、目の保養になる。村の男ばかりじゃなく、たまには都会の男も見ないと女が廃るよ!」

 急に元気を無くしたセラを気遣っているのか、ワンダはこちらの主張など聞かず、グイグイと集まった人々の波をかき分けて進んでいく。
 日ごろから、彼女のやさしさ、そして時に大胆な行動力に幾度となく助けられてきた手前、掴まれた腕を振り払えず、気づけば物見列の最前列へたどり着いてしまった。
 辺りを見回せば、やはり王太子様目当てか村の女性たちが殺到している気がしてならない。

 理由は様々であれ、王族が村にやってくるというのは、国民として喜ばしい事らしい。
 今のセラにはよくわからない感情だ。
 いつか、自分も他の村人達のように喜べる日が来るのだろうか。そんなことを考えていれば、周囲から一際大きな歓声があがる。

「……っ!」

 突然のことに驚き、キョロキョロと辺りを見回すと、不意にワンダと目が合い「ほら、あっちだよ。あっち」と森の方を彼女が指さす。
 指し示す先へ顔を向ければ、視界の端に、村の入り口を目指しゆっくり進む馬車と、皇太子様の乗った馬車を護衛する騎士が乗る馬がその前後をかためていた。
 国の王子がやってくると言うからには、どんな豪華絢爛な登場をするのかと思いきや、馬車自体は大きくなく、装飾なども割と地味な印象を受ける。
 しかし、前後を警護する騎士たちの存在が、馬車に乗っている人物が王族であることを示していた。

 先頭の騎士が村人達の前で馬を停めると、それに倣うように馬の手綱を握っていた他の騎士達も、間隔をあけながら次々と馬に停止命令を出す。
 次々と披露される見事な手綱さばきに、集まった村人達は次々に歓声をあげた。
 ここは海辺の小さな村だ。少し離れたところにある街へ魚を売りに行くための馬などは数頭いるものの、乗りこなせる者自体少ない。
 そんな毎日を過ごす村人達にとって今日は殊更特別な日なのだろう。
 視察団一行の言動一つ一つが、彼らにとって興味深いのかもしれない。

「村長殿はいらっしゃるか?」

「はいはい……儂が、この村で村長を務めております。本日は、このような村にまで、王太子様にご足労いただき、村の者一同嬉しく思います」

 護衛の騎士が全員馬から降りたことを確認すると、先頭にいた四十代半ば程に見える男性騎士が声をあげる。
 それに呼応したのは、入り口の一番近くで待機していたおじいちゃん村長だ。
 孫娘に付き添われ、杖を突きながら騎士のもとへ歩み寄った彼は、深々と頭を下げ一行を歓迎する旨を伝える。
 彼は、記憶を無くし、素性が一切わからないサラを受け入れてくれたとても優しい人だ。
 大恩人とも言える彼の仕事を手伝うことも、セラにとって恩返しであり、また穏やかな時間を過ごす楽しいひと時である。

 騎士と村長が話し合いをする最中、不意に馬車の扉が開いた。
 その開閉音を耳にし、村長の方に向いていた村人の視線が、一気に馬車へ集中していく。
 セラもそれにもれず、皆より数秒遅れで音がした方へ振り向いた。

「それじゃあ、皆いつものように、村の者達に指示を仰いでください。馬達をつないだ後、世話を欠かさないこと。今回はかなり長旅でしたから、十分労わってあげてください」

 馬車から降りてきたのは、眼鏡をかけた少し髪の長い男性だった。
 彼は躊躇う様子無く、待機中の騎士達へ指示を飛ばしている。
 その姿に、セラの周囲にいる女性たちからは「かっこいい。あの人が王太子様かしら」などと次々に声があがる。

(あ、れ?)

 本人たちは声を抑えているつもりなのかもしれないが、普通の声量を多少落としたものでしかないそれは、正直耳障りでしかない。
 しかし、後方から次々と聞こえる彼女たちの声を、セラはどこか別世界のものという感覚で聞いていた。
 彼女の視線もまた、馬車から降りてきた眼鏡の男性に向いている。
 しかし、最早野次馬状態と化した村人達が向ける視線とは違い、セラは別の意味を含めた視線を彼へ向けていた。

 ――どこか、見覚えのある顔だ、と。

 村で生活し始めてから初めて味わう感覚に、セラの心音は再び加速していく。
 今日はやたらと心臓がうるさい日だと、無意識に胸元の服を握りながら、一旦離れた馬車へまた近づく眼鏡の男を目で追いかける。

「――様、着きましたよ」

「ああ――行く」

 馬車の中に向かって話しかける様子から察するに、どうやら、まだ中に人がいるらしい。
 眼鏡の彼が敬語で話しているということは、相手は彼よりも目上の人間ということだ。つまり、あの中にいる人物こそが本当の王太子様。
 無意識に、ゴクリと鳴る喉に、わずかに意識を奪われながら、セラは一時たりとも馬車から目を離さず様子を見守る。

 すると、ほんの少ししか開いていなかった扉が全開になった。次の瞬間、その向こうに降り立つ人影が見える。
 しかし、その大部分を扉に阻まれてしまい、見えるのは王太子様と思わしき人物の足元だけ。
 眼鏡の男性が数歩後退しその場から引くと、扉に隠れた彼はゆっくりと歩みだす。

 中に乗っていた人間たちをすべて下した馬車。その扉は、待機していた騎士の一人によって閉められる。
 そこでようやく、隠れていた男の横顔が村人達の視界に映り込んだ。

「……あ」

 皆口々に言葉を呟き反応を見せているようだが、セラの耳にその声は届かなかった。
 彼女の目線は馬車から降り立ったばかりの男の横顔へ釘付けになり、気づけば声を震わせ、言葉にすらならない音をか細く絞り出す。

「セラ? どうかしたのかい?」

 そんな彼女の異変にいち早く気付いたのは、すぐそばにたたずんでいたワンダだ。
 しかし、いつも世話になっている頼れる母と言うべき人物の声も、今のセラには聞こえていない。

 セラの目にまず映ったのは、時折風に揺れるサラリと指通りの良さそうな茶色い髪。
 記憶の底にあった顔を覆い隠す長い髪はいつの間にか切りそろえられていた。
 その人が二言、三言、眼鏡の男性、いや補佐官と話をすれば、ゆっくりと自分の来訪を待ち望んでいただろう村人達の方を向く。
 あの頃は隠してばかりだった目元をあらわにし、火傷後の残る左目には眼帯を装着している。

 四年前のあの夏、確かに自分の隣を歩き、微笑んでいた彼が、目の前にいる。
 その事実を知り、そして四年間一向に取り戻せなかった記憶が止めどなく頭の中から泉のように湧き出してくる感覚に、気づけば涙が止まらなくなっていた。
 自分はセラ、いやセラフィーナ・ケトラであることを、彼女は思い出したのだ。

「セラ、あんた何を泣いて……セラ、セラッ!」

 驚きを隠しきれないと言いたげなワンダの声が遠くで聞こえる。
 少々乱暴に肩を揺さぶられることにすら彼女は気づかず、ただ一心に焦がれ続けた彼を己の瞳に映す。
 すると、自分を呼ぶ一際大きなワンダの声でも聞こえたのか、不意に、馬車のそばで補佐官と話をしていた彼が顔をあげる。

「……っ!」

 馬車から降り立ったばかりの彼と、セラフィーナ。そんな二人の瞳が一瞬のうちに交わる。
 すると男は瞬く間に目を見開き、こちらを凝視する。そんな姿が見えた。
 あれ程人前で素顔をさらすことに臆病だった人が、眼帯こそつけているものの、堂々と人々の前に立っている。
 その事実がこの上なく嬉しくて、最初は頬を伝うだけだった一筋の雫は、いくつもの線を彼女の頬に描いていく。

「やっと……やっと、見つけたっ!」

 じっと彼を見つめていたはずなのに、いつの間にかその姿は視界から消え去り、気づけばセラフィーナは、最愛の人の腕の中にいた。
 耳元で聞こえる涙交じりの低音、そして全身を包むどこか懐かしい温もり。
 そのすべてを与えてくれる人が、自分のすぐそばにいる。
 彼が唇を震わせ奏でる音は、毎日夢の中で聞く声そのものだった。
 きっと記憶を失いながらも、心の奥底で彼を求め続けていたと気づいたセラフィーナは、自分を強く掻き抱く男の背にそっと腕を回し、ずっと恋焦がれたその胸板に顔を埋めまた新たな涙を流した。
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