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8:サングラスの男
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突然聞こえた第三者の声と、妖怪の断末魔。
目を瞑ったままの七幸は、目の前で繰り広げられる出来事を認識出来ず、ますます混乱するばかりだった。
一度閉じた瞳を開けば、状況はすぐに把握出来る。
だけど、すっかり恐怖の感情を植え付けられた七幸は、腰を抜かしたまま、目を瞑ってプルプルと震えるしかない。
しかも、断末魔が聞こえた直後から急に辺りが静かになった。
物音一つ聞こえない状況が、彼女の不安をより一層煽っていく。
「おい、もうあいつはいないぞ」
時々頬を撫でる風にさえ怯え、ビクビクしていた時、ふと頭上から声が聞こえてくる。
(……えっ?)
静寂を終わらせる声に驚いた七幸は、恐怖心が消えないまま恐る恐る瞼を押し上げた。
反射的に数回瞬きをして視界を慣らした後、まず瞳に留まったのは、誰かの脚だった。
革靴を履き、仕立ての良さそうなスーツ生地をまとった男性の脚が見える。
――先程聞こえた声の主はこの人だろうか。
そんな憶測が頭の中を過っていくのを感じながら、七幸はぎこちない動きで俯いていた顔を上げる。
逆光で出来た影のせいで見えづらいものの、誰かが自分を見下ろしているのが分かった。
親切に声をかけてもらっているのに、何も反応しないのはマズい。
慌てた七幸は、その場で立ち上がろうと、身体に力を入れる。
だけど、立ち上がりたいと思う気持ちとは裏腹に、恐怖で力が入らなくなった脚では、自力で立つことなんて不可能だった。
「重ね重ね、本当に申し訳ありません」
「そう思うなら、次どっちに曲がるか言え」
男性と出会ってから数分。足が笑ってしまい、自力で歩けなくなった七幸は、出逢ったばかりの男性に背負われ、すっかりしょぼくれていた。
曲がり角の前で立ち止まった男性の言葉に、七幸は周囲を見回してから「右にお願いします」と声をかける。
すると、彼女の言葉通り、男性は右側の道へ進路を変え、再び歩き始めた。
妖怪から七幸を助けてくれた男性は、サラリとした黒髪と、目元を隠すサングラスが特徴的な人だ。
百五十七センチ程しかない七幸が、見上げなければ視線が合わない程背も高い。
スーツを着ているため、七幸は最初、彼のことを仕事中の会社員かと思った。
だが、目元を隠すサングラスや、長い前髪、襟足が少し伸びた髪型から、頭の中に浮かんだ考えをすぐに消していく。
一年とは言え会社勤めをした七幸は、男性の身なりが会社員向きじゃないと結論付けたのだ。
いつまで経っても立ち上がる気配の無い七幸の姿に、男性は訝しげな表情を浮かべていた。
そこで、素直に「力が入らなくて……」と白状すれば、彼は深いため息を吐き、呆れを隠そうとしなかった。
だけど今は、七幸を背負い、自宅まで送り届けようとしてくれている。
背中に乗れと目の前でしゃがみ込まれた時、「そんなことはさせられない」と、七幸は酷く困惑していた。
彼女の戸惑いを知ってか知らずか、「じゃあ、このままずっと道端で座り込んでるのか?」と言われてしまえば、彼の言葉に甘える以外の選択など出来る訳がなかった。
「ああいう輩は、負の感情が大きすぎると付け込まれやすくなる。今後、気を付けるんだな」
七幸を背負ったまま歩く男性が、ふと何かを思い出したように口を開く。
その口ぶりから、自分へ向けられた言葉と悟った七幸は、突然のことに大きく目を見開いた。
(今日は、驚かされることばっかりだ)
不意を突くような、突然すぎるアドバイスに、なんと言葉を返して良いかわからず、上手く声が出ない。
だけど今の発言から、七幸は男性に対して、ずっと胸に抱いていた疑問を確信に変えることが出来た。
「貴方も、見えてるんですね。さっきの、お化けみたいなやつが」
背負われてから、道案内以外でほとんど口を開かなかった七幸が、今度は声を上げる。
自分を背負う男の耳元で、疑問形になりきれていない問いを投げかけたものの、今の体勢では彼の表情をうかがい知るのは難しそうだ。
妖怪に出くわした恐怖で、目を閉じていた七幸の耳に、あの時二種類の声が聞こえた。
一つは「消えろ、雑魚が」と言う冷徹な男性の声。もう一つは自分を襲おうとしていた妖怪の断末魔。
目を開けた時に居たのは、今も自分を背負ってくれる男性だけだった。
そんな彼の声と、あの時聞こえた冷徹な声は、どこか似ている気がする。
その点を加味し、彼女は自分の中である仮説を立てた。
――この人が、あの妖怪を追い払ってくれたんじゃないか、と。
――彼もきっと、自分と同じで“視える”人間なんじゃないか、と。
もしこれらの仮説が事実なら、七幸は生まれて初めて自分と同じ“瞳と境遇”を持つ人に出会えたことになる。
その想像は、驚きのような、嬉しさのような、なんとも言葉にし難い感情を彼女に与えた。
ただの見当違いかもしれないと思う気持ちを、心の片隅で意識しつつ、七幸は名前すら知らない男性からの返答を待つ。
だけど彼は、一向に口を開かず、黙々と歩き続けるだけ。
そして、七幸が男性に話しかけてからしばらく経った頃。
何も声を出さず歩き続けていた男性が、不意に息を吸う音が聞こえた。
「……ああ」
続けざまに、七幸の鼓膜を震わせるのは、とても小さな肯定の声。
目を瞑ったままの七幸は、目の前で繰り広げられる出来事を認識出来ず、ますます混乱するばかりだった。
一度閉じた瞳を開けば、状況はすぐに把握出来る。
だけど、すっかり恐怖の感情を植え付けられた七幸は、腰を抜かしたまま、目を瞑ってプルプルと震えるしかない。
しかも、断末魔が聞こえた直後から急に辺りが静かになった。
物音一つ聞こえない状況が、彼女の不安をより一層煽っていく。
「おい、もうあいつはいないぞ」
時々頬を撫でる風にさえ怯え、ビクビクしていた時、ふと頭上から声が聞こえてくる。
(……えっ?)
静寂を終わらせる声に驚いた七幸は、恐怖心が消えないまま恐る恐る瞼を押し上げた。
反射的に数回瞬きをして視界を慣らした後、まず瞳に留まったのは、誰かの脚だった。
革靴を履き、仕立ての良さそうなスーツ生地をまとった男性の脚が見える。
――先程聞こえた声の主はこの人だろうか。
そんな憶測が頭の中を過っていくのを感じながら、七幸はぎこちない動きで俯いていた顔を上げる。
逆光で出来た影のせいで見えづらいものの、誰かが自分を見下ろしているのが分かった。
親切に声をかけてもらっているのに、何も反応しないのはマズい。
慌てた七幸は、その場で立ち上がろうと、身体に力を入れる。
だけど、立ち上がりたいと思う気持ちとは裏腹に、恐怖で力が入らなくなった脚では、自力で立つことなんて不可能だった。
「重ね重ね、本当に申し訳ありません」
「そう思うなら、次どっちに曲がるか言え」
男性と出会ってから数分。足が笑ってしまい、自力で歩けなくなった七幸は、出逢ったばかりの男性に背負われ、すっかりしょぼくれていた。
曲がり角の前で立ち止まった男性の言葉に、七幸は周囲を見回してから「右にお願いします」と声をかける。
すると、彼女の言葉通り、男性は右側の道へ進路を変え、再び歩き始めた。
妖怪から七幸を助けてくれた男性は、サラリとした黒髪と、目元を隠すサングラスが特徴的な人だ。
百五十七センチ程しかない七幸が、見上げなければ視線が合わない程背も高い。
スーツを着ているため、七幸は最初、彼のことを仕事中の会社員かと思った。
だが、目元を隠すサングラスや、長い前髪、襟足が少し伸びた髪型から、頭の中に浮かんだ考えをすぐに消していく。
一年とは言え会社勤めをした七幸は、男性の身なりが会社員向きじゃないと結論付けたのだ。
いつまで経っても立ち上がる気配の無い七幸の姿に、男性は訝しげな表情を浮かべていた。
そこで、素直に「力が入らなくて……」と白状すれば、彼は深いため息を吐き、呆れを隠そうとしなかった。
だけど今は、七幸を背負い、自宅まで送り届けようとしてくれている。
背中に乗れと目の前でしゃがみ込まれた時、「そんなことはさせられない」と、七幸は酷く困惑していた。
彼女の戸惑いを知ってか知らずか、「じゃあ、このままずっと道端で座り込んでるのか?」と言われてしまえば、彼の言葉に甘える以外の選択など出来る訳がなかった。
「ああいう輩は、負の感情が大きすぎると付け込まれやすくなる。今後、気を付けるんだな」
七幸を背負ったまま歩く男性が、ふと何かを思い出したように口を開く。
その口ぶりから、自分へ向けられた言葉と悟った七幸は、突然のことに大きく目を見開いた。
(今日は、驚かされることばっかりだ)
不意を突くような、突然すぎるアドバイスに、なんと言葉を返して良いかわからず、上手く声が出ない。
だけど今の発言から、七幸は男性に対して、ずっと胸に抱いていた疑問を確信に変えることが出来た。
「貴方も、見えてるんですね。さっきの、お化けみたいなやつが」
背負われてから、道案内以外でほとんど口を開かなかった七幸が、今度は声を上げる。
自分を背負う男の耳元で、疑問形になりきれていない問いを投げかけたものの、今の体勢では彼の表情をうかがい知るのは難しそうだ。
妖怪に出くわした恐怖で、目を閉じていた七幸の耳に、あの時二種類の声が聞こえた。
一つは「消えろ、雑魚が」と言う冷徹な男性の声。もう一つは自分を襲おうとしていた妖怪の断末魔。
目を開けた時に居たのは、今も自分を背負ってくれる男性だけだった。
そんな彼の声と、あの時聞こえた冷徹な声は、どこか似ている気がする。
その点を加味し、彼女は自分の中である仮説を立てた。
――この人が、あの妖怪を追い払ってくれたんじゃないか、と。
――彼もきっと、自分と同じで“視える”人間なんじゃないか、と。
もしこれらの仮説が事実なら、七幸は生まれて初めて自分と同じ“瞳と境遇”を持つ人に出会えたことになる。
その想像は、驚きのような、嬉しさのような、なんとも言葉にし難い感情を彼女に与えた。
ただの見当違いかもしれないと思う気持ちを、心の片隅で意識しつつ、七幸は名前すら知らない男性からの返答を待つ。
だけど彼は、一向に口を開かず、黙々と歩き続けるだけ。
そして、七幸が男性に話しかけてからしばらく経った頃。
何も声を出さず歩き続けていた男性が、不意に息を吸う音が聞こえた。
「……ああ」
続けざまに、七幸の鼓膜を震わせるのは、とても小さな肯定の声。
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