鐘の音が鳴るその先へ

雪宮凛

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第6話

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 桜が散り、新緑の季節へ移り変わる頃。
 色鮮やかな花束を抱きかかえ、この数か月ですっかり嗅ぎなれた匂いのする場所を歩く。

「よく、来てくれたね」
「……こんにちは」

 ようやく目的の場所へたどり着けば、病室の前に一人の男が待ち構えていた。
 こちらに気づくと、彼は柔和な笑み表情を浮かべ声をかけてくれる。
 耳に届くのは優しい声色。しかし、ピリリと全身を駆けぬける緊張感に慌てて立ち止まり、ペコリと頭を下げながら、ドクドクと煩い心音が聞こえないよう願った。

「さぁ、入ってくれ。真守君」
「……はい」

 男によって病室へ続く扉は開かれ、促されるまま、震える足を持ち上げる。
 そのまま中へ入ると、まず脳が認識したのは、一定の間隔でリズムを刻む機械音だった。
 鳴り止まない音に、つい緩みそうになる口元を慌てて引き締める。
 通された室内には、入ってすぐの場所には応接用のソファーとローテーブルがあり、部屋の中央には医療用のベッドが鎮座している。
 一般的な大部屋とは違うどこか格式高い雰囲気が漂う場所のように思えた。

「…………」

 軽く室内を見回した後、機械音に引き寄せられるままベッドへ近づく。
 点滴パックを吊るす器具や、心電図や血圧などの数値が表示されたモニターなど、たくさんの医療器具が周りを取り囲むように配置されている。
 それらの中心には、様々な管に繋がれやせ細った人物が横たわっていた。

「待ちくたびれたから……迎えに来たよ」

 緊張で震える唇を開き言葉を紡ぐ。先程までとは違う緊張のせいで不自然に掠れる声を、彼女が聞いていないよう願った。





 美羽がいつも帰っていく道の先で大学病院を見つけ、最初は困惑するばかりだった。

 ――もしかしたら、彼女が入院している場所かもしれない。

 しかし、それと同時に頭の中に一つの仮説が浮かぶ。

 それからしばらくして、同じ仮説を立て息子に確認を提案してきたのは、父と母のどちらだっただろう。
 正直、この病院にたどり着いてから数日の記憶は、どこか曖昧になっていた。

 すべては空想の産物だったかもしれないと、妙に冷静で現実的な自分。
 もしかしたら、本当にこの場所に彼女がいるかもと、わずかに期待する自分。

 正反対な思考が脳内で反発し、絡みあい、思考を混乱させぐちゃぐちゃにかき回していく。
 おぼろげな記憶の中で、大学病院のスタッフや看護師と何度も話をする両親と自分の映像が、断片的に残り、現実を教えてくれた。
 その後、ようやく思考回路と脳が正常な機能を取り戻したのは、先程病室前にいた男と、彼が共にやってきた女性を目にした時。

『初めまして。私達は美羽の……遠野美羽の親です』

 霞の中へ消え去ろうとしていた光に、ようやく追いつける。追いかければ追いかける程、遠のいていく宝石に、やっと指先が触れた気がした。





 遠野美羽という人間は、この世にしっかりと存在していた。
 彼女は、生まれつき心臓に重い病気を患っており、人生のほとんどを病院で過ごしてきたらしい。
 起きている時間はよく読書をし、病室のテレビから流れる動物番組を好んで見ているそうだ。
 そんな生活を続ける中、突如美羽と両親に転機が訪れる。
 それは、海外から有名な心臓病専門の外科医がやってくるというもの。しかもその医師は、過去に美羽と同じ病気で苦しむ人々の手術を執刀した経験を持っていた。
 成功確率はまだまだ低いものの、成功すれば日常生活を穏やかに過ごせるようになる。
 その希望にすがろうと、何年もの間、彼女の主治医がコンタクトを続けていたらしい。
 美羽の病気が治るかもしれない可能性に、両親はすぐに頷き、昨年長時間にわたる手術が執り行われた。
 そして手術は無事に成功し、両親は携わったすべてのスタッフに感謝の言葉を幾度となく伝えたそうだ。
 しかし、すべてが順調に進むほど、現実は甘くなかった。
 ようやく苦しみ続けてきた娘を助けることが出来たと歓喜する親の想いとは裏腹に、美羽が目覚める気配は一向に訪れない。
 毎日たくさん話しかけたり、体をタオルで拭き、マッサージをしたりと、何度刺激を与えても、いまだ彼女は眠り続けているそうだ。
 そんな時、二人の前にあらわれたのは、夢の中で娘と会い言葉を交わしたという自分だったと、涙ながらに美羽の両親は教えてくれた。





「急に来なくなったから、ずっと心配してたんだ。……本当は、もっと早く来るつもりだったけど、なかなか先生から許可が下りなくってさ」

 心電図の音が響く病室で、時折苦笑交じりに近況報告を続ける。その視線の先にいるのは、あの公園で出会った女性の面影を残した小柄な少女。
 点滴の針が刺さる彼女の腕は、あの時よりも更に細い。ゆっくりと手を伸ばし、入院着からのぞく手首に触れると、そこからかすかだが、確かなぬくもりを感じることが出来た。

「ほんと……来るのが遅くなって、ごめんな」

 そばにあった椅子に抱えていた花束を置き、枕元へ近づく。
 そして、もっとよく顔を見ようと上半身を前方へ倒す。
 謝罪の言葉をかけ、次は何と言葉を続けようかと悩み始める。
 すると、不思議と体の動きは止まらず、気づいた時には、眠り続ける彼女の小さな頬に一瞬だけのキスを落としていた。

「……っ」

 慌てて身体を起こせば、じんわりと頬に集まる熱に、己の無意識な行動がより一層恥ずかしくなった。
 なんて大胆なことをしているのだろうと、思ってもいなかった事態に心が騒ぎ出す。
 そんな状況でも、眠る美羽をしっかりと視界におさめる辺りは、流石というか。どれだけ惚れ込んでいるのだと呆れそうになった。

 口先に一瞬感じたわずかなぬくもりを確かめるようと、徐に右手を口元へ寄せる。
 すると、視線の先で美羽の口元を覆い隠す酸素マスクが一際白く曇りだす。

(……ん?)

 ただの見間違いか偶然かもしれないと思いながら、瞬きを数回くり返し、改めて様子を観察するため枕元へ顔を近づける。
 すると次の瞬間、これまで閉じていた彼女の瞼がかすかに、だが確かに震えた。そして次第にその回数は増していき、数ミリ、数センチと、徐々に瞼が持ち上げられていく。
 開ききった瞳は、しばしぼんやりと宙を見つめる。そのまま、しばし自分の置かれた状況を確認するようにさまよった視線は、こちらを向いた瞬間、その動きをピタリと止めた。
 美羽と目が合った。その現実を脳が確かに認識すれば、カッと全身を巡る血液が沸騰し、目頭が熱くなる。

「おは、よう……美羽っ」
「……ま、も……くん」

 みるみる涙で視界は霞み、昂る気持ちに声は掠れうわずる。
 きっと今、彼女が見つめている顔は、この上なくひどい状態に違いない。
 しかし、そんな事も気にもせず、数か月ぶりに開いた瞳を嬉しげに細める美羽。
 マスクが白く染まると同時に鳴る弱々しい鈴の音は、嬉し涙を流す少年の耳にしっかりと届けられた。



 

 ――小学校生活最後の年、僕は最初で最後の恋に落ちた。


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