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第5話
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医者の男――担当医の口から飛び出した衝撃的発言を聞いてから数日。
少しずつ曖昧だった記憶が戻り、現状を理解し受け入れつつある自分がいる。
思い出した最後の日付は、十二月二十七日。
しかし、テレビから流れる朝のニュース番組が、一月二十三日という日付を伝えてくる。
約一か月の空白は、まるで心にポッカリと開いた穴に似ている。そんな気がした。
「…………」
上部を可動させ、わずかに傾斜をつけたベッドに背を預けながら、視線をテレビから外す。
コメンテーター達のお喋りをぼんやりと聞きながら見つめるのは、掛け布団に隠れ今は見えない己の足。
記憶が途切れる直前、猛スピードでこちらへ向かってくる車と接触し、初めて経験する衝撃と痛みを感じた。
どうやら、しっかりと横断歩道を渡っていたにも関わらず、身勝手な運転手のせいで交通事故とやらに巻き込まれたらしい。
母と担当医、そして仕事を終え慌てて駆けつけた父から受けた説明に、最初は戸惑うばかりだった。
命に別状は無いものの、かなりの重傷を負い、駆けつけた救急車によって運び込まれたのは、市内で一番大きな病院。
すぐに手術が執り行われ、いまだ体の至る所に処置の痕跡が残っている。
この一か月の間に治りかけている箇所もあるが、それらは軽いものばかり。
一番重傷だった両足には金属が埋め込まれており、今後歩けるようになるためのリハビリが必要だと教えられた。
(なんか……実感が無いんだよな)
ベッドの上で目を覚まし、事故後の状況を詳しく教えられても、いまだどこか釈然としない気持ち。
車が突っ込んできた時に感じた衝撃も痛みも思い出したし、思うように体を動かせず何度も苛立ちをおぼえた。
この身に起こった出来事は紛れもない現実だと、身動きをとるたび感じる痛みが教えてくれる。
しかし、どこか他人事のように、まるで幽霊にでもなって天井からベッドの上の自分を見つめているような感覚にとらわれる瞬間がある。
その原因はきっと、眠り続けていたという空白期間のせい。
手術後、「数日中には目覚めると思う」と担当医が言っていたにも関わらず、今になって起きた理由は謎のままだ。
嬉しさのあまり号泣する両親の姿を初めて見た。
まるで自分のことのように、医師や看護師達が目覚めを喜んでくれた。
――自分は今、生きている。
すべてが嬉しいことのはずなのに、心はどこか不安定に揺れ続ける。
「……美羽」
不意に零れた呟きは、テレビから聞こえる芸能人達の楽しげな笑い声にかき消された。
容態観察を数日行った結果、少しずつ医師や看護師の口から、今後のリハビリ計画について話を切り出された。
それからは、一か月間で落ち切った体力を回復するため、しっかりと病院食を食べ、毎日やってくるリハビリ専門スタッフ達と面談や現状確認を行う。
目覚めたからには、すぐにでもリハビリが始まるのだろうと思っていたが、現実は違うらしい。
眠っている間に少しずつ怪我が治っているとは言え、完治にはまだまだ遠い。
ベッドを降り、自力で立ち上がることも、何かを支えにして歩くことさえ出来ない自分に、日々苛立ちと焦りがつのる。
担当医にも、一日も早くリハビリをしたいと訴えるが、まずは回復が先だと|窘(たしな)められるだけ。
寝ても覚めても、頭の片隅に思い浮かぶ一人の女性へ恋焦がれたまま、ベッドの上から満足に動くことも出来ず時間だけが過ぎていく。
すぐにでも病院を飛び出し、美羽の探しに行きたい。しかし、今の自分は満足に歩くことすら難しい。
心と身体の相反する現実を前に、まるで降りしきる雪のように心の底へどんよりとした感情が積もっていく。
そこにあるのは真っ白で美しい冬の代名詞とは違いどこかほの暗い。
早く溶けて欲しいと願うも、想いに反し、負の感情は徐々に心の熱を奪い始めた。
「真守、何をそんなに焦っているの?」
「……え?」
そんな日々が続くなか、ある日見舞いのため病室を訪れた母が、開口一番投げかけた言葉に、心臓が一際大きく脈打つ。
ぎこちなく顔の向きを変え、ぼんやりと窓の外を眺めていた視線をすぐそばにいる親へ向ける。すると、眉間に皺をよせたままひどく心配そうな表情を浮かべ、こちらを見つめる彼女と目が合った。
「看護師さん達に聞いたわ。毎日……真守がリハビリしたいとお願いしてくるって。確かに、リハビリをすれば、早く歩けるようになるかもしれない。だけど……無茶をして逆に身体を痛めたり、せっかく治ってきた傷にも影響するかもしれないのよ? だから、リハビリは焦らないでゆっくりやってもいいんじゃない?」
どうやら、出来るだけ平静を装っていたにも関わらず、心のザラつきは隠しきれず、筒抜けだった様だ。
連日懇願を続ければ、確かにスタッフ達が違和感をおぼえるのも無理はない。
(はは……だっさ)
口を少しばかり歪め、開いた口からは音にすらならない自嘲的な笑いが零れる。
そのまま視線を下へ向けると、視界に飛び込んでくるのは、ギプスでガチガチに固められた両足だ。
『真守君』
思い出すのは、儚げに、そしてどこか嬉しそうに笑う美羽の姿。
彼女の呼び声が脳裏に何度も木霊する。
(会いたい、なぁ)
「……母さん」
「んー? どうしたの……って、真守、あんた泣いてるの!?」
頬を伝う水滴に気づいたのは、驚愕の表情を浮かべ、こちらを見つめる母の声を聞いた時。
「……っ、どうしたらいいのか、もうわかんないよ」
今の自分一人では、どうすることも出来ない。
目の前に立ちはだかる大きな壁を一刻も早く乗り越えたいと、気持ちだけが走り出し、追いつかない体が悲鳴をあげる。
その日の夜、両親を前にし涙ながらに語ったのは、愛する人との出会いと別れ。
『ほら、真守。ここじゃないか?』
長い入院生活を終え、リハビリを続けながら、初めて自宅と病院以外の場所を訪れたのは、どこもかしこもすっかり春の匂いでいっぱいになった休日。
親に付き添われやってきた場所を目にした瞬間、一言も発することなく静かに涙を流した。
(……あぁ、やっと……っ、やっと)
前後左右様々な場所から聞こえてくるのは、親子や恋人、観光客たちの賑やかな声。
すっかりあたたかくなった風が幾度となく頬を撫で、視界の端で散り始めた桜の花びらが舞い踊る。
どこか恐々と動く視線を止めた先にあるのは、見慣れたベンチと柵。
寒空の下、愛する人と語り合った場所は、あたたかな空の下たくさんの笑顔が溢れていた。
あの日、美羽と過ごした日々を明かした息子に対する両親の反応は、戸惑いが大半を占めていた。
それはそうだろう。病院で眠り続けていたはずの我が子が、見知らぬ公園へ赴き初恋をしたと聞けば、誰だって頭がおかしいと思うはず。
それでも、己の中で暴走寸前の想いを吐き出し続けた結果、二人は困惑しながらも少しずつ協力してくれるようになった。
母は、無茶をしないよう見張りながらも、リハビリをサポートしてくれた。
父は、仕事の空いた時間を使い、公園が実在するものかどうかを調べてくれた。
するとしばらくして、隣の市に条件に合致する似たような場所があるという情報を得られた。
その場所へ行けば、何か手がかりが得られるかもしれないと、リハビリにもより熱が入る。
もしかしたら、あの出来事はすべて現実ではなく幻だったのかもしれないと何度も心が折れそうになった。
しかしその度に、不思議と美羽の笑顔を思い出す。
あの公園で起きた出来事も、人生で初めて抱いた淡い恋心も、すべて脳が勝手に作り出した幻想かもしれない。
もしそうだったとしても、自分の瞳で確かめる前から諦めてはダメだと、何度も後ろを向きかけた心を無理矢理引き戻す日々が続いた。
そして今日、ようやく辿りつくことが出来た。
――リーン、ゴーン、リーン、ゴーン。
しばしぼんやりと景色を眺めていれば、一定の時を知らせる教会の鐘の音が鳴り響く。
もうすっかり聞きなれた音に後押しされるように、止まっていた足は美羽がいつも利用していた階段の方へ向かった。
そのままゆっくりと階段を降りていく。一歩、また一歩と進むスピードは、普通より何倍も遅い。
目覚めた時から考えれば、明らかに回復しているとは言え、全快と言うにはまだまだな身体だから、仕方ないのだろう。
疲労が溜まり始めた頃、ようやく最後の一段を降り、コンクリートで舗装された地面へ両足をつける。
そして、無意識にゴクリと唾を飲み込みながら、彼女へ繋がる手がかりがこの先にあるはずだと、焦る気持ちを抑え、下を向いたままだった顔をあげる。
「……え?」
真っ先に目に飛び込んできたのは白く大きな建物。
――そこは、つい先日まで入院していた所よりも大きな大学病院。
ドクンドクンと、やけに大きな音を奏でる心臓が、数秒握りつぶされるような感覚をおぼえた。
少しずつ曖昧だった記憶が戻り、現状を理解し受け入れつつある自分がいる。
思い出した最後の日付は、十二月二十七日。
しかし、テレビから流れる朝のニュース番組が、一月二十三日という日付を伝えてくる。
約一か月の空白は、まるで心にポッカリと開いた穴に似ている。そんな気がした。
「…………」
上部を可動させ、わずかに傾斜をつけたベッドに背を預けながら、視線をテレビから外す。
コメンテーター達のお喋りをぼんやりと聞きながら見つめるのは、掛け布団に隠れ今は見えない己の足。
記憶が途切れる直前、猛スピードでこちらへ向かってくる車と接触し、初めて経験する衝撃と痛みを感じた。
どうやら、しっかりと横断歩道を渡っていたにも関わらず、身勝手な運転手のせいで交通事故とやらに巻き込まれたらしい。
母と担当医、そして仕事を終え慌てて駆けつけた父から受けた説明に、最初は戸惑うばかりだった。
命に別状は無いものの、かなりの重傷を負い、駆けつけた救急車によって運び込まれたのは、市内で一番大きな病院。
すぐに手術が執り行われ、いまだ体の至る所に処置の痕跡が残っている。
この一か月の間に治りかけている箇所もあるが、それらは軽いものばかり。
一番重傷だった両足には金属が埋め込まれており、今後歩けるようになるためのリハビリが必要だと教えられた。
(なんか……実感が無いんだよな)
ベッドの上で目を覚まし、事故後の状況を詳しく教えられても、いまだどこか釈然としない気持ち。
車が突っ込んできた時に感じた衝撃も痛みも思い出したし、思うように体を動かせず何度も苛立ちをおぼえた。
この身に起こった出来事は紛れもない現実だと、身動きをとるたび感じる痛みが教えてくれる。
しかし、どこか他人事のように、まるで幽霊にでもなって天井からベッドの上の自分を見つめているような感覚にとらわれる瞬間がある。
その原因はきっと、眠り続けていたという空白期間のせい。
手術後、「数日中には目覚めると思う」と担当医が言っていたにも関わらず、今になって起きた理由は謎のままだ。
嬉しさのあまり号泣する両親の姿を初めて見た。
まるで自分のことのように、医師や看護師達が目覚めを喜んでくれた。
――自分は今、生きている。
すべてが嬉しいことのはずなのに、心はどこか不安定に揺れ続ける。
「……美羽」
不意に零れた呟きは、テレビから聞こえる芸能人達の楽しげな笑い声にかき消された。
容態観察を数日行った結果、少しずつ医師や看護師の口から、今後のリハビリ計画について話を切り出された。
それからは、一か月間で落ち切った体力を回復するため、しっかりと病院食を食べ、毎日やってくるリハビリ専門スタッフ達と面談や現状確認を行う。
目覚めたからには、すぐにでもリハビリが始まるのだろうと思っていたが、現実は違うらしい。
眠っている間に少しずつ怪我が治っているとは言え、完治にはまだまだ遠い。
ベッドを降り、自力で立ち上がることも、何かを支えにして歩くことさえ出来ない自分に、日々苛立ちと焦りがつのる。
担当医にも、一日も早くリハビリをしたいと訴えるが、まずは回復が先だと|窘(たしな)められるだけ。
寝ても覚めても、頭の片隅に思い浮かぶ一人の女性へ恋焦がれたまま、ベッドの上から満足に動くことも出来ず時間だけが過ぎていく。
すぐにでも病院を飛び出し、美羽の探しに行きたい。しかし、今の自分は満足に歩くことすら難しい。
心と身体の相反する現実を前に、まるで降りしきる雪のように心の底へどんよりとした感情が積もっていく。
そこにあるのは真っ白で美しい冬の代名詞とは違いどこかほの暗い。
早く溶けて欲しいと願うも、想いに反し、負の感情は徐々に心の熱を奪い始めた。
「真守、何をそんなに焦っているの?」
「……え?」
そんな日々が続くなか、ある日見舞いのため病室を訪れた母が、開口一番投げかけた言葉に、心臓が一際大きく脈打つ。
ぎこちなく顔の向きを変え、ぼんやりと窓の外を眺めていた視線をすぐそばにいる親へ向ける。すると、眉間に皺をよせたままひどく心配そうな表情を浮かべ、こちらを見つめる彼女と目が合った。
「看護師さん達に聞いたわ。毎日……真守がリハビリしたいとお願いしてくるって。確かに、リハビリをすれば、早く歩けるようになるかもしれない。だけど……無茶をして逆に身体を痛めたり、せっかく治ってきた傷にも影響するかもしれないのよ? だから、リハビリは焦らないでゆっくりやってもいいんじゃない?」
どうやら、出来るだけ平静を装っていたにも関わらず、心のザラつきは隠しきれず、筒抜けだった様だ。
連日懇願を続ければ、確かにスタッフ達が違和感をおぼえるのも無理はない。
(はは……だっさ)
口を少しばかり歪め、開いた口からは音にすらならない自嘲的な笑いが零れる。
そのまま視線を下へ向けると、視界に飛び込んでくるのは、ギプスでガチガチに固められた両足だ。
『真守君』
思い出すのは、儚げに、そしてどこか嬉しそうに笑う美羽の姿。
彼女の呼び声が脳裏に何度も木霊する。
(会いたい、なぁ)
「……母さん」
「んー? どうしたの……って、真守、あんた泣いてるの!?」
頬を伝う水滴に気づいたのは、驚愕の表情を浮かべ、こちらを見つめる母の声を聞いた時。
「……っ、どうしたらいいのか、もうわかんないよ」
今の自分一人では、どうすることも出来ない。
目の前に立ちはだかる大きな壁を一刻も早く乗り越えたいと、気持ちだけが走り出し、追いつかない体が悲鳴をあげる。
その日の夜、両親を前にし涙ながらに語ったのは、愛する人との出会いと別れ。
『ほら、真守。ここじゃないか?』
長い入院生活を終え、リハビリを続けながら、初めて自宅と病院以外の場所を訪れたのは、どこもかしこもすっかり春の匂いでいっぱいになった休日。
親に付き添われやってきた場所を目にした瞬間、一言も発することなく静かに涙を流した。
(……あぁ、やっと……っ、やっと)
前後左右様々な場所から聞こえてくるのは、親子や恋人、観光客たちの賑やかな声。
すっかりあたたかくなった風が幾度となく頬を撫で、視界の端で散り始めた桜の花びらが舞い踊る。
どこか恐々と動く視線を止めた先にあるのは、見慣れたベンチと柵。
寒空の下、愛する人と語り合った場所は、あたたかな空の下たくさんの笑顔が溢れていた。
あの日、美羽と過ごした日々を明かした息子に対する両親の反応は、戸惑いが大半を占めていた。
それはそうだろう。病院で眠り続けていたはずの我が子が、見知らぬ公園へ赴き初恋をしたと聞けば、誰だって頭がおかしいと思うはず。
それでも、己の中で暴走寸前の想いを吐き出し続けた結果、二人は困惑しながらも少しずつ協力してくれるようになった。
母は、無茶をしないよう見張りながらも、リハビリをサポートしてくれた。
父は、仕事の空いた時間を使い、公園が実在するものかどうかを調べてくれた。
するとしばらくして、隣の市に条件に合致する似たような場所があるという情報を得られた。
その場所へ行けば、何か手がかりが得られるかもしれないと、リハビリにもより熱が入る。
もしかしたら、あの出来事はすべて現実ではなく幻だったのかもしれないと何度も心が折れそうになった。
しかしその度に、不思議と美羽の笑顔を思い出す。
あの公園で起きた出来事も、人生で初めて抱いた淡い恋心も、すべて脳が勝手に作り出した幻想かもしれない。
もしそうだったとしても、自分の瞳で確かめる前から諦めてはダメだと、何度も後ろを向きかけた心を無理矢理引き戻す日々が続いた。
そして今日、ようやく辿りつくことが出来た。
――リーン、ゴーン、リーン、ゴーン。
しばしぼんやりと景色を眺めていれば、一定の時を知らせる教会の鐘の音が鳴り響く。
もうすっかり聞きなれた音に後押しされるように、止まっていた足は美羽がいつも利用していた階段の方へ向かった。
そのままゆっくりと階段を降りていく。一歩、また一歩と進むスピードは、普通より何倍も遅い。
目覚めた時から考えれば、明らかに回復しているとは言え、全快と言うにはまだまだな身体だから、仕方ないのだろう。
疲労が溜まり始めた頃、ようやく最後の一段を降り、コンクリートで舗装された地面へ両足をつける。
そして、無意識にゴクリと唾を飲み込みながら、彼女へ繋がる手がかりがこの先にあるはずだと、焦る気持ちを抑え、下を向いたままだった顔をあげる。
「……え?」
真っ先に目に飛び込んできたのは白く大きな建物。
――そこは、つい先日まで入院していた所よりも大きな大学病院。
ドクンドクンと、やけに大きな音を奏でる心臓が、数秒握りつぶされるような感覚をおぼえた。
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