鐘の音が鳴るその先へ

雪宮凛

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第4話

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 最初は、ただ単に遅刻しているだけと考えていた。
 しかし、一時間、二時間と待ち続けても、彼女が来る気配は無い。
 とうとう教会の鐘が鳴る時間になっても、俺の前に美羽があらわれることはなかった。





 次の日も、そしてまた次の日も。
 冬特有の寒空の下、人気の無い公園で、俺は一人ぼんやりと景色を眺める。
 いつ彼女が来ても大丈夫なように、しっかりと指定席を空けながら。

「…………」

 ため息交じりに吐いた息の白さがやけに目についた。
 美羽と一緒にいる時は気にも留めなかった冷気がやけに気になり、何度も己の身体をかき抱くように両腕をさする。
 そんな状態の中、四六時中頭に浮かぶのは、たった一人の女性について。
 気を紛らわそうと、何度も柵のそばへ行き景色を眺めたりもした。
 しかし、視界の端に大好きな笑顔の幻影がチラつき、心が乱されるばかりであまり効果は無い。

(美羽、どうして来ないんだよ)

 ついに風邪を引いたのだろうか。もしかしたら、ここへ来る途中事故にあったのかもしれない。
 一度頭を過った不安の欠片は、日に日に脳内を占める割合を増していく。
 不安が増大する度、額には嫌な汗が滲み、ひどく心をザラつかせる。
 よく考えてみれば、俺は美羽について何も知らないのだ。
 彼女がどこに住んでいるのかも、社会人か学生なのかも。
 知っているのは、この公園で出会う美羽だけ。

「もっと……色々話しておけばよかった」

 美羽がいつも使っている階段そばへ赴き、自然と零れた呟きは、瞬く間に周囲の冷気へ溶け込み消えていく。
 彼女は、毎回ここを少し苦しげな笑顔でのぼり、名残惜しそうにどこか寂しげな表情を浮かべ去っていくのだ。

 ――あぁ、もうどのくらい彼女の姿を見ていないのだろう。

 思いを馳せながら移ろう視線は、やけに不安定でどこか遠い。

 俺はいつも、一回りも、二回りも小さな身体をから感じるわずかなぬくもりを抱きしめていた。
 それは両手にしっかりと染みついているはずなのに、今は記憶がおぼろげで、所々に小さな穴が開いている気がする。

「美羽、美羽……」

 何度も声を発するが、いくら呼んだところで、彼女がこの場にあらわれる可能性は低い。いや、ほぼゼロなのだろう。

(美羽は……ずっと、こんな気持ちだったのか……)

 いつ誰が来るかもわからない公園で、一人寒さに耐え続ける時間の辛さを、ここ数日で嫌と言うほど理解した。
 彼女は一体いつから、この苦痛を耐えていたのだろう。
 考えれば考える程、心に巣くう冷たい感情は増すばかり。無意識のうちに俺は目元を濡らし、いくつもの雫が頬を伝い流れ落ちた。





『真守君、またね』

 脳内で、はにかみながら笑う美羽の姿が色鮮やかに蘇る。
 そんな光り輝く彼女の笑顔に、俺はこれまで感じたことの無い焦りをおぼえた。

 このまま、もう逢えないかもしれない。
 抱きしめることも、冷え切った身体をあたためてやることも出来ないかもしれない。
 あいつは今、一体どんな想いでいるのだろう。
 不安を感じているのではないかと、怖い思いをしているのではないかと。
 思考の迷宮にはまり、焦りや不安、多くの負の感情が止めどなく溢れていく。
 そして流れ出た感情は、粘着質な黒い物体と化し、己の心を覆いつくした。
 その勢いは止まることを知らず、心の拠り所となった美羽との思い出さえも浸食しようとしてくる。
 それはまるで、穢れを知らない笑みに迫る魔の手のよう。

「やめろー!」

 次の瞬間、静まり返った公園に自身の叫び声が木霊する。
 声と共に、渾身の力で両頬を引っ叩けば、ジンジンとした痛みと熱を感じた。
 予想以上の声量に、一瞬意識が揺らいだが、両足に渾身の力を入れ踏ん張り、軽く首を左右に振る。
 自分はこんなにも大声を出せるのかと、純粋な驚きを感じてしまう。
 そのおかげなのか、妙に頭がスッキリし、今までモヤモヤと考え込んでいたものが、全て空の彼方へ飛んでいく気がした。

「……よし」

 それから俺は数回深呼吸をくり返し、昂った気持ちを落ち着かせ、真っ直ぐ前を見据える。
 そして、勢いよく一歩足を前へ踏み出せば、そのままトントンと一定のリズムを刻み階段を始めた。

 ――このままでは、何一つ変わらない。
 ――ましてや自分が望む未来など、待つばかりではいつまで経っても訪れないに決まっている。

 遠回りを続けやっとたどり着いた答えに、一度は落ち着いた鼓動が加速し、連なるように両足の動きも速くなる。

「美羽、待ってろよ!」

 居場所もわからぬ想い人へ声をかけながら長い階段をくだり、彼女のもとへ向かおうと駆け出す。
 いつの間にか周囲を覆う真っ白な霧が、走り出す俺の身体を包み込んでいった。





   ◇    ◇    ◇    





 一定のリズムを刻む機械音に導かれ、ゆっくりと意識が浮上していく。
 やけに重い瞼を必死にもちあげれば、ようやく開けた視界に差し込む光の眩しさに、思わず両目をギュッと瞑る。
 しばらく時間を置き、もう一度ゆっくり瞳を開け、未だ残る眩しさに数回瞬きをくり返しながら、ぼんやりと視界いっぱいに広がる白を見つめた。

(……あれ? どこだ、ここ。さっきまで……公園に居た、はずなのに……)

 目の前に映る白と、ひどく重い頭と身体。スムーズな思考には程遠い現状に、いくつもの疑問符が浮かぶ。
 湧き出る問いの答えを求めることすら億劫だと思い始めた頃、不意に新たな色が視界の端に映りこんだ。

(母、さん?)

 それは記憶の中にある母の面影を残すも、酷く痩せ顔色の悪い女の姿だった。
 何か作業をしているらしく、彼女はちょこまかと視界から出入りをくり返す。

「……ぁ、っ」

 頭の中に溜まりまくった問いの答えを聞きたい一心で、呼びかけようと口を開いた。
 しかし『母さん』と呼んだにも関わらず、声はひどく掠れ、音にすらなっていない。
 どうしたものかと、また新たに出現した問題に頭を悩ませる。
 そんな時、忙しなく動いていた母らしき女の動きが止まった。

(……?)

 一体どうしたのかと、再び口を開きかけた時、ぎこちなくこちらをふり向く彼女と目が合う。

「……っ! ま、もる……真守、真守! 目が覚めたのね! あぁ、よかったぁ……お母さんよ、わかる?」

 まるで怖いモノでも見たかのように、彼女はしばし両目を大きく見開いた。
 そのまま、こちらに駆け寄ってくれば、今度は忙しなく話しかけてくる。

(やっぱり母さんだったか。っていうか、自分の親の顔くらいわかるって……)

 何をそんなに興奮しているのかと、まだ通常モードには程遠い頭で疑問を抱く。
 すると母は、瞬く間に目を潤ませ、目元にこれでもかと涙を浮かべた。

(……は? え、何!?)

 コロコロと変わる表情はまさに百面相と言ってもいい。
 彼女が何故こんな反応を示すのかわからず、戸惑い混じりにその様子を眺めるしかなかった。




『あ、あのっ、息子が……真守が目を覚ましたんです!』
 頭上にある何かに向かい、涙声で話しかける母の姿を目にしてから数分。
 目の前にあらわれた見知らぬ男と女に、これまで以上の戸惑いをおぼえた。
 白衣を羽織り、首から聴診器をぶら下げた男と、看護師の制服らしきものにその身を包んだ女だ。
 二人の見た目から導かれる答えは、医者と看護師という単純なもので、それが示す新たな答えを教えてくれた。

(どうして……病院にいるんだ?)

 公園を飛び出し、美羽のもとへ向かっていたはずなのにどうして、と更なる疑問に頭を悩ませる。


 口元を覆っていた器具を外され、わずかな水を含み口内を潤す。
 そのお陰で、まだ少し掠れているものの、そばにいる人間が聞き取れるまで声を回復させることが出来た。

「今が西暦何年か、わかるかい?」

 その後、医者は手首に触れたり、胸元に聴診器をあてたりと、いくつか診察らしき行動を取ったあと、唐突な問いをこちらに投げかける。

「……20××」

 あれ今何年だっけと、ようやく稼働を始めた脳を働かせ出した答えを口にすると、何故か男の口元に苦笑いが浮かぶ。

「それは……去年、だねぇ。真守君、君はね……昨年末交通事故に遭ってからずっと、眠り続けていたんだよ」

 そしてしばしの沈黙が室内に流れた後、子供に言い聞かせるような優しい口調が紡ぐ衝撃の内容に、ようやくはっきりしてきた意識がわずかに遠のきかけた。

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