鐘の音が鳴るその先へ

雪宮凛

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第3話

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 この日も、俺達は飽きもせず公園で語り合っていた。
 相変わらず、美羽の体は驚くほど冷たく、触れるたび、こちらの心臓がキュっと縮みそうになるから困る。
 そんな彼女の両手を包み込み、時に腕や頬をさすりながら過ごす時間は、あたたかく、どこかむず痒い。
 赤く染まる美羽の頬、わずかに熱を持つ俺の頬。
 互いにそのわけを問わず、俺達はただ寄り添っていた。
 指を絡め繋ぎ合った手を、いつも二人の間でわずかに揺らしながら。





 しばらく話をしていると、不意に会話が途切れ、辺りに静寂が広がる。
 美羽と出会ったばかりの頃なら、静まり返った空気に耐え切れず、俺は必死に次の話題を探していただろう。
 しかし今は、それが無い。
 時折耳元を通り抜ける風の音、頬を撫でるひんやりとした空気、そして腕にほんのりと感じる小さなぬくもり。
 声など聞こえなくても、隣に彼女がいる。そう実感出来るだけで、俺の心はこの上なく弾むのだ。

 美羽と一緒に過ごすのは、一日の中でほんのわずかな時間だけ。
 その中で小さな欠片が積み重なり、いつしか心の片隅にこれまで感じた事のない想いが形作られていく。
 それは、人生で初めて抱く感情だった。
 テレビや友人達からの情報で、名前と概要くらいは知っているつもり。
 しかし、いざそれが目の前にあらわれ、己が経験する立場になると話は別だ。
 多少なりとも戸惑いが付随することを、俺はここ数日で初めて知った。





(それにしても……やっぱりこの公園、おかしくねぇか?)

 わずかに吐き出した空気が、口元で白く色を変える。
 じんわりと目の前に広がる景色に溶け込んでいく吐息を見つめながら、脳裏を過る疑問に思わず小首を傾げた。
 出来るだけ周囲の情報を得ようと、瞳を左右に動かし、小さな音も逃すまいと耳を傾ける。
 しかし、視覚、聴覚が拾い集めてくるのは、連日脳へ届けられるモノと同じだった。

「なぁ、美羽」
「……ん? どうしたの、真守君」

 新たに脳裏を過るのは一つの仮定。まさか、と半信半疑のまま隣に顔を向けると、すっかり見慣れた顔がそこにあった。

「美羽は……俺がここに来る前から、この公園に来てたんだよな?」
「……うん、そうだよ」

 不思議と加速する鼓動。喉の渇きに、ゴクリと無意識に唾を飲み込む。
 口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど普段重く、違和感が凄まじい。
 そんな俺の声に、美羽も何かを感じ取ったのか、その顔には明らかな影が差し込んだ。

「その時は誰か、他に来たりしてた、のか?」

 何故か口から飛び出す声は震え、ドクン、ドクンと脈打つ心音に負けそうになる。
 初めてここを訪れた日から数日、やっと気づいた事実に、俺は大きな疑問を抱いた。
 いや、もしかしたら最初から気づいていたのかもしれない。気づいていたにも関わらず、見て見ぬふりを続けていた可能性もある。

「ううん、誰も来てない。真守君が……初めて来てくれたの」

 そう言って、美羽はどこか嬉しげに笑う。
 彼女の笑顔を見た瞬間、ただでさえうるさい心臓が一際大きく脈打つのがわかった。

 ずっと頭にこびりついた違和感。それは、この公園の異様なまでの静けさだ。
 今日まで俺は、この場所で美羽以外の人間に会った記憶が無い。
 チラリと人影を見ることも、人の気配を感じたことも皆無だ。
 季節が冬だから、人の足も遠のいているのかもしれないとも考えた。
 しかし、ここへ通い始めてもうかなりの時間が経つ。その間、一人や二人くらい誰かと出会う可能性はあるだろう。
 敷地内にあるのは、剪定されたいくつかの木々と、俺達が座るベンチくらい。
 子供達の賑やかな声が聞こえる場所というよりは、大人達の休憩所という印象を受ける。
 寂れたと言っても、ベンチも柵も古いわけではない。なんとも不思議な公園。

「寂しく、ないのか?」

 ――ずっと、ここに一人で居て。

 意図的に飲み込んだ言葉が、彼女のもとへ届かないことを願いながら、わずかに首を傾げ口を開く。

「前は、時々寂しいって思ってたの。でも……でも今は、真守君が居てくれるから、全然寂しくないよ」

 そう言って美羽は、薄っすら頬を染めながら目を細める。
 その姿は、疑心でザラつく俺の心を清め、先程までと違う胸の高鳴りを感じさせる。

「そ、それにね!」
「……?」

 すると次の瞬間、普段あまり声を張らない美羽の声量が変化する。
 少しばかり大きくなった声に、俺は小首を傾げつつ、次の言葉を待った。

「それに、ね……ここに居るの、私と真守君の二人だけ、でしょ? だから、その……」

 そのまま最初は張りのあった音が次第にしぼんでいき、いつも以上に聞き取りづらくなっていく。
 そして何故か美羽は俯き、モジモジと両手を、両膝を合わせ、どこか落ち着かない様子を見せた。

「ふ、二人っきりになれるから……今は、他の人がいなくて、いいかな、って」
「……っ!」

 不意にこちらを見上げた美羽の顔は、これまでに無いほど赤くなっていた。
 色鮮やかに染まった頬、潤む瞳に、震える唇。視覚から飛び込んでくる情報と、耳に届く音に、俺は思わず息を呑んだ。

(あぁ、もう。ほんと、なんで……っ)

「きゃっ!」

 身体の中心から湧き上がるやけに熱い血液。それらは瞬く間に全身へ巡り、一際脳へ集まっていく。
 頭に血がのぼるとはよく言ったもので、まさに今の自分かもしれないと、思考の片隅でやけに冷静に現状を見つめる小さな分身が笑った気がした。

 アースカラーのコートからのぞく細すぎる手首を掴み、反対の腕を美羽の腰へ回し、彼女を身体ごと引き寄せる。
 耳元で聞こえる小さな悲鳴に、心の中で「ごめん」と声を発しながら、目の前にある困惑が色濃く滲む顔を覗き込んだ。

 寒さのせいで赤みがかる小さな頬の血色が、みるみるうちに増していく。
 大きく見開かれた瞳、わずかに開いた口元は小魚のようにパクパクと忙しなく動いた。
 彼女の一挙手一投足すべてが可愛い、愛おしいと感じる。
 その理由となる答えは、きっと一つだけ。
 自分が思っているよりも、何倍も、何十倍も、俺は遠野美羽という女性に溺れているのだろう。

「…………」
「…………」

 美羽に投げかけるうまい言葉を見つけられず、無言のまま彼女の顔を凝視するしか出来ない。
 このまま嫌われてしまうだろうかと、不意に頭の中を不安が過った。
 しかしやけに煩い己の心音が、脳内のそれを一瞬にしてかき消していく。

「美羽……」
「真守、くん」

 やっとの思いで紡いだ声は、本当に自分のものかと疑いたくなるほど甘ったるい。
 そんな音に呼応する美羽の声が、すぐ近くで聞こえる。
 気づけば、先程より愛しい姿は近くにあり、彼女が時折漏らす吐息を唇に感じていた。





 ――リーン、ゴーン、リーン、ゴーン。

「……っ!」
「……っ」

 頭上よりはるか遠くから鐘の音が響き渡る。
 突然の音に驚くあまり、俺達は一瞬にして互いに距離をとった。
 あと数センチまで近づけた口先は、すぐそばにあるぬくもりに触れることなく離れていく。

「……あっ」

 ドクンドクンと、先程よりも激しく脈打つ心臓を咄嗟に上着の上から抑えつけ、俺は鳴り響く音を見上げながら、思わず声を漏らす。
 視界に映りこんだのは、今いる高台よりも更に高い場所。山の上にある教会。
 象徴ともいえる十字架と、揺れ動く鐘が妙に印象的で、つい目を止めてしまう。
 しばらくして、すぐそばにいる美羽の様子をうかがおうと、ぎこちなく視線だけを動かす。
 彼女も音に気づいているようで、何度も教会とこちらを見比べていた。
 その顔は、今日一番と言っていい程赤い。
 頬や耳から、普段は感じない熱を感じる俺も、きっと同じような状況になっているのだろう。

「そ、そろそろ、帰らなきゃなっ!」
「う、うん! そう、だね!」

 俺はあからさまに視線を泳がせ、美羽は両手を胸元で無意味にパタパタと動かす。
 二人そろって動揺を隠しきれていないのは明白。しかし、それを一緒に笑い合う余裕は、きっと今の俺達には無いのだろう。
 明らかな動揺が口をついて声に出る。口早に互いの声を遮らんばかりの勢いは、誰にも止めることは出来なかった。

 時刻を知らせる教会の鐘の音。いつからかそれは、俺と美羽にとってその日の別れを意味するものとなっていた。





「じゃあな、気をつけて帰るんだぞ」
「……うん。真守君も、気をつけてね」

 いつも美羽がのぼってくる階段に近づき、これから帰宅する彼女を見送る。
 一段一段、ゆっくりと階段を降りながら、時折俺の方をふり向き、美羽は笑みを浮かべ何度も手を振ってくれた。
 それはまるで別れを惜しむような姿。なんと愛らしいのだろう。
 そんな彼女の姿が見えなくなるまで、俺はその場で手を振り続ける。

「さ、てと……明日話す内容でも考えるか」

 完全に美羽の姿が見えなくなったことを確認し、クルリと体の向きを変え、反対方向へのびる階段を目指し歩き出す。
 帰り道を歩きながら思い描くのは、明日もまた目にするであろう大好きな女性の笑顔。
 何を話せば彼女が喜ぶか、どんな話題を提供すれば一緒に笑い合えるか。考えるだけで、しまりのない口元が緩みそうになる。
 だらしない顔を他人に見られるのはやはり恥ずかしいと、俺はこの時、公園に人影が無い事に心底感謝していた。





 別れ際目にした美羽の笑顔を思い出しながら、上機嫌のまま歩みを進める。

 ――この時、俺は何も知らずいた。

 何か小さな手がかりでも掴んでいればと、何度後悔したかわからない。
 しかし、いくら嘆いたところで、自分の思い通りに現実が変わるなどあり得ない。


『真守君も、気をつけてね』

 その日以来、美羽が俺の前に姿を見せることは無くなった。
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