振り向けば

糸坂 有

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二十二

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 文化祭が終わると、校内は急速に冷え込み始めた。もうすっかり秋で、冬の訪れを待つのみである。
 学も自由時間が増え、陸との勉強会が再スタートすることになった。
「受験っつってもまだそんな気全然しねえわ。周りともちょっと話すくらいだし」
「とりあえずやっておいた方がいいですよ。途中でだれるとだめですけど、先輩は多分大丈夫な気がします」
「お前の中の俺、好感度上がってねえ?」
「好感度とか、そういう問題じゃないです」
 すっかり気まずさはなりを潜め、普通の空気が戻っていた。話せば、普通に話せるものである。
 いつものように机を確保し、勉強道具を取り出す。
「塾の先生にもいろいろ訊いてみたので、今度一緒に参考書買いに行きましょう。俺なんかが力になれる範囲は限られてますけど、できることはしますので」
教科書、ノート、筆箱。そこで学は、あ、とほんの少し口を開けた。しかしすかさず表情を引き締め、何もなかったように振る舞う。
「お前、面倒じゃないの?」
「自分の勉強にもなりますから」
 文化祭が挟まれた間はなかったのに、また通常授業に戻ったら再開らしい。またか、と呟きそうになるのを押さえ、ゆったりと微笑んだ。
「すいません、忘れ物してきたみたいです。取りに行ってくるので、先に始めておいてください」

 小走りで教室に戻る。階段を上がって、誰も人がいないことを確認すると、ゴミ箱の蓋を開けた。掃除の際、捨てられる前のゴミ袋を確認した時は、私物は全てあったし、何も捨てられてはいなかった。絶対にあると確信して見れば、そこにはぽつんと学の筆箱だけが捨てられていた。
 おおよそ、トイレに行った時にでも盗られたのだろう。短時間だし、誰もいないと思っていたからうっかりした。そう思って筆箱に手を伸ばすと、後ろでかた、と扉の音がした。
 心臓にひやっと冷たいものが当たる。息を吐いて、言い訳を探しながら振り向く。
「なにそれ」
 陸の無表情は久しぶりだった。声色には怒りが滲んでいて、学は薄く笑った。
「えっと」
 言葉は続かなかった。
 いつの間について来たんですか。先に始めておいてくださいって言ったじゃないですか。
 ぐるぐる考えは回るのに、一向にこの場にふさわしい言葉は出て来ない。
 何を言えば陸が満足するのか、全く分からない。視線を落として上靴の爪先を見れば、薄く汚れていた。
「誰?」
 沈黙を破ったのは、陸の方だった。喧嘩腰の言い方に、初めて出会った時のことが頭をかすめた。
「え」
「誰がやったのか、目星ついてんの?」
「いえ」
 分かっていたら苦労はしない。判明させる必要性も感じていなかったため、学は小さく首を振った。
「こういの、いつから?」
「……少し、前から」
「少しって?」
「秋学期が始まって、一、二週間経ってからだったと思います」
「一ヶ月くらい経ってんじゃねえか」
「でも、文化祭期間前後はなかったですし」
「何で俺に言わねえの?」
 相談してほしかった。
 陸の目には、そんな感情がありありと浮かんでいた。大きな問題にしたくなかったとか、心配させたくなかったとか、ありきたりな言葉でかわすことも出来たはずなのに、学は手を握りしめてしばし沈黙した。
「……それは」
「今日も、俺があのまま教室で待ってたら、普通に戻ってきて何食わぬ顔で勉強してたんだろ」
 気まずい空気が立ち込める。素直に頷けば、陸は学の腕を掴んで廊下へ引っ張り出した。そのまま二年の教室へ戻るようだ。
 階段を降りていくと、一人の生徒とすれ違ったが、不穏な空気に圧倒されたか、一瞬、好奇の目を向けただけで慌てて走り去った。
 教室に入ると、椅子に座らされる。陸は机を挟んで学の真正面を陣取る。前の人の椅子に、正規の座り方とは違い、背もたれに体の正面が来る形で座った。
「何か言いたいことあんなら聞くけど」
 それは、実質全て洗いざらい話せという強制を持つ言葉だった。さすが、と言っていいのか、圧倒的な不機嫌を放つ陸に真っ向から戦いを臨む気はさらさら出ない。
「……こういうことは、昔からたまにあったんです」
 観念して項垂れると、陸は神妙に頷いた。
「それはちょっと分かる気する」
「分かる?」
「お前、勉強出来るし優等生だし、嫉妬するんだろ」
 嫉妬。まただ。陸も望も、同じことを言う。
「違います」
 学は大きく否定した。曖昧に笑っておけば良かったのに、なぜかそれが出来なかった。
「俺なんて、嫉妬されるようなできた人間じゃないんです。ちゃんとしてないから、こんなことになるんです」
「お前」
 陸が何か言おうとしたが、学は言葉を続けた。他の人の言葉を遮ることなんて、普通はしない。ただその時は、言葉が止められなかった。
 陸は、優しい言葉をかけるつもりだ。そう思うと、耳を塞ぎたくなった。
「いろいろ、勘違いされてて。俺なんて、何もできないのに。他の人の方がよっぽどしっかりしてるし、羨ましいですよ」
「お前、俺のことも羨ましいとか言うわけ?」
「言います。思ってます。俺は先輩とは違って小心者ですから」
 何も出来ないから、頑張らなくてはいけないのだ。人一倍頑張って、やっと人並みになれる。誰かに必要としてもらえる。今までそうやって生きてきて、これからもそうやって生きていく。誰に何と言われようと、それは変わらない。
「いろいろ、難しいな」
「簡単なことです。ごくごくシンプルな話です」
 胸の中のものを、一気に吐き出したせいか、頭がぐらぐらする。誰にも言いたくないことだったのに、胸の上まで波が上がってきたせいで、息を吐いただけで言葉が飛び出した。
「お前って、真っ直ぐなようでいてめっちゃ曲がってねえ?」
「曲がるものすらないですよ。俺には、何もない」
 後悔した。陸の表情を見るのが怖い。情けない人間だと知られて、これからどうやって接していけばいいのだろう。何でこんなことに。
 学は、膝の上で手を強く握りしめた。
「俺みたいな奴のことなんて、先輩は嫌いでしょう」
 声は震えていた。目は伏せて、指の関節を見る。
 骨と肉が、なぜ動いて話して、感情を共有し合っているのか。昔からの疑問が、さらに濃くなった。
 陸が、息を吐いた音がした。ひゅうと、何かが抜けていく音。呆れたような、疲れたような、そんな音。
「なわけねえじゃん。つか、お前の方こそよく俺みたいな奴の面倒見てるよなって感じ」
 唇を噛みしめる。
「お前が俺に飽きることはあっても、俺がお前に飽きることは、一生ないと思う」
 顔を上げた。夕日に染まる陸の顔は、整っているのにとても親しみ深い表情をしていた。
「情けねえ顔」
 ポーカーフェイスを気取っていたつもりが、苦笑して頬をつままれる。自分がどんな顔なのかは知りたくないし知る必要もなかったが、笑っている陸はとてもきれいに見えて、ずっと眺めていたくなった。
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