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第1章至る平安
岩清水参り
しおりを挟む香子は結局、夜も一緒という条件で、道長の誘いに乗った。
二人は彰子のもとに女房として使えることになる。
夜が宮中に顔を出すのは五年ぶりくらいだろうか。
ほとんど顔立ちは変わっていないが、仕える主人が変わっていることもあって、不審に思うものはいなかった。
一条天皇が少々怪しんでいたが、彼も確信は持てないようだった。
それはそうである。定子と一番の対立関係にあるはずの彰子のもとに、かつて定子のもとに仕えていた女房がいるはずがない。
そんな常識的な考えが、一条天皇には残っていた。
ちなみに彰子は昔二人が仕えていた源倫子の娘である。
どこか面影のあるお姫様で、二人も昔のことを思い出すのだった。
夜はいざ知らず、香子はそろそろ歳をとってきており、体の衰えが隠せていない。
ともあれ彼女は、長編小説である源氏物語の執筆に専念することが許された。
彼女自身、女房としての仕事のほとんどは嫌いだった。そのため、夜は、彼女と他の女房たちをつなぐ架け橋として活躍するのだった。
彰子の女房たちは定子の女房たちと同等か、それ以上の教養と知性を持つ女房たちだったが、夜はその上をいっていた。
香子と二人っきりで研鑽を積んできた時代に、さらなる力を得たためだ。
夜の文字書きに関する力を可視化できるのなら、最近の伸び率が尋常じゃないことになっていることだろう。指数関数的と言ってしまっても良さそうだ。
ここからどうなるかは、全く予想がつかない。
源氏物語は、広く受け入れられていた。
貴族社会のほとんどが香子の描く物語を読み、その続きを期待している。
一番最初に読む権利を持つ彰子たちは羨望の目で見られていた。
そして、その中では、最初に読める夜が嫉妬を集めていた。
だが、彼女は原稿の完成前に一度目を通し、さらにクオリティを上げるという作業を行なっている。二人の会話は高度で、高い教養を持つ女房たちでも到底ついていけるようなものではないのだが、見違えるように良くなるというのは、街がないなかった。
こうなると文句を言うこともできない。
こうして夜は、源氏物語の一の読者として君臨することになったのだった。
●
石清水八幡宮は都中の信仰を集める神社である。
香子が、参詣したいと言い出したので、夜もついていくことになった。
「しかしまあ、どうしていきなり行こうと思ったんだ?」
牛車に二人で揺られながら、夜は問いかける。
中宮の女房ともなると、歩いて出かけることも難しいのである。
ついでに二人っきりなので口調は取り繕っていない。
「今度の玉鬘(たまかずら)の章で八幡様を舞台の一つにするから、久しぶりに見ておこうと思って。」
「さすが香子。熱心だな。」
「夜が言ってたじゃない。経験に勝るものはないって。それを実践しているだけよ。」
夜は苦笑する。この身にどれだけ経験が集まったのか、そしてどれだけの文章が書けるようになったのか。それを考えると気が遠くなりそうだ。経験しないよりはした方が良いのは確かだが、そこからさらに突き抜けるのには別の何かが必要だと思えた。
そして、おそらく香子はすでにその別の何かを所持している。
それでいて、さらに経験を積もうとしている。
眩しいなあと、夜は思った。
彼女と競いたいと願う気持ちは変わらない。
だが、この才能から生み出される物語を、最後の最後まで見てみたいと言う思いが年々膨らんできている。
香子は不死ではないのだ。
衰えていくし、死んでしまう。
それはとてつもなく嫌のことだと、夜は身震いをするように思う。
彼女とずっと一緒に小説を書いていたい。
不死者として人間に向ける情の中で、おそらく最大級の好意を、彼女は抱いていた。恋愛感情じゃないのが惜しいところである。
石清水八幡宮は、男山という山の上にある。
ある場所からは牛車を降りて、歩いていかなければならない。
二人は、どちらからともなく手を握り、歩き出した。
とても仲が良いと言えるだろう。
地獄から救われた香子はもちろん、夜も香子に並々ならぬ思いを抱いている。
それらは表面上に現れることなく水面下でふつふつと煮えたぎっていた。
石清水八幡宮の祭神は、八幡さまである。
そう、酒呑童子退治の折に、源頼光に力を貸し、最終的に夜に引っ掻き回されて用意を台無しにされてしまった神だ。
古くは別の神格であったものが、第5代天皇、応神天皇と習合され、八幡さまと呼ばれ親しまれてきた。
武家の一族である清和源氏の信仰する神であるということでも有名である。今回、香子はこの神社を、筑紫に流されていた美しい娘が、京へ帰ってきて、古いなじみと偶然再会する舞台として扱おうと思っていた。
石清水八幡宮はもともと宇佐八幡宮の分社である。
そして筑紫に名高い筥崎宮(はこざきぐう)もその一つだ。
神仏のお導きというものが殊の外信じられていた時代である。
幸運を説明する説得力のあるものとして、神社はとても使い勝手が良かった。
もちろん、香子はそこまで不敬ではないので、この時代の、幸運概念に沿って書こうとしているだけである。
不敬なのは、当然ながら、同行者の方だった。
「なあなあ、応神くんに会いたいか?」
「八幡さまのこと⋯⋯?」
「そういう名前らしいな。あいつ俺に頭が上がらないからせっかくだし呼び出そうぜ?」
「⋯⋯、まあ、これも経験かしらね?」
香子は止めなかった。
本当に神を呼び出せるとは思わなかったが、それでも夜ならあるいはと、ちょっぴりワクワクしていた。
大きな鈴を思いっきり鳴らして、夜は場違いな大声で言った。
「応神くーん。ちょっと、来てくれない?」
「夜、声が大きすぎない?」
「まあまあ、このくらいはね? 来てくれないなら、ここで暴れちゃってもいいんだよ? 」
周囲の参拝客の白い目にはどこを吹く風で、夜はゆっくりと爪を伸ばした。
「わかった!わかったから、大人しくしてくれ!」
「してくれ?」
「してください!」
社殿から老人が飛び出てきた。
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