もろはとつるぎ

星 陽月

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チャプター【081】

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「これはまた――」

 蘭覚(らんかく)は周囲へと眼を配った。
 しかし、辺り一帯、眼の先はすべて霧に被われて何も見ることができない。
 そのうえ、その霧は、肌を露出している蘭覚の顔や手に、ねっとりと触れてくる。
 ぬめるようなその感触は、決して気分のいいものではなかった。

「なにも見えないんじゃ、楽しみようがないなァ。せめて、声くらいはかけてほしいものだね」

 とぼけた口調で蘭覚は言った。
 その口調どおり、いま起きていることに幾ばくの焦燥も感じてはおらず、むしろ蘭覚は、その現状を楽しんでいるようだった。

「あたいは、ここさ」

 蘭覚の要望に応えて、白薙が声を発した。

「といっても、いったいどこにいるのかな?」

 蘭覚は小首を傾げた。

「おまえのすぐそばだよ」

 白薙の声は、霧の中でこだました。
 それは、前から聴こえたようでもあり、うしろからのようでもあり、左右からのようでもあり、距離があるようにも、すぐ耳元で囁かれたようにも思えた。

「ならば――」

 言った瞬間、蘭覚の姿がその場から消えていた。
 蘭覚は走っていた。
 どうやら、霧の外へ出ようとしているらしい。
 そこは城の敷地である。広い敷地ではあるが、蘭覚にとっては庭のようなものだ。
 ましてや、敵の仲間もその敷地で闘っている。
 まさか、仲間の闘いの妨げになるようなことはしないだろう、そう判断した蘭覚は、地を蹴っていたのだった。
 蘭覚は走った。
 しかし、どんなに走れども、霧を抜けることができない。
 蘭覚は足を止め、今度は右へと走った。
 その方角には城があるはずなのだが、行けども行けども霧の中を走るばかりだった。
 蘭覚はまた足を止めた。
 呼吸を整え、耳に神経を集中する。
 だが、どんなかすかな音も聴こえてこなかった。

「どこまで走ったところで、この霧からは出られやしないよ」

 霧の中のどこからか、白薙の声がした。

「どういうことかな」

 その白薙に向かって、蘭覚が訊く。

「おまえは幻術に嵌ったのさ」
「幻術、か。それは困ったな……」

 蘭覚はそう言い、だが、先ほどと同様に、蘭覚の顔には困ったという様子は微塵もなかった。

「ねえ、君。おねがいしたら、ここから出してくれるかい?」
「馬鹿か、おまえ。冗談は顔だけにしな」
「いや、冗談でこんなことは言えないよ。そっちが幻術でくるなら、こっちだって、それに対抗する術を使わなきゃいけないだろ? 僕も術者の端くれだけどさ、術を使うのって得意じゃないんだ。とは言っても、ここから出してもらえないんじゃ、使わずにはいられないけど」
「へー、そうかい。じゃあ、おまえの術を見せてごらんよ」

 白薙の声が聴こえたそのとき、蘭覚の横から、すうっと伸びてくるものがあった。
 それは黒く大きな鎌の刃だった。
 その刃は、蘭覚の首ぎりぎりのところで止まっている。

「けど、残念だね。おまえが術を使うのを待つほど、あたいは気が長くはないんだよ」

 蘭覚の背後に白薙の姿があった。
 と、

「失礼だな」

 蘭覚の姿は白薙の前にあるのに、その声は白薙の背後でした。

「!――」
「僕は、女を待たせるようなことはしないよ」

 白薙の背後に、もうひとりの蘭覚がいた。

「うぐッ……」

 白薙が顔を顰めた。
 胸から剣が突き出していた。
 背後から、もうひとりの蘭覚が剣で貫いたのだった。

「うわ、痛そうだね、それ」

 今度は白薙の前から、またも別の蘭覚が現れた。

「胸から剣が突き出ちゃってるじゃないか」

 次は左から現れ、

「かわいそうに」

 そして次は、右からも現れた。

「分身の術か……」

 白薙の唇の端から血が流れ出た。

「まあ、そんなところかな」
「いつの間に、印を結んだ……」
「この程度の術なら、僕は印を結んだりしないよ。術を使うたびに印を結ぶなんて面倒だからね。って言うかさ、君だって印を結ばなかったじゃないか」
「あたいは、霊晶石の継承者だよ」

 白薙の唇の端に、笑みが浮かんだ。
 すると、

「はなから、印を結ぶ必要なんてないのさ」

 白薙の声は、また霧のどこからか聴こえてきた。
 そのとたん、白薙の身体が霧状へと変化した。

「おや? なんだ、君も分身の術を使うのか」

 蘭覚が言った。

「そんなものと一緒にするな。これは式鬼の霊力だよ。あたいら継ぐべき者は、式鬼の霊力を自由に使うことができるのさ」
「ほう。それは便利でいいね」
「フン。まったく。おまえは呑気なのか、それとも、ただ余裕をかましてるだけなのか」
「自分では、そのどちらでもないと思ってるよ」

 蘭覚は剣を鞘に収めず握ったままでいた。

「そうかい。まあ、そんなことはどうでもいいや。ところで、この霧から出たいかい?」
「出れるものなら出たいさ。出してくれるのかな?」
「その方法を教えてやってもいい」
「ほんとかい? それは助かる――」

 そこで蘭覚は言葉を切った。

「ん?――」

 そのとき、蘭覚の顔が初めて険しくなった。

「ぐくくッ……」

 それは、何かを堪えようとしている表情だった。

「この霧に捕らえられた者は、死ぬまで出ることはできないんだ。だから、おまえがここから出る方法はひとつ――」
「ま、まさか……、死ぬときだ。なんて……、言わないよね」

 蘭覚はやはり、必死に何かを堪えている。
 いったい、何を堪えているのか。
 それはすぐにわかった。
 蘭覚の剣を持つ右腕が、ぶるぶると小刻みに震えている。
 その震える右腕を、左手が抑えている。
 なぜなら、右腕が蘭覚の意思に逆らった動きをしているのだ。
 それを左手が上から抑えているのである。
 だが、自分の力以上の力が働いているのか、右腕は上から抑えこむ左手を押し上げていた。

「なんだ。この僕に、なにが起きてる……」
「おまえのその右腕は、このあたいが操ってるのさ」
「――どういう、ことだ……」
「この霧はね、あたい自身なんだよ。そこまで言えばわかるだろ?」
「要するに、僕の体内に霧となった君が入りこみ……、この腕を操っている、というわけか……」
「ご明察」
「なるほど……」

 蘭覚の右腕は、首の高さにまで上がっていた。
 手首が動き、剣の刃が蘭覚の首をいまにも落とさんばかりの位置で止まった。

「自分の腕で、自分の首を斬り落とすというのも面白い趣向じゃないか?」
「悪趣味だね、君は」
「言っただろ? きっちり10倍にして返してやるってよ」
「だけどさ、君のその頬の傷と僕の首じゃ、つり合いが取れないんじゃないかな」
「四の五の言うんじゃないよ。おまえ、男だろ。最期くらい男らしくしたらどうなんだい」
「男らしく、か。それ、僕がいちばん苦手としてることだよ」
「ご託はもういい。覚悟しな」

 蘭覚の剣が、蘭覚の首に触れる。

「こんなことをしても……」
「なんだ。おまえも分身だから、無駄だとでも言いたいのかい? あたいは別にかまわないよ。おまえが分身でもね。霧の中にいるすべてのおまえの首を刎ねればいいことだ」
「それはいい考えかもしれないけど――」

 そこまで言ったとき、蘭覚の首がごとりと地に落ちた。
 落ちた首が上を向いて止まる。
 その首が眼を見開いたまま、にやりと嗤い、

「――意味がないよ。だって、僕は霧の中にはいないからね」

 言葉をつづけた。

「なに!」
「この中にいるのは、すべてが分身なのさ。ご苦労だったね。ハハハハハ」

 蘭覚の嗤い声が、霧の中に響き渡った。
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