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【第54話】
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好きな人がいたっていいじゃない……。
里子はそう思い、一度は自分を納得させはしたが、やはりその真実を知るのは恐い。
そしてその真実を倉田から聞かされることの恐れが、里子を萎縮させてしまうのだ。
疑念は消えることなく、倉田から電話が掛かってこないことで大きくなり、今交わした会話での倉田のよそよそしさと、里子の返答も待たずに電話を切ってしまったことで更に大きくなった。
今思えば、電話の会話の中でふと倉田が沈黙したとき、人の気配があったような気さえしてくる。
ほんとうのところはどうなんだろう……。
それを知りたいという気持ちと、知りたくないという気持ちが胸の中で共存して蠢いている。
ふたりはどうなっていくんだろうか、そんな思いが胸に湧く。
知らぬ間にふたりの歯車はずれ始めている。
もうあの頃にはもどれないのだろうか。
一度ずれてしまった歯車は、もうもとにはもどらないのだろうか。
もとはといえば自分が悪いのはわかっている。
だけど、わかっていても苦しいのは嫌だ。
他に好きな人がいるなら、はっきりとそういってくれればいい。
一度は別れの引導を渡したのだ。
もう一度つき合おうとしたのも、考え直してくれと泣きつかれたからだ。
また別れたからって悲しくなんかない。
悲しくなんか……。
強がってみても、胸の痛みは消えない。
こんな思いをするくらいなら、別れたほうがマシよ……。
その思いにスマート・フォンを見つめる。
倉田に掛け直そうとし、だが、思いに反してリダイヤルしようとする指先が止まった。
ぶつけようのない思いに涙が溢れてくる。
どうして泣くのよ……。
どうってことないじゃない、そう思おうとすればするほど、悲しみが胸の中で暴れまわる。
どんどん弱くなっていく自分が嫌になる。
「どうってことないわよ」
人の眼も気にせず口に出して言ってみると、少しだけ元気になった。
若者溢れる街の賑わいと、騒がしいほどのネオンの煌きは静かに覆う夜空を圧倒している。
そんな眠らない街をあとにし、里子は駅の構内に入っていった。
電話をすると言っておきながら、結局倉田からの電話がないまま三日が経った。
私からは絶対電話なんてしない……。
里子は自分に言い聞かせていたが、その思いもそろそろぐらつき始めている。
今日だって、何度もスマート・フォンに手が伸び、そのたびにそんな自分を諌(いさ)めた。
そうしながらも一日は過ぎていき、里子は無性に呑みに行きたくなって加代子を誘ったが、「用があるのよ」と軽くいなされ、残るはひとりしかいないと佐久間に視線を送ると、彼は里子と眼を合わせないように自分のデスクを離れていった。
え、何? どういうこと……?
まるで自分が取り残されたような気分だった。
里子はため息をつき、他に誰か誘おうかとも思ったが、仕方ない帰ろうかと思い直した。
家に帰り、父親と呑むのも悪くない。
それなら、酒の弱い男を送ったりしなくてすむ。
父親となら安心して心置きなく酔うこともできる。
今日は愚痴をいっぱい聞いてもらおう。
泣いたっていい。
父親だけは、どんなことがあっても味方になってくれる。
私のことをわかってくれるのはお父さんだけだ……。
里子はバッグを手に取り、まだ社内に残っている社員に、「お疲れさま」と声をかけると更衣室に入っていった。
会社を出て道玄坂を下りていく途中でふと里子は思いつき、スクランブル交差点でタクシーを拾った。
運転手に、「神楽坂へお願いします」と告げると、バッグからスマート・フォンを取り、家に電話を入れた。
呑み過ぎるなよ、と言う父親のその言葉にやさしさを感じながら、また一緒に呑もうねと胸の中で呟き電話を切った。
とつぜん吉野の店に行こうと思ったのは、倉田と口論になり、店を飛び出したあの日のことが気になってもいたし、ひとりで呑みに行っても吉野が相手になってくれると思ったからだ。
とは言え、それだけが理由ではない。
やはり、吉野から倉田のことを、何か聞き出せるかも知れないという思いがある。
自分では訊くことも問いただすこともできなかった答えを。
里子はそう思い、一度は自分を納得させはしたが、やはりその真実を知るのは恐い。
そしてその真実を倉田から聞かされることの恐れが、里子を萎縮させてしまうのだ。
疑念は消えることなく、倉田から電話が掛かってこないことで大きくなり、今交わした会話での倉田のよそよそしさと、里子の返答も待たずに電話を切ってしまったことで更に大きくなった。
今思えば、電話の会話の中でふと倉田が沈黙したとき、人の気配があったような気さえしてくる。
ほんとうのところはどうなんだろう……。
それを知りたいという気持ちと、知りたくないという気持ちが胸の中で共存して蠢いている。
ふたりはどうなっていくんだろうか、そんな思いが胸に湧く。
知らぬ間にふたりの歯車はずれ始めている。
もうあの頃にはもどれないのだろうか。
一度ずれてしまった歯車は、もうもとにはもどらないのだろうか。
もとはといえば自分が悪いのはわかっている。
だけど、わかっていても苦しいのは嫌だ。
他に好きな人がいるなら、はっきりとそういってくれればいい。
一度は別れの引導を渡したのだ。
もう一度つき合おうとしたのも、考え直してくれと泣きつかれたからだ。
また別れたからって悲しくなんかない。
悲しくなんか……。
強がってみても、胸の痛みは消えない。
こんな思いをするくらいなら、別れたほうがマシよ……。
その思いにスマート・フォンを見つめる。
倉田に掛け直そうとし、だが、思いに反してリダイヤルしようとする指先が止まった。
ぶつけようのない思いに涙が溢れてくる。
どうして泣くのよ……。
どうってことないじゃない、そう思おうとすればするほど、悲しみが胸の中で暴れまわる。
どんどん弱くなっていく自分が嫌になる。
「どうってことないわよ」
人の眼も気にせず口に出して言ってみると、少しだけ元気になった。
若者溢れる街の賑わいと、騒がしいほどのネオンの煌きは静かに覆う夜空を圧倒している。
そんな眠らない街をあとにし、里子は駅の構内に入っていった。
電話をすると言っておきながら、結局倉田からの電話がないまま三日が経った。
私からは絶対電話なんてしない……。
里子は自分に言い聞かせていたが、その思いもそろそろぐらつき始めている。
今日だって、何度もスマート・フォンに手が伸び、そのたびにそんな自分を諌(いさ)めた。
そうしながらも一日は過ぎていき、里子は無性に呑みに行きたくなって加代子を誘ったが、「用があるのよ」と軽くいなされ、残るはひとりしかいないと佐久間に視線を送ると、彼は里子と眼を合わせないように自分のデスクを離れていった。
え、何? どういうこと……?
まるで自分が取り残されたような気分だった。
里子はため息をつき、他に誰か誘おうかとも思ったが、仕方ない帰ろうかと思い直した。
家に帰り、父親と呑むのも悪くない。
それなら、酒の弱い男を送ったりしなくてすむ。
父親となら安心して心置きなく酔うこともできる。
今日は愚痴をいっぱい聞いてもらおう。
泣いたっていい。
父親だけは、どんなことがあっても味方になってくれる。
私のことをわかってくれるのはお父さんだけだ……。
里子はバッグを手に取り、まだ社内に残っている社員に、「お疲れさま」と声をかけると更衣室に入っていった。
会社を出て道玄坂を下りていく途中でふと里子は思いつき、スクランブル交差点でタクシーを拾った。
運転手に、「神楽坂へお願いします」と告げると、バッグからスマート・フォンを取り、家に電話を入れた。
呑み過ぎるなよ、と言う父親のその言葉にやさしさを感じながら、また一緒に呑もうねと胸の中で呟き電話を切った。
とつぜん吉野の店に行こうと思ったのは、倉田と口論になり、店を飛び出したあの日のことが気になってもいたし、ひとりで呑みに行っても吉野が相手になってくれると思ったからだ。
とは言え、それだけが理由ではない。
やはり、吉野から倉田のことを、何か聞き出せるかも知れないという思いがある。
自分では訊くことも問いただすこともできなかった答えを。
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