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【第25話】
しおりを挟む遠藤に連れられてきた店は、道玄坂を上がってすぐを、左手の路地に入ったところにある小さな居酒屋だった。
渋谷で働く里子だが、その店には一度も入ったことがなく、その存在さえ知らなかった。
六人掛けのカウンターと、テーブル席が四つしかないこぢんまりとしたその店は、居酒屋というより小料理屋といった感じだった。
里子は、カウンターの上に並べられている煮物の匂いに空腹を覚えた。
ふたりは一番奥のテーブルに坐った。
すぐにつき出しとおしぼりが運ばれてきて、里子は、生ビールに肉じゃがと豚の角煮、そして鰈のから揚げに大根サラダを注文した。
それに反して、遠藤は壜ビールと枝豆だけだった。
「食べないの?」
里子は遠藤を見た。
「オレ、飯食ったからさ」
「あ、そう……」
遠藤のことを何も考えず、自分の食べたいものを勝手に注文したことが恥ずかしくて、
「でも、少しは食べてね。私ひとりじゃ食べ切れないから」
里子は言った。
けれど、実際に注文の品がテーブルに並ぶと、箸をつけたのは里子だけだった。
そのあいだに、世間話を交わしながら里子は生ビールを呑んだあと、レモン、サワーを二杯呑み、遠藤も里子に合わせて同じものをやはり二杯呑んだ。
「あのコ、好きなの?」
酔いも廻ってきたところで、里子は本題にはいった。
「やっぱりそれか」
遠藤は口端を吊り上げ、煙草を咥(くわ)えた。
「あたり前でしょ? あんなシーン見ちゃったんだから。玲子の友だちとして見逃せないわ」
「あの人に、話すつもりかよ」
「話によってはね」
「さっきは、あの人には話さないって言っただろう?」
「さっきはさっきよ。それに、玲子は怒らないんでしょ?」
「自分の言ったことに、責任はないのかよ」
「ないわ」
里子ははっきりと言った。
遠藤は、オーバーに天を仰いだ。
「でも、あのコとの関係を問いただしたりするつもりはないわ。わかりきってることを訊きたくもないし。知りたいのは、あのコのことが好きかどうかってこと。それと、玲子への気持ち」
煙草を唇の端に咥えている遠藤は、無言のまましばらくテーブルの上に眼をやっていたが、里子にその眼を向けると、
「あのコのことは、好きだよ」
そう言った。
「そう……。じゃあ、玲子のことはどうなの?」
「好きだよ」
何の迷いもなく遠藤は言った。
「ずいぶん簡単に言うのね。だけど、ふたりとも好きなんて、おかしいわ」
「好きなんだから仕方ないだろ」
「それじゃすまないでしょ? 玲子にも、あのコにも」
「ひとりを選ぶなんてできないよ」
「それって、ふたりとも傷つけることになるのよ」
「そうかも知れないけど、だけど、どうして好きになるのはひとりじゃなきゃいけないんだよ。オレは、ふたりを平等に好きなのに、それがなぜいけないんだ。ひとりを好きになるのが常識だからか?」
「常識とかじゃなくて。それは理性の問題よ。人間は動物じゃないんだから」
「理性? ふざけんなよ。オタクは、理性で人を好きになるのか? 人を好きになるのは、本能じゃないのかよ」
「……………」
里子は言葉を返せなかった。
遠藤の言う通りだ。
人を好きになるのは理性じゃない。
本能。
ほんとうの自分の心。
私はどうなんだろう……。
ふと、そんなことを考えた。
私は、本能で孝紀を好きなんだろうか……。
美都子が言った母親の言葉のように、自分の中に欠けてるものがあるとするなら、その本能の部分なのかも知れない。
だけど……。
それだけじゃないということも感じている。
本能だけでは人は暴走するだけだ。
その思いに、里子は口を開いた。
「本能だけじゃ、人は幸せになれないわ。それだけじゃ、人を傷つけるだけよ。最後には自分も傷つくことになる。そして何も残らない」
里子の言葉に、今度は遠藤が口を閉じて、荒々しく煙草を消した。
グラスを呷(あお)る。
その手に苛立ちが見えた。
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