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【第14話】
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神楽坂には、倉田の友人が経営しているショット・バーがある。
里子も倉田に連れられ、なんどか顔を出している。
タクシーを外堀通りで降りると、ふたりは坂を登った。
「お、孝紀、久しぶりじゃないか。里子ちゃんも、元気だった?」
店に入ると、倉田の友人でありマスターの吉野が、笑顔で迎えてくれた。
倉田も里子も、二ヵ月ぶりだった。
八人掛けのカウンターとボックス席が三つしかないその店は、吉野が大学を卒業したあと、バーテンダーの仕事に就き、二年前にオープンさせた店だ。
倉田は、大学を出てバーテンダーの道へと進んだ吉野のことが、始めは理解できなかった。
だが、店のオーナーとなり、頑張っている吉野の姿を見て、今では尊敬さえしている。
カウンターには、カップルが一組とOLのふたり組が坐っている。
いつもはカウンターに坐るふたりだが、今日はボックス席にした。
店内には、ジョン・コルトレーンの「In A Sentimental Mood」が静かに響き、適度に落とされた照明が雰囲気を高めている。
吉野はジャズが好きで、自分でもサックスを吹き、バンドまで組んでいる。休みの日にはスタジオを借りて練習をし、月に一度はライヴハウスで演奏をするほど本格的だった。
倉田に連れられ、里子は一度そのライヴに行ったことがあったが、あまりの素晴らしさに魅了されて鳥肌が立った。
「ジャズは、耳で聴くんじゃないんだ。身体で感じるものなんだよ」
初めてこの店に来たとき、吉野にそう聞かされた。
けれど、ふだんジャズを聴かない里子には、その意味がよく分からなかった。
それが吉野のライブを聴き、その響きに包まれたとき、彼が言っていたように里子は身体で感じていたのだった。
それ以来、里子はCDショップに行くと、知らず知らずのうちにジャズのコーナーに足が向くようになっていた。
吉野がカウンターの中でシェイカーをふっている。
その音が耳に心地いい。
バカルディの入ったカクテル・グラスを手にし、里子はかざしてみた。
淡い照明にカクテル・グラスが煌く。
透明感のあるその赤い液体は、まるでルビーのようだ。
吉野の創る幾種類ものカクテルは、美しく耀く液体の宝石といえた。
カクテル・グラスを口に運ぶ。
仄かに薫るライムが、口の中に広がっていく。
「美味しい」
心までが薫るようで、里子は気分がよかった。
「それで?」
バーボンのバレッツを口にし、倉田が訊いた。
「うん……」
里子は言いよどむ。
自分の思いを話すつもりでいたのに、倉田を前にすると切り出すことができない。
「どうしたの、何でも言えよ。オレたち結婚するんだからさ」
その結婚という言葉に、里子はわずかに眉根をよせて眼を伏せた。
それに倉田は敏感に反応し、
「まさか、結婚する気がなくなった、なんて言わないだろうな」
グラスを運ぼうとした手を止めた。
さすがに勘が鋭い。
「ね、どうなの、里子」
倉田の顔から笑みが消える。
「ううん、そんなんじゃないの……」
里子は伏せていた眼を倉田に向ける。
「結婚したくないとかじゃないんだけど……、ただ、結婚するには何かが欠けてるような気がして……。このまま結婚しちゃっていいのかなって……」
「それって、マリッジ・ブルーってヤツ?」
「玲子にもそう言われたけど、自分でもよく分からないの」
「わからないんだったら、考えるなよ。すべてが完璧なことなんてあり得ないんだし、それに、欠けてるものって、結婚してから埋めていくものなんじゃないのか」
諭すように倉田は言った。
「うん、そうだよね……」
里子はカクテル・グラスに眼を落とす。
「何だよ里子。らしくないよ、そんなことで悩むなんて。今まで通りでいいじゃないか。オレたち、うまくやってきただろ?」
そんなこと、で片づけてしまう倉田に憤(いきどお)りを覚えて、里子は顔を上げた。
その場を繕おうと笑みを浮かべている倉田の顔がある。
その笑みにも、さらに憤って、
「孝紀には、そんなことかも知れないけど、私にとっては、一生のことなのよ」
里子は立ち上がり、
「結婚を簡単に考えないで!」
そう言い放つと、「ちょっと待てよ」と止める倉田に構わず、店を出た。
里子も倉田に連れられ、なんどか顔を出している。
タクシーを外堀通りで降りると、ふたりは坂を登った。
「お、孝紀、久しぶりじゃないか。里子ちゃんも、元気だった?」
店に入ると、倉田の友人でありマスターの吉野が、笑顔で迎えてくれた。
倉田も里子も、二ヵ月ぶりだった。
八人掛けのカウンターとボックス席が三つしかないその店は、吉野が大学を卒業したあと、バーテンダーの仕事に就き、二年前にオープンさせた店だ。
倉田は、大学を出てバーテンダーの道へと進んだ吉野のことが、始めは理解できなかった。
だが、店のオーナーとなり、頑張っている吉野の姿を見て、今では尊敬さえしている。
カウンターには、カップルが一組とOLのふたり組が坐っている。
いつもはカウンターに坐るふたりだが、今日はボックス席にした。
店内には、ジョン・コルトレーンの「In A Sentimental Mood」が静かに響き、適度に落とされた照明が雰囲気を高めている。
吉野はジャズが好きで、自分でもサックスを吹き、バンドまで組んでいる。休みの日にはスタジオを借りて練習をし、月に一度はライヴハウスで演奏をするほど本格的だった。
倉田に連れられ、里子は一度そのライヴに行ったことがあったが、あまりの素晴らしさに魅了されて鳥肌が立った。
「ジャズは、耳で聴くんじゃないんだ。身体で感じるものなんだよ」
初めてこの店に来たとき、吉野にそう聞かされた。
けれど、ふだんジャズを聴かない里子には、その意味がよく分からなかった。
それが吉野のライブを聴き、その響きに包まれたとき、彼が言っていたように里子は身体で感じていたのだった。
それ以来、里子はCDショップに行くと、知らず知らずのうちにジャズのコーナーに足が向くようになっていた。
吉野がカウンターの中でシェイカーをふっている。
その音が耳に心地いい。
バカルディの入ったカクテル・グラスを手にし、里子はかざしてみた。
淡い照明にカクテル・グラスが煌く。
透明感のあるその赤い液体は、まるでルビーのようだ。
吉野の創る幾種類ものカクテルは、美しく耀く液体の宝石といえた。
カクテル・グラスを口に運ぶ。
仄かに薫るライムが、口の中に広がっていく。
「美味しい」
心までが薫るようで、里子は気分がよかった。
「それで?」
バーボンのバレッツを口にし、倉田が訊いた。
「うん……」
里子は言いよどむ。
自分の思いを話すつもりでいたのに、倉田を前にすると切り出すことができない。
「どうしたの、何でも言えよ。オレたち結婚するんだからさ」
その結婚という言葉に、里子はわずかに眉根をよせて眼を伏せた。
それに倉田は敏感に反応し、
「まさか、結婚する気がなくなった、なんて言わないだろうな」
グラスを運ぼうとした手を止めた。
さすがに勘が鋭い。
「ね、どうなの、里子」
倉田の顔から笑みが消える。
「ううん、そんなんじゃないの……」
里子は伏せていた眼を倉田に向ける。
「結婚したくないとかじゃないんだけど……、ただ、結婚するには何かが欠けてるような気がして……。このまま結婚しちゃっていいのかなって……」
「それって、マリッジ・ブルーってヤツ?」
「玲子にもそう言われたけど、自分でもよく分からないの」
「わからないんだったら、考えるなよ。すべてが完璧なことなんてあり得ないんだし、それに、欠けてるものって、結婚してから埋めていくものなんじゃないのか」
諭すように倉田は言った。
「うん、そうだよね……」
里子はカクテル・グラスに眼を落とす。
「何だよ里子。らしくないよ、そんなことで悩むなんて。今まで通りでいいじゃないか。オレたち、うまくやってきただろ?」
そんなこと、で片づけてしまう倉田に憤(いきどお)りを覚えて、里子は顔を上げた。
その場を繕おうと笑みを浮かべている倉田の顔がある。
その笑みにも、さらに憤って、
「孝紀には、そんなことかも知れないけど、私にとっては、一生のことなのよ」
里子は立ち上がり、
「結婚を簡単に考えないで!」
そう言い放つと、「ちょっと待てよ」と止める倉田に構わず、店を出た。
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