里子の恋愛

星 陽月

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【第8話】

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 宗太郎は、腕時計に眼をやった。
 早苗のアルバイトが終わるまであと30分。
 鼓動の激しさが痛みに変わる。
 早苗が帰った客の席を片づけ、宗太郎の横を通り過ぎた解き、うしろの席に坐っていた男が彼女に声をかけた。

「早苗ちゃん。今日さ、バイト終わったら六本木に行かない? 踊りに行こうよ」

 チャラチャラした物言いに、宗太郎はムッとした。
 その男は、この店の常連だった。
 前にも早苗を誘っていたことがある。
 そのときは確か、早苗は断っていたはずだ。

 お前みたいな男に、早苗ちゃんがついていくわけないだろう!

 宗太郎はまたも、胸の中で叫んだ。
 だが、そう思いながらも早苗の返答が気になり、宗太郎は背後にに神経を集中させた。

 断ってくれ。早苗ちゃん……。

 息苦しさに口が渇く。

「たまにはつき合ってよ」

 男は執拗に誘いかける。

 やめろッ!……。

 宗太郎は唇を噛む。

「いいですねェ、踊りに行くのも」

 早苗のその返答に宗太郎は愕然(がくぜん)とし、拳を握った。

「話わかるね、早苗ちゃん。 じゃあ、ソッコー、決まり!」

 男は浮かれた声を出した。

 ダメだ早苗ちゃん。そんな男の誘いに乗っちゃ、ダメだよ……。

「でも、ごめんなさい。今日は、家族で食事に行くことになってるの。だから、また今度誘ってください」

 その返答に、宗太郎はホッと胸を撫で下ろす思いだった。
 男は、何だよ、と落胆した声で席を立ち、

「今度は必ずだぜ」

 と店を出て行った。
 
 ざまーみろ。早苗ちゃんがお前についていくわけがないんだ……。

 宗太郎は胸の前で小さくガッツポーズをした。
 といって、歓んでばかりはいられない。
 自分はまだ、誘うことができずにいるのだ。
 その勇気を持てずに。
 早苗がうしろの席を片づけ始めた。
 すぐうしろに、すぐ傍に早苗がいる。
 今がチャンスだ。
 勇気をふり絞る。

 早苗ちゃん、僕と映画に行きませんか――

 だが、その言葉は、やはり胸の中で響いただけだった。
 そんな自分が情けない。

 くそッ!

 悔しさに、宗太郎は強く眼を瞑(つぶ)った。
 そのとき、耳元で声がした。

「野嶋さん」

 囁くようなその声に顔を向けると、早苗の顔がすぐ近くにあって宗太郎は驚いた。

「あ、はい……」

 思わずうろたえる。

「これから、お暇ですか?」
「え、えェ、暇ですけど……」
「だったら、どこか連れていってくれませんか?」

 早苗の言った言葉が信じられず、宗太郎は狼狽(ろうばい)し、ただ、早苗の顔を見つめた。

「無理なら言いんです。ごめんなさい」

 宗太郎の狼狽した態度を誤解して、早苗は言った。

「いえ、そそ、そんなことはないです。無理なんてこと、ないですよ」

 さらに宗太郎は狼狽して言った。

「よかった」

 早苗はホッとしたように笑顔になった。
 笑ったときにできるえくぼが、とても可愛くて眩しかった。

「でも、あの人に誘われたとき、今日は家族と食事だって……」
「あれは嘘です。断る口実。あの人、しつこく誘ってくるんだけど、悪い人じゃないから無下に断ることもできなくて」
「そうなんですか」
「そういうことです。じゃあ、店を出て右に行った角の煙草屋さんの前で待っててください。すぐ行きますから」

 早苗は片づけものをカウンターに運んでいった。
 宗太郎は、放心したように宙の一点を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
 世の中は何が起こるかわからない。

 神様はいるんだ……。

 そのときほど、強くそう感じたことはなかった。
 そしてその日から、宗太郎と早苗の交際が始まったのだった――
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