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【第1話】
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それまでの静けさを破り、けたたましく鳴り出した目覚まし時計に、野嶋里子は夢の中から強引に引きもどされた。
もう少し……。
それでも里子は、眼を閉じたまま手探りで目覚まし時計を止めると、そのまま力尽きたように再び夢の中へともどっていった。
しばらくして部屋のドアがノックされ、
「そろそろ起きないと遅刻するぞ」
父親の宗太郎にそう声をかけられたが、すでに夢の中へと逃避行中の里子に、その声が聞こえるわけもない。
だから、それから20分が過ぎた頃、パジャマ姿のままドタバタと2階から下りてきて、
「どうして起こしてくれなかったのォ。今日は朝のミーティングがあるのにィ」
そう言いながら里子は洗面台に行き、素早く歯を磨いて顔を洗うと、またドタバタと2階へ上がっていった。
「まったく……」
食卓に坐っていた宗太郎は、小鉢の納豆を掻き回しながら、首をふり、ため息をついた。
あれでよく会社が勤まるもんだな……。
そんなことを思っていると、服に着替え、簡単に化粧をすませた里子が慌しく階段を下りてきて、
「行ってきまーす」
と宗太郎に声をかけて玄関に向かった。
「ご飯は食べないのかァ」
宗太郎がそう言ったときには、里子はもう玄関から出ていった。
「まったく……」
おかげで最近では、その言葉が宗太郎の口癖になっている。
商社に勤めていた宗太郎は、3ヵ月前、定年まであと5年というときに解雇通達を受けた。
あまりにもとつぜんのことに、初めは憤りさえ覚え、だが、経験のない部署に転属させられ、この歳で地方の支社に転勤になるよりはましだと、それを受け入れた。
退職金も、定年のときに支給される額より20%ほどカットされていたが、それにも宗太郎は、「仕方ないさ」と自分を納得させたのだった。
退職後、幾つかの会社を廻ってはみたが、就職難のいま、宗太郎を受け入れてくれるところなどあるはずもなく、それでも、あと10年ある住宅ローンの残金を返済し、残りの退職金で、年金が下りるまでは細々と暮らしていくつもりでいる。
だが、何もせずにただ家にいるだけでは能がない、そう思った宗太郎は、学生のころ真似事程度に書いていた小説を今度は本格的に執筆し始めている。
あれじゃ、孝紀くんも大変だな……。
里子の婚約者である倉田孝紀のことを、ふと気にかけ、宗太郎はひとり朝食を食べ始めた。
その倉田と、里子は1ヵ月後に結婚式を挙げることになっている。
「結婚したい人がいるから」
今年の春先、とつぜんそう言って連れてきたのが倉田だった。
いつかはこういう日がくるとわかっていながら、いざ現実となると、それを認めたくないという思いが宗太郎の胸にこみ上げた。
それでも、それを顔に出すまいと倉田の前では平静を装い、だが、
「里子さんと結婚させてください」
その言葉を倉田が口にしたときには、それまで柔和に包みこんでいた顔が、一瞬ゆがんだ。
ふざけるな――
そう言ってやりたい衝動に駆られたが、それを何とか抑え、
「娘をお願いします」
父親としての威厳を保って言った。
その夜、里子が自室に入っていったあと、宗太郎はリビングでひとり、5年前に肝臓癌で亡くした妻の遺影を前に、焼酎の水割りを呑みながら里子のことを報告した。
今まで月になんどか家にきて、夕食を食べにきた倉田と里子のやり取りを見ていて、
尻に敷かれなければいいが……。
里子よりも却って倉田のことを心配し、だがその反面では、このふたりならいい家庭を築いていくだろう、などと思いながら見守っている。
朝食をすませた宗太郎は、食器を洗い、お茶を淹れるとリビングのソファに腰を下ろした。
窓から差しこむ陽光が、ソファを斜めに切っている。
激しく降り注いでいた夏の陽も、少しずつその力を弱めていた。
ソファの隅で寝ていた愛猫のとらの助が、宗太郎に気づいて身体を摺(すり)り寄せてきた。
喉をゴロゴロと鳴らしながら、2、3度摺り寄ると、とらの助はソファをトンと降りて窓際まで行き、片方の前脚で窓をこすり始めた。
外に出たい、という合図だ。
宗太郎は立ち上がり、
「車に気をつけるんだぞ」
窓を開け、そう声をかけると、とらの助はシッポの先を軽くふって庭先へと降りていった。
とらの助は、白と茶の二毛のオスだ。
宗太郎が会社を辞めてからしばらく経った、やはり朝食のあと、リビングでお茶を飲んでいたときに、庭先に入りこんできた突然の訪問者だった。
猫なんて珍しいな、そう思いながらも、すぐにいなくなるだろうと宗太郎は朝刊に眼を落としていた。
粗方読み終えた朝刊をテーブルの上に置き、ふと庭先に眼をやると、その猫は庭の真ん中に坐っている。
まだいたのか、そう思いながら宗太郎は窓辺に立ちって窓を開けた。
もう少し……。
それでも里子は、眼を閉じたまま手探りで目覚まし時計を止めると、そのまま力尽きたように再び夢の中へともどっていった。
しばらくして部屋のドアがノックされ、
「そろそろ起きないと遅刻するぞ」
父親の宗太郎にそう声をかけられたが、すでに夢の中へと逃避行中の里子に、その声が聞こえるわけもない。
だから、それから20分が過ぎた頃、パジャマ姿のままドタバタと2階から下りてきて、
「どうして起こしてくれなかったのォ。今日は朝のミーティングがあるのにィ」
そう言いながら里子は洗面台に行き、素早く歯を磨いて顔を洗うと、またドタバタと2階へ上がっていった。
「まったく……」
食卓に坐っていた宗太郎は、小鉢の納豆を掻き回しながら、首をふり、ため息をついた。
あれでよく会社が勤まるもんだな……。
そんなことを思っていると、服に着替え、簡単に化粧をすませた里子が慌しく階段を下りてきて、
「行ってきまーす」
と宗太郎に声をかけて玄関に向かった。
「ご飯は食べないのかァ」
宗太郎がそう言ったときには、里子はもう玄関から出ていった。
「まったく……」
おかげで最近では、その言葉が宗太郎の口癖になっている。
商社に勤めていた宗太郎は、3ヵ月前、定年まであと5年というときに解雇通達を受けた。
あまりにもとつぜんのことに、初めは憤りさえ覚え、だが、経験のない部署に転属させられ、この歳で地方の支社に転勤になるよりはましだと、それを受け入れた。
退職金も、定年のときに支給される額より20%ほどカットされていたが、それにも宗太郎は、「仕方ないさ」と自分を納得させたのだった。
退職後、幾つかの会社を廻ってはみたが、就職難のいま、宗太郎を受け入れてくれるところなどあるはずもなく、それでも、あと10年ある住宅ローンの残金を返済し、残りの退職金で、年金が下りるまでは細々と暮らしていくつもりでいる。
だが、何もせずにただ家にいるだけでは能がない、そう思った宗太郎は、学生のころ真似事程度に書いていた小説を今度は本格的に執筆し始めている。
あれじゃ、孝紀くんも大変だな……。
里子の婚約者である倉田孝紀のことを、ふと気にかけ、宗太郎はひとり朝食を食べ始めた。
その倉田と、里子は1ヵ月後に結婚式を挙げることになっている。
「結婚したい人がいるから」
今年の春先、とつぜんそう言って連れてきたのが倉田だった。
いつかはこういう日がくるとわかっていながら、いざ現実となると、それを認めたくないという思いが宗太郎の胸にこみ上げた。
それでも、それを顔に出すまいと倉田の前では平静を装い、だが、
「里子さんと結婚させてください」
その言葉を倉田が口にしたときには、それまで柔和に包みこんでいた顔が、一瞬ゆがんだ。
ふざけるな――
そう言ってやりたい衝動に駆られたが、それを何とか抑え、
「娘をお願いします」
父親としての威厳を保って言った。
その夜、里子が自室に入っていったあと、宗太郎はリビングでひとり、5年前に肝臓癌で亡くした妻の遺影を前に、焼酎の水割りを呑みながら里子のことを報告した。
今まで月になんどか家にきて、夕食を食べにきた倉田と里子のやり取りを見ていて、
尻に敷かれなければいいが……。
里子よりも却って倉田のことを心配し、だがその反面では、このふたりならいい家庭を築いていくだろう、などと思いながら見守っている。
朝食をすませた宗太郎は、食器を洗い、お茶を淹れるとリビングのソファに腰を下ろした。
窓から差しこむ陽光が、ソファを斜めに切っている。
激しく降り注いでいた夏の陽も、少しずつその力を弱めていた。
ソファの隅で寝ていた愛猫のとらの助が、宗太郎に気づいて身体を摺(すり)り寄せてきた。
喉をゴロゴロと鳴らしながら、2、3度摺り寄ると、とらの助はソファをトンと降りて窓際まで行き、片方の前脚で窓をこすり始めた。
外に出たい、という合図だ。
宗太郎は立ち上がり、
「車に気をつけるんだぞ」
窓を開け、そう声をかけると、とらの助はシッポの先を軽くふって庭先へと降りていった。
とらの助は、白と茶の二毛のオスだ。
宗太郎が会社を辞めてからしばらく経った、やはり朝食のあと、リビングでお茶を飲んでいたときに、庭先に入りこんできた突然の訪問者だった。
猫なんて珍しいな、そう思いながらも、すぐにいなくなるだろうと宗太郎は朝刊に眼を落としていた。
粗方読み終えた朝刊をテーブルの上に置き、ふと庭先に眼をやると、その猫は庭の真ん中に坐っている。
まだいたのか、そう思いながら宗太郎は窓辺に立ちって窓を開けた。
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