哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第43話】

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 どうすべきなんだろう……。

 妙子は、そのことを考えながら一睡もせずに朝を迎えた。
 考えつづけた末に、その日妙子は東京に帰ることにした。
 あまりに急だったので、晴代は驚いていたが、

「今度来たときは、もっとゆっくりしていってくださいね」

 そう言って見送りに出てくれた。
 小樽駅の改札まで送ってくれた恭子に、

「彼に会うわ」

 妙子は言った。

「それがいいわよ」

 恭子は微笑んでうなずき、改札を抜け、ふり返った妙子に小さくてをふった。
 妙子も手をふり返してホームへと向かった。
 列車を待っていると、たんぽぽの白い種子のようなものが漂っていることに気づいて、妙子は空を見上げた。
 昨日とは打って変わって、あの蒼い空は厚い雲に被われ、白い種子たちはあとからあとから舞い降りてくる。
 そのひとつが妙子の頬に触れ、そのとたんに雫に変わって滑り落ちた。

 雪だわ……。

 音もなく天空から舞い降りる雪は、まさに雲から届けられた白い種子たちだった。
 眼を閉じると、まるで羽毛に包まれたような暖かさを感じた。
 そんな中で妙子は、晃一に別れを告げることを決意した。
 羽田から真っ直ぐアパートに帰り着いた妙子は、リビング・ボードからスマート・フォンを取り出して電源を入れた。
 晃一の見舞いに行ったあの日、一度はもう会うまい、そう思っていただけに、声を聴くことも避けたかった。
だから電源を切り、リビング・ボードに入れたままにしておいたのだ。
 ディスプレイには着信メールがある表示があった。
 メールを見ると、晃一は三日前に退院し、しばらくは世田谷の上馬にある実家で養生をするということだった。
 そして最後に、電話がほしいと締め括ってあった。
 無事に退院したことを知ってホッとし、だがすぐに心は曇った。
 別れを告げるために、晃一と会わなければならない。
 それを現実にさせることを考えただけで、晃一に電話を掛けようとする指先が躊躇する。

 逃げちゃダメ、彼のためにも……。

 その思いを胸に、妙子は晃一へと電話を入れた。


「なんでそんなこと言うんだよ」

 待ち合わせをしたオープン・カフェで、晃一は注文した珈琲に口もつけず、語気を強めて妙子に言い返した。
 晃一の身体を気遣って、彼の実家に近い三軒茶屋で、ふたりは待ち合わせをしたのだった。

「オレの母親があんなこと言ったからって、オレたちには関係ないだろ?」
「そういうわけにはいかないわ」

 晃一の強い視線に耐え切れず、妙子は眼を伏せた。

「どうしてだよ」

「あたり前じゃない。広瀬くんに怪我を負わせたのよ……。あなたのお母さんのこと考えたら、このままつき合いつづけることなんてできないわよ」

 塞ぐように妙子は言った。

「オレを刺したのは先生じゃないじゃないか。それに、オレはこうして退院したんだし、あれは事故だったんだよ」
「それですむような問題じゃないわ。あなたを刺したのは、私の夫だったのよ」
「だとしても……」

 妙子から視線を外し、晃一はテーブルの上を睨みつけた。

「オレはどうしたらいいんだよ。先生と別れるなんて、オレには耐えられない……」

 奥歯を噛み締めると、妙子を見つめ直した。

「先生はどうなんだよ。オレと別れて、それでなんとも思わないのかよ」

 妙子は眼を伏せたまま黙っている。

「どうなんだよ。教えてくれよ、先生。先生はオレと別れて、それで平気なのかよ」

 晃一は声を荒げた。
 妙子は一度眼を瞑り、顔をあげて晃一を見据え、

「ええ、平気よ。これぐらいでうろたえるほど、私は子供じゃないわ」

 そう言い、だが、口の中には苦いものが広がり、胸を締めつけられる思いがした。
 その妙子の答えに、晃一の顔の表情が崩れるようにゆがんだ。

「本気なのか」

 力なく言うその瞳が揺れている。

「嘘だろ、先生。嘘だって言ってくれよ」
「ほんとうよ」

 追い討ちをかけるように妙子は言った。
 そう言うしかなかった。

「――そうか、わかった。先生は死んだダンナさんに遠慮して、オレと別れる気になったんだ。な、そうだろ?」

 それに答えず、妙子は往来する人の波に眼を投げた。

「それとも、オレとは遊びだったのかよ」

 その言葉にはさすがに胸が痛み、妙子は唇を固く結んだ。

「答えろよ。遊びでオレとつき合ったのかよ」
「どう思われても仕方ないわ。とにかく、広瀬くんとはもうつき合えない」

 胸の痛みをこらえ、妙子ははっきりとそう言った。
 晃一も妙子から視線を外してうつむいた。
 拳を握り締めた肩が震えている。
 怒りを必死に抑えこもうとしている。
 沈黙がふたりを切り裂く。
 しばらく黙りこんでいた晃一は、

「わかった」

 うつむいたまま立ち上がると、席を離れていった。
 去っていく晃一を見ようとせずに、妙子は眼を閉じた。

 これでいい……。

 妙子は自分にそう言い聞かせ、けれど、胸の痛みはさらに強さを増した。
 それはまるで、鋭い刃(やいば)で貫かれたようだった。
 いや、これは刃だ。
 妙子はそう思った。
 一度は自分へと向けてきた、夫のあの刃なのだ、と。
 それがいま、形を変えて胸を貫いてきたのだ。
 見えない刃となって。
 こうなることを夫が予期していたのかどうかはわからない。
 だがたとえそうでなくとも、夫は自分の死をもって妻をとりもどしたといえた。
 事実妙子は、もう人は愛さない、と心に決めたのだから。
 弱い女ではいけない。
 過去にふり回されず、強く生きていかなければならない。
 自分自身とは一生つき合っていかなければならないのだから。
 妙子は眼を開けた。

 哀しむのは、もうこれが最後だ……。

 哀しみは、もう、涙に変わることはなかった。
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