哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第39話】

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 和彦の死は、あまりにも壮絶で深い衝撃だった。
 あの鮮血の中で倒れていく夫の姿が、妙子の脳裡に焼きついて離れない。
 あのときの和彦は、まるで死にゆく姿を見せつけるように、喉元に当てた鋭利な刃を横に引いた。
 一度はその刃先を妻へ向け、ともに命を絶つつもりでいたのだろう。
 だが、その刃先は、妙子を庇(かば)った晃一の身体に吸いこまれた。
 晃一が崩れ落ちていったとき、妙子を刺し貫こうと思えばできたはずだった。
 それなのに、和彦は自分だけの死を選択した。
 それはなぜだったのか。
 きっと、自分の死を妙子の胸に刻みつけるためだったのかもしれない。
 そうすることで、和彦は妙子の中に生きつづけることを望んだ。
 最後に残した言葉のままに。
 その望みは充分に叶えられたと言える。
 妙子の身体を刺し貫くはずだった刃先は、和彦自身の命を絶つことで彼女の心に深く貫き、そして一生背負わなければならない十字架を与えたのだから。
 それによって妙子は、自分を苛みつづけるのだ。
 夫を死に追いやったのは自分なのだと。
 事実妙子は、警察で事情聴取を受けているあいだ、夫を殺したのは自分だと、泣きながら訴えつづけた。
 それでも唯一救いがあるとするなら、それは晃一が致命傷となるような傷を追わなかったことだった。
 警察署を出てすぐに妙子は晃一の運ばれた病院に向かい、看護師からそのことを聞いた。
 病室に入ると、ベッドの上の晃一は布団から手を出して軽くふった。
 妙子は薄い笑みで応えて、ベッド横の丸椅子に坐った。

「入院なんて、盲腸をやって以来だよ」

 晃一は笑った。

「ごめんなさい、私のせいでこんなことに」
「先生が悪いわけじゃないよ。それより、ダンナさんは大丈夫なの?」

 妙子は顔を伏せて眼を瞑り、首をふった。

「そう……」

 晃一は口を結ぶと窓際に眼を向けた。
 そのとき病室のドアが開き、花を挿した花瓶を手に、四十代半ばの女性が入ってきた。
 その女性には見覚えがある。
 そう、その女性は晃一の母親だった。
 妙子は立ち上がると頭を下げた。
 一瞬、驚いた顔を見せた母親は、すぐに平静な顔になり、

「矢上先生、息子が高校のときはお世話になりました」

 軽く頭を下げると、収納ボックスの上に花瓶を置き、

「なにやら、いまになってまた、息子がお世話になっていたみたいで」

 ふり返りざまに言ったその声にはトゲがあった。

「このたびのことは、言葉もありません。大変申しわけありませんでした」

 妙子は深く頭を下げた。

「謝られたからって、すむ問題ではありませんわね」

 静かな語調ではあったが、母親の眼の奥には怒りが満ちていた。

「はい、充分承知しております。この償いはさせていただくつもりです」
「償いですって? あなたはなにをなさったのかわかっているんですか。息子はあなたの、もと教え子じゃないですか。それをたぶらかすような真似をした挙句にこんな……。あなたのご主人に刺されるなんて、考えられますかこんなこと」
「やめろよ!」

 晃一が母親を制した。
 だが、母親は止まらない。

「いいえ、やめないわ。あなた、息子にもしものことがあったら、どうするつもりだったんですか。あなたみたいな人が、息子の担任だったなんて、考えるだけで気が変になりそうだわ」
「いいかげんにしろよ。先生だって被害者なんだ。それに、ダンナさんは亡くなったんだ」

 息子の言葉にやっと母親は口を噤(つぐ)み、妙子から視線を外して窓際に立った。
 窓から覗く中庭の樹々が、西陽に燃えている。
 母親はその光景をわずかに見つめてから眼を閉じ、

「帰ってください。そして、息子とはもうお会いにならないでください」

 背を向けたまま言った。

「なにを言い出すんだよ。オレと先生は――」
「わかりました」
 晃一の言葉を遮って、妙子は答えた。

「息子さんとは、もう会いません」

 その妙子に晃一は眼をやり、

「先生までなに言ってんだよ。やめてくれよ」

 半身を起こそうとし、傷口の痛みに顔をゆがめた。

「これで失礼します」

 母親の背に頭を下げ、妙子は晃一に視線を向けてからドアに向かった。

「先生、待ってよ!」

 起き上がろうとする晃一を、母親の手が制めた。

「先生ッ!」

 その声を背に受け止めながら、妙子は病室を出た。
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