哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第37話】

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 もう、なによ……。

 身体にかすかな昂ぶりがあっただけに、妙子は少しだけ不満を覚えた。
 浴室を出てきた晃一は、髪をタオルで拭いながら、「なにか食べに行こうよ」と言った。
 それに妙子は、うん、とうなずき、簡単に化粧を済ませて出かける用意をした。
 晃一は今日アルバイトが入っていて、食事がすんだらそのまま一度自分の部屋に帰るということだった。

「昨日、無理言って休ませてもらっちゃたし、今日は出ないといけないんだ」

 ほんとは今日も休みたいんだけど、そう言って笑うと晃一はジャンパーに袖を通した。
 舗道に出ると晃一が手を差し出してきて、妙子はそれに応えた。
 手をつなぐことをとても気恥ずかしく思いながらも、胸は少女のようにときめいていた。
 指と指をしっかりと組むそのつなぎ方は、心までつなぎ合っているように思える。
 こうしてるだけで何も恐くなかった。
 こうして彼にすべてを預けてれいればそれでいい。
 そう思えた。
 彼なら、どんなことがあってもこの手を離さず守ってくれる。
 きっと彼なら、どんなに深い心の傷も癒してくれる。
 そして、命を宿すことできないこの身をも、やさしく包みこんでくれる。
 妙子はつなぐ手に力をこめた。
 それに気づいて、晃一が微笑みを向けてくる。
 妙子も微笑みで返す。
 とても幸せだった。
 この幸せがつづくことを、ただ願うばかりだった。

「また、泊まりに来てもいいかな」

 唐突に晃一が訊いた。

「いいわよ、いつでも」

 妙子はそう答え、そして、

「もしよかったら、一緒に棲んじゃう?」

 冗談めかしに言った。
 晃一は不思議な顔で妙子を見た。

「嘘よ。冗談で言っただけ」

 自分でも、なぜそんなことを言い出したのか不思議だった。
 実家から近いアパートに、ふたりで棲むことなどできるわけがない。
 母親はまだしも、父親に知れたらそれこそただではすまないだろう。 
 夫との離婚が成立していないいま、それは道徳に反した行為であり、父親のもっとも嫌うことだ。
 ましてやその相手が十二歳も年下で、元教え子となれば、黙っているはずがない。
 父親が憤ることは容易に想像がつく。
 そんなことがわからない妙子ではないが、わかっていながら、晃一といたいという想いが、つい思いもよらない言葉へとつながってしまったのかも知れない。
 とはいえ、それ以前に晃一が一緒に暮すことを望まないだろう。
 妙子は苦笑すると、

「いま言ったことは忘れて」

 そうつけ加えた。
 だが、晃一から返ってきたのは、

「それもいいね」

 という言葉だった。
 今度は妙子が晃一を見つめた。

「だってさ、先生と暮らせたら、毎日先生の手料理が食べられるわけだし、それに、先生が部屋で待ってるなんて幸せだよ」
「でも、あの部屋じゃ、ふたりで棲むには狭いわ」

 晃一の気持ちをうれしく思いながらも、妙子はそう答えた。

「だったら、広い部屋に引っ越そうよ。部屋を借りるぐらいの貯金はあるしさ」
「ダメよ。そのお金は、ヨーロッパの建築を勉強に行くための資金でしょ? それを使うなんて絶対にダメ」
「一年ぐらい先に延ばしたっていいんだ。ヨーロッパは逃げるわけじゃないんだから」

 その言葉に妙子は足を止め、手を離した。

「ほんとに、そんなことを考えているの?」

 険しい眼を晃一に向ける。

「一度決めたことを、そんな簡単に先延ばしにしてもいいわけ?」

 そんな妙子を晃一は見つめた。

「そんなことしたら、一年経ってもまた先延ばしするようになるわ。きっとそうなる。それって、夢を諦めるのと同じことよ」

 晃一は視線を外し、

「夢を諦めたりなんかしないよ」

 と歩き出した。

「怒ったの?」

 晃一は答えず歩いていく。

「ごめん、私はただ……」

 妙子も歩き出す。

「わかってるよ。先生が言ったことは正しいんだ。オレは自分の甘さに腹が立ったんだ」

 晃一はふり返らずに言った。
 妙子はそれ以上何も言えずに、うしろを歩いた。
 無言のまま四つ角を通り過ぎたそのとき、妙子は背後に人の気配を感じてふり返った。
 そこには男の姿があり、妙子は驚愕のあまり怯むように後ずさりした。
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