哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第31話】

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 三日後――

 その日、家族を送り出した静江は朝食の後片づけをし、家の中を掃除した。
 ふだん滅多に掃除をしたことのないところまで、雑巾をあてた。
 掃除が終わると、寝室の押入れの奥から旅行カバンを取り出し、衣類を詰めこみ始めた。

 金井と一緒に行く――

 静江の頭の中には、それだけしかなかった。
 鏡台で化粧をし、服を着替え、いつもの香水をつけた。
 時計に眼をやり、時間を確認すると、旅行カバンとバッグを手にした。
 居間に足を踏み入れ、静寂の中に佇んだ。
 ゆっくりと居間の中を見回す。
 壁や天井や、柱や畳にも、過ごしてきた家族の営みが沁みついている。
 台所に立つ自分の姿や、食卓に坐る家族の姿が眼に浮かぶ。
 その幸福を棄てていくのだ。
 胸に痛みが走った。

「ごめんなさい……」

 小さく、そう呟くしかなかった。
 眼に浮かぶ光景と、胸の痛みをふり払うように、静江は居間を出た。
 玄関へと向かい、だが、静江の足は止まった。
 とつぜん涙が溢れた。

 私には、家族を棄てることなんてできやしない……。

 崩れるように、その場に坐りこんだ。
 溢れる涙を拭おうともせず、唇を噛み締め泣いた。
 しばらく泣きつづけて、涙が枯れても、静江は放心したように坐りつづけていた。
 時間だけが流れていく。
 残酷なほど静かに。

 まだ間に合う……。

 その思いは、頭の中で空回りするだけだった。
 どれほど坐りつづけていたのか、静江はやっと立ち上がり、寝室へと足を向けた。
 そのとき、電話が鳴った。
 静江は眼を閉じ、電話に出ようとしなかった。
 それが金井からの電話だとわかっていたから。
 鳴り響く電話の音が、静江の名を呼ぶ金井の声のようだった。
 静江は立ち尽くしたまま、その音を聴いていた。
 やがて、電話の音はふいに途切れ、その途切れたときのかすかな残響が、金井の最後の未練のように思えた。
 重い静寂が、静江を包みこんだ。

 さよなら……。

 胸の中で呟いたその言葉とともに、金井との関係は終わったのだった――

「離婚を考えたことより、一瞬でもお前たちを棄てようとしたんだから、私は母親失格だわ」

 悔いたように静江は言った。

「でも、棄てなかったじゃない」
「そうね。だけど、お父さんを裏切ったことには変わりはないわ。おまえには、浮気なんてできなかったって言ったけど、これも立派な浮気よね」
「浮気じゃないわ」
「え……」

 静江は娘の顔を見た。

「お母さんは、本気でその人を愛したの。でも、その愛よりも、家族への愛が強かった。そしてお父さんへの愛も。そうでしょ?」
「私は――」

 静江はうつむいた。

「おまえたちを棄てる勇気がなかっただけよ」
「それは違うわ。もしその人への想いが、私たちへの想いより強かったら、棄てることができたはずよ」
「――――」
「でも、お母さんは行かなかった。それが答えよ」
「……そうね」

 静江はぽつりと言った。
 雨は本降りになっている。
 それでも、秋の雨は静かだ。
 妙子はうつむいたままの母親を見つめた。
 その母の、隠しつづけてきた真実に女の姿を知った。
 家族のためだけに自分を捧げてきた生活の中で、子供たちは中学生になり、浮気はなくなったが、そのぶんを妻にではなく仕事に向ける夫に不満を覚え、ふと、自分の存在とは何なのか、そんなことを考え始めたときに届いたのが、同窓会の通知だった。
 そして、初恋の男との再会。
 その再会が、母親の忘れ去っていた女の部分に火を点けてしまった。
 一度燃え始めた炎は、男のもとへと足を運ばせた。
 男と逢えるそのときだけが、妻から、そして母親から女にもどれるひとときだった。
 そして、東京を離れていく男に一度はついて行こうと決意し、だが、母親は家族を棄てることができなかった。
 妙子はそれを、家族への愛が男へのものよりも強かったからと言ったが、母の真意まではわからない。
 だけど、それでいいと妙子は思った。
 いまはきっと、いい想い出となって母の心の中に、きれいなまま残っているのだろうから。
 妙子はとても清々しい思いだった。
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