哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第13話】

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「一日寝かせたカレーが、一番美味しい」

 妙子がそう言ったときだった。

「私の夫は浮気をしてるんです――」

 TVからそんな声が流れ出し、その言葉に、妙子は敏感に反応してTV画面を凝視した。
 その番組は、悩みを抱えた視聴者からの電話を受けつけ、司会者や出演者たちがその悩みを聞き、解決策をみつけていくというものだった。
 ふだんTVを観るよりも読書を楽しむ妙子には、そんな番組があることも知らなかった。
 夫から受けた裏切りと屈辱を話す相談者の言葉を聞いているうちに、その相談者がまるで自分の代弁者となって話しているような気がして、妙子は思わずTVを消していた。
 私にはもう関係のないことだ、そう思い、だが、そう思おうとすればするほど、「浮気」という言葉は呪文のように頭の中で反響する。
 妙子は一度眼を閉じてから、硝子戸の外へ顔を向けた。
 雨は尚も静かに、そして絹糸のように細く筋を引きながら降りつづけ、庭先を煙らせている。
 それとは逆に、妙子の心に降る雨は、刃となってその鋭利さで胸を切り裂いていた。

 もううんざりだ……。

 そんな思いに眼を閉じた。

「妙子」

 静江のその声は聴こえず、もう一度呼びかけられてやっと妙子は気づいて静江に顔を向けた。

「どうしたの、妙子」

 怪訝そうな顔をする静江に、

「ううん、なんでもない」

 妙子はそう答え、テーブルに置かれたカレーに眼をやり、

「お母さんのカレー、久しぶりだわ」

 その言葉と笑みで誤魔化した。
 静江は何かを言いかけたが、妙子が首をふって制した。
 微笑んだその眼に、深い愁いと疲労が翳っている。
 静江は妙子の気持ちをくみ取って口を噤(つぐ)んだ。

「美味しい。この味がどうしても真似できないのよね」

 懐かしい味に、妙子は胸が熱くなった。

「こんどこそ、マスターしなきゃ」

 泣き出しそうになるのをこらえようとそんなことを言い、だがそれ以上言葉をつなぐことができず、唇が震えた。
 涙が思いに反して溢れ、大粒のしずくとなって頬を伝い落ちる。

「お母さん、ごめん……」

 涙を見せまいとして妙子は首をねじり、立ち上がるとまた縁側に立った。
 いまにも崩れ落ちそうな細い肩が震えている。
 痛ましいその姿に、けれど、どう声をかけたらいいのかわからずに、静江はただ妙子の背を見つめているしかなかった。
 灯りを点けるほどではないが、居間は仄かな暗さに包まれ、晩秋の雨に相応しいひんやりとしたとした静けさが佇んでいる。
 そんな沈黙だけがときを刻む中、その静寂を切り裂いて電話が鳴り出した。
 妙子は鳴り響く電話へと一度ふり返り、立ち上がった静江に眼を向け、

「あの人だったら……」

 と首をふった。
 静江は妙子の眼を見つめ、こくりとうなずいた。
 夫の声は聴きたくなかった。
 離婚のことはきちんと話さなければならないのはわかっている。
 けれど、昨夜のことを考えれば、いまはそんな気になれない。
 どうせ夫は、昨夜の言いわけをするだけなのだ。
 庭先に視線をもどした妙子の眼には、もう涙は滲んでいなかった。
 静江は電話台へと歩みより、受話器を上げた。

「はい、瀬野ですが――あ、お父さん。どうしたんですか、こんな昼時に電話してくるなんて――」

 電話の相手が夫ではなく父親からだと知り、妙子はホッとした。
 安堵しながらその反面では、電話も掛けてこない夫のことを考えた。
 あんなところを見られて、電話を掛けにくいのだろう。
 いや、きっと夫は、あの女に引き止められるままホテルに泊まり、だから妻が実家に帰っていることなど知りもしないのだ。
 そしてそのまま会社に向かったのだろう。
 テーブルの上の離婚届のことも知らずに。
 それが夫なのだ。
 そう思い、だが、そんな夫になぜか、嫉妬や憤りも覚えず、心はさざ波のように静かだった。胸に巣食っていた痛みも嘘のように消えている。
 そんな心の変化が不思議だった。

 あの人とは、もう他人なのだ……。

 その思いも、いまは何の抵抗もなく感じている。
 まるで身体の自由を奪っていた縄が解けたようだった。
 あれほど思い悩んでいたというのに、こんなにもあっさりとしてしまうものなのだろうか。
 人はこんなにも簡単に変われるものなのだろうか。
 あれだけ流した涙はなんだったのだろう。
 自分がわからない。

 それでいいのよ――

 そんな声が聴こえる。

 考える必要なんてないのよ、もうなにも考えなくていいの――

 その声は心の奥底から聴こえてくる。

 これでいい……。

 妙子は自分でも胸の中で呟いた。
 もう耐えることも、悩むこともない。
 電話を切る音がして、妙子はふり返った。

「お父さん、『妙子は帰ってきたのか』だって。照れくさそうに言ってたわ。やっぱりうれしいのね。昨日だって、妙子が帰ってくるって話したら、口では、和彦くんと喧嘩でもしたのか、なんて心配してたけど、待ち遠しそうに落ち着かなくなっちゃって」

 そう言うと静江は、妙子の横に立った。
 雨があがっていた。

「あら、やんだわね」

 静かに言う静江の横顔を妙子は見つめ、そしてまた庭先に視線を戻した。

「お母さん」
「えッ?」
「私、ひとりでやっていけるかな」
「そうねえ……」

 静江は一度言葉を切り、そして、

「わからないわ。私は、ひとりで生きてきたことなんてないんだもの。お父さんがいて、おまえと隆弘がいて、それが私の人生だったから。だから、いいアドバイスなんてできないわ」

 そう答えた。

「反対したからって、自分の気持ち変えられないでしょ?」
「……そうね」
「だったらがんばりなさい。おまえの人生なんだから」
「うん」

 変に同情したりしない、母親の心遣いがありがたかった。

「お父さんは反対するわよね」
「そうね。お父さん難しい人だから、賛成はしないわね。でも大丈夫よ。口ではなんだかんだ言うだろうけど、娘が不幸なのを黙って見ていられるわけがないもの。それに、おまえがいい加減な気持ちで離婚を考えたりするような娘じゃないことぐらい、お父さんだってわかってるはずだから」
「だったらいいんだけど」
「反対しても、私が黙ってないわ。夫の裏切りが、どれだけ辛いものなのか、私にはわかるんだから」

 そう言って微笑したが、その眼は笑っていなかった。
 目尻に深い皺を刻み、わずかに細めた眼には、いままで見せたことのない女の嫉妬の色がふくんでいた。

 ほんとうにお父さんのこと許してないんだ……。

 母親の執念のようなものを妙子は見たような気がした。
 父の一度の過ちを許すことなく、そのあとの三十年近い結婚生活の中で、父にも、そして子供にも悟られることなく、母は嫉妬の感情を胸の淵に追いやり、隠しとおしてきたのだろう。
 嫉妬する以上に父を愛し、愛するがゆえに自分の思いを抑えてきた。
 けれどその思いは、追いやられた胸の淵で蒼白き炎となって燻りつづけていたにちがいない。
 妙子にはそう思えた。
 ふとそのとき、妙子の脳裡をよぎるものがあった。

 いつか私も浮気してやると思ってたわ――

 先刻の会話の中で、静江が言った言葉を思い出す。

 もしかして、お母さん……。

 脳裡によぎったものは、静江には密かに想いをよせた人がいたのではないか、という疑念めいたものだった。

 まさかよね……。

 妙子はすぐにその思いを払拭し、

「お母さん。雨もあがったことだし、夕飯の買い物でも行こうよ」

 明るい声を作って言った。

「そうしましょうか」

 それからふたりは、一時間ほどで家を出た。
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