哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第12話】

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「ほんとうにそれでいいの?」

 湯呑みを指先でなぞりながら静江は言った。
 妙子は伏せていた眼を母親へと向け、

「考えた末の結果だから」

 言うと口許に薄い笑みを浮かべた。

「そう……」

 昨日の電話の声からは想像がつかないほど、やつれた娘の顔を静江は見つめた。
 子供の頃から、何ごとにも愚痴を言ったりしない娘だった。
 辛いことや悩みがあってもそれを口にすることなく、すべて胸の中に秘めてしまう性格だった。
 それでも、楽しかったことやうれしかったことなどはよく話し、だからけして内向的なわけでもなかった。
 弟とも仲がよくて、どちらかといえば明朗活発で、それだけに友だちにも好かれた。
 静江の前でも、暗い顔を見せたことがない。
 何度か自室に閉じこもったことはあったが、部屋から出てきたときには、いつもと変わらない素振りで、

「なにかあったの?」

 静江が心配して訊いても、ううん、なんでもない、と笑って答えるだけだった。
 結婚してからも、ひとつぐらいは夫への不満はないのか、と思えるほど電話での声は明るく、結婚生活のことを語っていた。
 子供を死産したときでさえ、どんな慰めの言葉をかけたらいいのかわからぬまま病室のドアを開き、顔を覗かせた静江に、

「赤ちゃん、産まれたくなかったみたい」

 と微笑し、

「孫を抱くまでは長生きしてもらわないとね」

 そうも言い、逆に励ますほどだった。
 だが、もう子供が産めない身体になってしまったことを知ったときだけは、

「孫を抱かせてあげることができなくなちゃった。ごめんね」

 実家にもどってきたとき、そう言ってさすがに泣き崩れた。
 それは、妙子が初めて見せた姿だった。
 その後は、実家に掛けてくる電話も減りはしたが、すっかり妙子のもとの声にもどり、変わりはないことを伝えてきていた。
 だから昨日の電話でも、何日か実家にもどると言っただけだったし、静江からすればちょっと喧嘩でもしたのだろう、くらいにしか思っていなかった。
 それがいま、眼の前にいる娘はまるで別人のようになり、その肌は艶を失くし、そのそげた頬の翳りに心の傷の深さが滲んでいる。
 そんな妙子にどんな言葉をかけたらいいのかわからず、静江は視線を外した。

「お母さん……」

 ふと、妙子が囁くように言った。
 静江は改めて妙子に顔を向けた。

「お母さんは、お父さんと結婚して幸せだった?」

 唐突に訊く妙子に、

「そうねえ」

 静江はそう言い、ほんの少しの間を空けてから口を開いた。

「幸せか不幸かって考えたら、幸せだったと思うわ。家族に恵まれたもの。でもね。むかしはいまと違って、幸せだの不幸だのって言ってられなかったの。辛いことだってたくさんあったし、思い出せばきりがないわ。お義母さんとは反りが合わなかったし、なんど実家に帰ろうと思ったことか。それでも、たった一度だけ帰ったことがあったわ。お義母さんの仕打ちに、どうしても耐えられなくなってね。だけど、おまえはもう瀬野家の人間なのよって母に叱られて、玄関から上げてももらえずにそのまま帰されたわ」

 おばあちゃんは恐い人だったから、そう言って苦笑し、静江は話をつづけた。

「お父さんはお父さんで、妙子が産まれてからは、つき合いだって言って帰るのが遅くなるようになるし、私が不満を洩らせば、うるさい、のひとことで片づけちゃうしね。でも、そんなお父さんでもやさしいところがあって、私が高熱を出したとき、もう夜中だっていうのに、病院まで私をおぶってくれたことがあったの。すごく恥ずかしかったけど、お父さんの背中の暖かさが胸の中まで沁みてきて、自然に涙が出てきたわ……。いま思えば、お前と隆弘を育てながら色んなことがあって、辛かったことや楽しかったこともふくめて、幸せだったと思うのよ」

 でも、ほんとうはどうなんだろう、最後にそんなことを言って静江は笑った。

「お父さんのこと愛してるのね」
「そんな大袈裟なことじゃないわ」

 そう言いながらも、かすかに照れた顔をした静江を、妙子は可愛いなと思った。

 私にはこんな表情できないな……。

 素直に自分の表情を作れる静江が、羨ましいとさえ思えた。
 夫に対して、一度でも素直な自分を見せたことがあっただろうか。
 いやそれどころか、私は心から夫を愛していたのだろうか。
 夫を理解していたのだろうか。
 そんな自分への疑問がよぎる。
 夫に尽くしてきたことも、子供を産むことのできなくなったことに、ただ引け目を感じていたからではないのか。
 夫もそれを感じ取って、気持ちが離れ、他の女へと走っていってしまったのではないのか。
 
 まただ……。
 
 妙子は、いつの間にか自分を非難していることに気づき、居間を出て縁側に立った。
 いままでも、こうして自分を責めて耐えてきた。
 もう、同じことをくり返したくない。
 
 もう終わったことよ……。
 
 そう自分に言い聞かせ、庭先に眼をやった。
 朝早くから降り出した細い雨が、庭の色彩を奪い、静かに降りつづいている。
 その雨は、妙子の心にも細い雨を降らせていた。

「お父さん、浮気したことある?」

 庭先に眼を向けたまま妙子は訊いた。
 静江は、一度妙子の背に視線を向け、そしてすぐにその視線を外し、

「あるわよ」

 ぽつりと言った。
 その言葉に、妙子はふり返った。
 静江は、静かに話し始めた。

「おまえが三歳になったころだったわ。そのころ、お父さんの帰りが毎日のように深夜を回るようになって、背広に香水のきつい匂いをさせてたこともあったけど、どうせスナックやバーの女につけられたんだって、それぐらいにしか思ってなかったの。浮気の相手だったら、そんな馬鹿な真似はしないだろうって。だから、浮気をしてるなんて思ってもみなかった。それが、女から電話が掛かってきたのよ。お父さんと別れてくれって。その人逃げも隠れもしないって、名前を名乗ったわ。加藤富士子。それがその人の名前。名前だけはいまでも忘れないのよ」

 静江はそこで言葉を切り、そしてつづけた。

「電話を切ってから、しばらくその場を動けなかった。なにがなんだかわからなくなって、頭の中が真っ白なまま夕飯の支度を始めてた。そんなだから、野菜を切っていて指を包丁で切っちゃって。それで初めて現実が押しよせてきて、指先から流れる血を見てたら、それまで一度も感じたことのない憎悪に似た感情が、胸の中にふつふつとあふれてきたわ。大丈夫? って心配するお義母さんの声もどこか遠くで聴こえてた」
「それでどうしたの?」

 妙子は居間にもどり、坐り直した。

「どうしたなんてことはなにもないの。ただ、そのまま泣き崩れるわけにもいかないし、気づいたらサンダルを履いて、家を飛び出してた。でも、飛び出したのはいいけれど、どこにも行くあてがなくて、近所をただ歩いてるだけだった。そのうち、少しずつ落ち着いてきて、私なにをしてるんだろうって思ったら、自然に脚が家に向かってたわ……。お父さんの浮気をどう受け止めていいかわからなかった。ううん、そんなんじゃなくて、自分の中に起きた感情も、それがなにを意味してるのかもわからなかったの。精神的に幼かったのね。そんな時代だった。結局、お父さんにもお義母さんにも、なにも話すことができなかった。でもね、それから何日か経って、お父さんが謝ってきたの。きっと、あの女が私に電話を掛けたことを話したのね。お父さん真剣な顔で、『女とは別れた。オレのいっときの過ちだったんだ。この償いは一生かけてもする。だから許してくれ』って。頭を下げるお父さん見てたら、なぜか可笑しくなっちゃって」

 静江はそこでくすっと笑った。

「それで、お父さんのこと許したんだ」
「ううん、許してなんかなかったわ。口にはしなかったけど。お父さんは許してもらったと思ってるわね、きっと。でも私は、胸の中でいつか私も浮気してやるって思ってた」
「ほんとに?」
「でも、できないわよ、そんなこと。そう思うことで、自分の傷を癒そうとしただけなのよ」
「強いな、お母さんは」
「そんなんじゃないわ」

 静江はリモコンでTVのスイッチを入れ、

「お昼、カレーでいいでしょ。昨日作ったのが、まだたくさん残ってるのよ」

 言って立ち上がり、台所に向かった。
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