哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第4話】

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 銀座の中央通りを歩く人たちの足取りは、どこかゆったりとしている。
 その中を妙子はひとり歩いていた。
 銀座に来たのは、夫と式を挙げる前に、ふたりで引き出物を買いに来た以来だ。
 ふと、小走りに駆けてくる女の子に眼が止まった。
 まだ二歳ぐらいだろうか、髪を三つ編みにしたその子は、危なっかしい足取りで妙子の横を駆け抜け、だがすぐにその足を止め、

「ママァ!」

 くるりとふり返り、母親の姿を認めるとまた駆け出していった。
 まだ20代半ばの夫婦だろう。
 駆けよる娘を父親が抱き上げ、母親は娘の頬をなでながら微笑みをたたえている。
 そこには、幸せに包まれた家族の絵があった。
 妙子には味あうことのできない「幸福」という残酷な絵。
 現実から逃れようとここまで来たというのに、現実は執拗に妙子を追いつめ胸を切り裂く。
 その痛みに眼を閉じて、足早にその場から離れた。
 デパートを廻っているうちに、気持ちも落ち着いてきた。
 腕時計を見ると、午後二時を過ぎている。
 妙子は硝子張りのカフェ・レストランに入り、通りに面した席に坐ると、トマト・ソースのパスタを頼み、遅い昼食を摂った。
 食後の珈琲を飲みながら、通りを行き交う人の流れをぼんやりと眺めた。
 そうしていると心が安らいでいくのがわかる。
 こうして外に出て、ひとりの時間を過ごすのはずいぶん久しぶりのことだ。
 結婚してからは一度としてなかったような気がする。
 自分のことなど二の次だった。
 それだけ夫に尽くしてきたのだ。

 それなのに……。

 夫には女がいる――
 そう感じ始めたのは半年ほど前だった。
 その少し前から、夫の帰りが深夜を過ぎることが多くなり、帰宅後、夫の脱ぎ捨てた上着から、香水の匂いがするようにもなった。
 なんども問いただそうとし、けれど、その真実を知ることが恐くて、それを確かめることができなかった。
 それだけではない。ここ最近になってからは、夫の帰宅が遅くなる日に限って、家の電話に無言電話が掛かってくるようになった。
 無言だけを伝えてくる受話器を握り締めながら、妙子は女の気配を感じ取った。
 その沈黙は、聴こえるはずのない女の笑い声となって妙子の耳を突き刺すのだった。

 今日だって、女のところに決まってる……。

 こみ上げる悔しさに息苦しさを覚え、失望と虚しさが入り乱れて、それは涙となって結晶し、瞼に滲む。
 悲観的になっていく自分が情けなくて、その思いをふり払うように立ち上がり店を出た。
 人の波はいっそう増している。
 妙子は雑踏の中に足を踏み出した。
 一度見て廻ったデパートには入る気にはなれず、とはいえこのまま帰る気にもなれず、どうしようかと思案した。
 そのとき、

「先生!」

 背後でそんな声が聴こえたが、妙子は気にも留めずに歩いた。

「瀬野先生!」

 声が近くなり、旧姓を呼ばれたということもあって、妙子はふり返った。

「やっぱり瀬野先生だ」

 よく陽に灼けた青年の顔がそこにある。

 妙子は訝るようにその青年の顔を見つめ、後ずさりした。

「そんな顔しないでよ。キャッチセールスじゃないんだからさ。なんだよ、元教え子の顔も忘れたの?」

 そう言われ、妙子はやっとその青年のことを思い出した。

「広瀬くん?……」

 それでも半信半疑な面持ちで訊いた。

「そうだよ。思い出すの遅いよ、先生。こんないい男の顔、忘れないでよね」
「だって、ずいぶん雰囲気が変わったんだもの」

 妙子は笑顔になった。
 その青年、広瀬晃一は、妙子が教師を辞める前に担任していた三年のクラスの生徒だった。
 妙子が結婚をし、他の生徒が新しい姓に慣れても、彼だけはなぜか「瀬野先生」と呼びつづけた。
 その理由を訊いても、「別に理由なんてないよ」と童顔に白い歯を覗かせて、それ以上は答えようとはしなかった。
 ごく普通の生徒ではあったが、それでも冗談を言ったりして他の生徒を笑わせ、人気はあったほうだった。
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