哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第3話】

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 妙子が懐妊し半年が経とうとしたころ、彼女の腹部を、突然抉られるような痛みが襲いかかった。
 週末には実家にもどろうとしていた矢先のことだった。
 あまりの激痛に坐っていたソファから動けず、それでも何とか立ち上がり、サイド・ボードの上に置いてあるスマート・フォンに手を伸ばし、救急車を呼んだところでその場に倒れこんだ。
 出血しているのがわかった。
 血がとまらないことが恐かった。

 がんばって、お願いがんばって……。

 痛みに耐えながら、小さな命に訴えかけた。
 なんどもなんどもその言葉をくり返しながら。
 病院から連絡を受けた夫はすぐに駆けつけたが、小さな命の火はすでに消えてしまっていた。死産だった。

「残念だけど、君が無事でよかった」

 哀しみを隠し切れない微笑を浮かべている夫の顔を、麻酔が切れず、薄い意識の中で妙子は見つめていた。

「子供はまた授かるさ」

 少しでも元気づけようと夫が言う。
 だが、妙子はもう、子供を産めない身体になっていた。
 夫はそのことを担当医から聞かされていたが、妙子には、精神的に落ち着くまでは話さないようにと言われていたのだった。
 そして妙子は退院し、数ヵ月が過ぎても、夫はそのことを口にすることはなかった。
 表面的には、入院前と何ら変わらない日々がつづいた、そんなある日のことだった。
 夕食後、妙子が食器を片づけていると家の電話が鳴った。
 出てみると義母からで、妙子は月並みな挨拶をすると夫に替わった。
 キッチンからでは何を話しているのかわからなかったが、夫は面倒げに、ああ、とか、うん、と言葉少なに答えていた。
 別に聞き耳を立てるつもりはなかった。だが、

「仕方ないだろ。アイツがもう子供を産めなくなったことは」

 怒ったように語気を強めた夫の言葉を、妙子の耳は拾った。
 思わず大きな声を出してしまったことに気づいた夫は、妙子に視線を走らせ、手を止めた彼女の眼とぶつかった。
 夫はすぐに視線をそらし、

「また、こっちから掛けるよ」

 慌てて受話器を置き、ソファに項垂れるように坐った。

「どういうこと?」

 夫に歩みよって妙子は訊いた。

「聞いたままさ」

 夫は妙子を見ようとしない。

「ちゃんと説明してよ」
「説明することなんてなにもないよ。お前はただ、もう子供が産めないってだけさ」

 夫は立ち上がり、妙子の横をすり抜けて玄関に向かった。

「ちょっと待ってよ」

 妙子も玄関へ行く。


「どこに行くのよ、逃げるの!」

 その声をふり切るように、夫はドアを開けて出ていった。
 しばらく妙子はその場に立ち尽くし、そしてリビングに戻るとソファに坐った。
 零時を過ぎても夫は帰らなかった。
 それでも妙子はソファで待ちつづけ、だが、いつの間にか眠ってしまい、ふと眼を醒ますと、カーテンの隙間から、まだ薄く不透明な朝の白さがこぼれていた。
 寝室を覗いたが夫の姿はなく、まだ暗いその部屋は、夜の色を残していた。
 その日、真実を確かめるために、妙子は入院していた病院へと足を運び、担当医だった医師の言葉を、眼を閉じて聞いた。
 幾度となくこみ上げてくる涙をこらえて。
 真実はあまりにも非常で残酷だった。
 女としての歓びと、母として我が子に与えたであろう愛をも奪い取られたのだ。
 妙子は放心したように自宅に帰りつき、ソファに腰を沈めたとたん、こらえていた涙があふれた。
 数ヵ月という短い月日ではあったが、妙子の身体の中で小さな命の火を灯しながら、この世へとその命を継ぐことができず、それでもわずかな日々、母としての至福のときを与えてくれた我が子に初めて流す涙だった。

 ごめんなさい……。

 唇が震え、嗚咽が喉を突く。
 ひとりが耐えられなくて、夫の会社へと電話を入れ、病院ですべてを聞いたと告げた。

「そうか……」

 夫はわずかに沈黙してから、

「いま、来客中なんだ。話は帰ってからにしてくれ」

 そう言うと、一方的に電話を切った。
 断続音だけが虚しく耳に響く。
 そんなとき、いちばん支えになってほしい夫は、いたわりの言葉ひとつかけてもくれず、それどころか、まるで妙子を避けるように電話を切ってしまった。
 昨夜帰らなかった謝罪など、あるはずもない。
 力が抜けていくようだった。
 涙がまたあふれてくる。
 何かが崩れていくような恐怖が、妙子を包みこむ。
 それ以来、夫との関係は急速に冷えていったのだった――
 
 食卓には、手をつけてない朝食が置かれたままになっている。
 妙子はふらりと立ち上がり、冷めた朝食をキッチンのごみ箱に棄て、流しに食器を重ねた。
 そのとき、ふいに妙子の中で何かが弾けた。
 何もかもが馬鹿らしくなった。その思いに触発され、突き上げる衝動のまま、手にしていた皿を床に叩きつけていた。
 幾つもの破片が飛び散り、そのひとかけらが妙子の脚に細い筋を引き、血を滲ませた。
 その足を庇おうともせず、妙子は散った破片を眺めていた。
 この割れた破片が、夫との生活なのだ。

 もうもどすことのできない無残な夫婦の縮図――
 
 妙子は屈みこみ、破片をひとつずつ手のひらに載せながら、それでもまだ、破片だけでも残っているのなら、いつかまた、幸せだったころにもどれる気がした。
 だが、すぐにその思いを払拭するように妙子は首をふった。
 
 信じていれば、幸せは取りもどせる――
 
 なんどもそう思いつづけてきた。
 だからこそ、会話もなく蔑むような夫の視線にも微笑みを浮かべて応えてきた。
 けれど、もう限界だった。
 耐えつづけることに疲れてしまった。

 もどれないのならそれでいい……。

 そんな投げやりな思いがこみ上げる。破片を載せた手が震える。
 胸の中で弾けたものは、耐えつづけ抑えつづけていた、妻としての、そして女としてのプライドだった。
 それがいま、妙子の中で出口を捜して暴れている。
 いまはただ、一枚の紙切れだけの渇いたつながりしかない関係は、夫婦という泉を満たすことはない。
 夫という歯車を失くした生活は未来を刻みはしないのだ。
 ならばすべてを棄てて、どこか知らない地へと行き、命の息吹を宿すことも叶わないのなら、いっそのことこの身をも棄て去ってしまえばいい。
 妙子はまた首をふった。
 
 馬鹿なことを……。

 自分をいさめ、だが、そこまで追いつめられている現実に、妙子は最後の決意を固めようとしていた。
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