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【第49話】
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病院を出ると、不謹慎だと口にしたことが嘘のように、祖母はどこか明るい顔で「どこへ行こうか」などと思案しながらゆかりの手を引き、タクシー乗り場に向かった。
ゆかりは、どこかへ行きたいという気分ではなかった。
できるだけ父のそばにいたかった。
父の死顔を見ることはできないにしても、ただそのかたわらにいるだけでよかった。
そうして記憶の底に埋もれてしまった父との想い出を少しずつたどりたかった。
父はどんな人だったのか。
やさしい人だったのか。
よく遊んでくれたのか。
そんなことをゆっくりと思い出したかった。
どうして、父に対してそんな想いが芽生えたのか。
それはゆかりにもわからない。
ゆかりの中にある父の記憶はおぼろげだった。
一緒にすごしていた日々も、別れた日の朝のことも、まるで夢のように不確かなのである。
ふつうなら、しっかりと心に刻みこまれていて当然の記憶であろう。
だがゆかりは、父の顔さえもはっきりと思いだすことができない。
離れて暮らした五年という月日が、そうさせてしまったのだろうか。
いや、そうではない。
ゆかりは、父との想い出だけでなく、父の存在をも心の奥にしまいこんでしまったのだ。
祖父母に引き取られ、ゆかりはその日から父に会えるときを待った。
だが父は、最初のころは掛けてくれていた電話もしだいに掛けてこなくなり、そして一度として会いにも来なかった。
そんな父を恨むよりも、私は嫌われてしまったのだと、私はもう必要のないこどもなのだと自分に言い聞かせて、ゆかりは哀しみに暮れながら、いつからかその哀しみに耐えるより、父の存在を忘れてしまうことを無意識のうちに選択したのだった。
それは自分を守るための防御策だった。
それでなくとも、母を喪った哀しみをも抱えていたのである。
そうでもしなければ、哀しみと孤独の中で、小さな胸は潰れてしまったことだろう。
それだけに、とつぜん父の死を知らされ、白いシーツに被われた遺体を眼にしても、心はそれを受け入れられずに動揺するばかりだった。
心は、父を拒絶していたのだ。
けれど、そうでありながら、こうして病院をあとにしてみると、なぜか父のそばにいたいという想いが胸を突くのであった。
タクシーはすぐにやってきた。祖母は運転手に「浅草寺へおねがいします」と行き先を告げると、
「まずは浅草寺でお参りをして、パパのことをおねがいしようね」
ゆかりに向かってそう言った。
ゆかりはこくりとうなずき返し、そのとき、胸に弾くような感覚を覚えた。
浅草寺と聞いて、心の奥底で眠っていた記憶が花びらを開くように甦ってきたのだった。
脳裡にまず浮かんだのは赤い大きな鳥居だった。
その両脇には恐い顔をして立っている風神雷神の像があり、門に提げられているのは、雷門の文字が書かれたこれまた大きな赤提灯があった。
それは、ゆかりがもうじき三歳になるころのことだ。
ゆかりは父に肩車をしてもらっていて、となりには、やさしい微笑みで見上げる母の姿もあった。
門をくぐると仲見世通りがつづき、その両側にはたくさんの出店が並んでいた。
父の肩から見下ろしていると、通りを歩く人々が小人のように思えた。
父と母は仲よく語り合いながら歩いていく。
仲見世通りを過ぎると、左手には五重塔が蒼い空の中に映え、さらに行くと浅草寺の境内が開けた。
正面にはとても立派な本堂が厳かに佇んでいた。
記憶はそこで途切れる。
それでも、境内中央の香台で焚かれていた線香の香りの記憶だけが、霊安室の線香の香りと重なって鼻腔の奥に漂っていた。
雷門の前でタクシーを降り、大きな鳥居の前に立ってみると、甦った記憶の光景がそこにあった。
門をくぐるとさらに記憶とおなじ光景が広がった。
あのときのままだ、ゆかりにはそう思えた。
ただ違うのは、父の肩から見下ろした光景を、いまは自分の目線で見ているということだった。
それに気づいたそのとき、とつぜん眼の前の光景が揺れた。予期せぬ哀しみが、ふいに涙となって眼にあふれたのだ。
記憶が甦ったことで、心は父の死を受け止めはじめていた。
ゆかりは唇を硬く結び、哀しくなっていくその想いをふり払うように、
「おばあちゃん、早くお参りしよう」
祖母の手を引いた。
蒼空の中に建つ五重の塔も、境内に佇む本堂も、そこに吹く爽やかな風さえも、あのときのままだった。
参拝をすませて仲見世通りをもどりながら、祖母が欲しいものはないかと訊いてきたが、ゆかりは首をふった。
いまは父と母との想い出に触れているだけでよかった。
門を出て、ゆかりはふいに立ち止まった。
どうしたのかと、祖母がふり返る。
「おばあちゃん。ゆかり、行きたいところがあるの」
こみ上げる想いに、ゆかりは言った。
「行きたいところ?」
「うん。この近くに、遊園地があるの」
それは新たに甦った記憶だった。
「遊園地? この近くにあるのかい?」
「うん。パパとママと三人で一緒に行ったの」
「そうなの」
祖母はゆかりの想いを察して、門の前で客待ちをする人力車の車夫に訊ねた。
ゆかりは、どこかへ行きたいという気分ではなかった。
できるだけ父のそばにいたかった。
父の死顔を見ることはできないにしても、ただそのかたわらにいるだけでよかった。
そうして記憶の底に埋もれてしまった父との想い出を少しずつたどりたかった。
父はどんな人だったのか。
やさしい人だったのか。
よく遊んでくれたのか。
そんなことをゆっくりと思い出したかった。
どうして、父に対してそんな想いが芽生えたのか。
それはゆかりにもわからない。
ゆかりの中にある父の記憶はおぼろげだった。
一緒にすごしていた日々も、別れた日の朝のことも、まるで夢のように不確かなのである。
ふつうなら、しっかりと心に刻みこまれていて当然の記憶であろう。
だがゆかりは、父の顔さえもはっきりと思いだすことができない。
離れて暮らした五年という月日が、そうさせてしまったのだろうか。
いや、そうではない。
ゆかりは、父との想い出だけでなく、父の存在をも心の奥にしまいこんでしまったのだ。
祖父母に引き取られ、ゆかりはその日から父に会えるときを待った。
だが父は、最初のころは掛けてくれていた電話もしだいに掛けてこなくなり、そして一度として会いにも来なかった。
そんな父を恨むよりも、私は嫌われてしまったのだと、私はもう必要のないこどもなのだと自分に言い聞かせて、ゆかりは哀しみに暮れながら、いつからかその哀しみに耐えるより、父の存在を忘れてしまうことを無意識のうちに選択したのだった。
それは自分を守るための防御策だった。
それでなくとも、母を喪った哀しみをも抱えていたのである。
そうでもしなければ、哀しみと孤独の中で、小さな胸は潰れてしまったことだろう。
それだけに、とつぜん父の死を知らされ、白いシーツに被われた遺体を眼にしても、心はそれを受け入れられずに動揺するばかりだった。
心は、父を拒絶していたのだ。
けれど、そうでありながら、こうして病院をあとにしてみると、なぜか父のそばにいたいという想いが胸を突くのであった。
タクシーはすぐにやってきた。祖母は運転手に「浅草寺へおねがいします」と行き先を告げると、
「まずは浅草寺でお参りをして、パパのことをおねがいしようね」
ゆかりに向かってそう言った。
ゆかりはこくりとうなずき返し、そのとき、胸に弾くような感覚を覚えた。
浅草寺と聞いて、心の奥底で眠っていた記憶が花びらを開くように甦ってきたのだった。
脳裡にまず浮かんだのは赤い大きな鳥居だった。
その両脇には恐い顔をして立っている風神雷神の像があり、門に提げられているのは、雷門の文字が書かれたこれまた大きな赤提灯があった。
それは、ゆかりがもうじき三歳になるころのことだ。
ゆかりは父に肩車をしてもらっていて、となりには、やさしい微笑みで見上げる母の姿もあった。
門をくぐると仲見世通りがつづき、その両側にはたくさんの出店が並んでいた。
父の肩から見下ろしていると、通りを歩く人々が小人のように思えた。
父と母は仲よく語り合いながら歩いていく。
仲見世通りを過ぎると、左手には五重塔が蒼い空の中に映え、さらに行くと浅草寺の境内が開けた。
正面にはとても立派な本堂が厳かに佇んでいた。
記憶はそこで途切れる。
それでも、境内中央の香台で焚かれていた線香の香りの記憶だけが、霊安室の線香の香りと重なって鼻腔の奥に漂っていた。
雷門の前でタクシーを降り、大きな鳥居の前に立ってみると、甦った記憶の光景がそこにあった。
門をくぐるとさらに記憶とおなじ光景が広がった。
あのときのままだ、ゆかりにはそう思えた。
ただ違うのは、父の肩から見下ろした光景を、いまは自分の目線で見ているということだった。
それに気づいたそのとき、とつぜん眼の前の光景が揺れた。予期せぬ哀しみが、ふいに涙となって眼にあふれたのだ。
記憶が甦ったことで、心は父の死を受け止めはじめていた。
ゆかりは唇を硬く結び、哀しくなっていくその想いをふり払うように、
「おばあちゃん、早くお参りしよう」
祖母の手を引いた。
蒼空の中に建つ五重の塔も、境内に佇む本堂も、そこに吹く爽やかな風さえも、あのときのままだった。
参拝をすませて仲見世通りをもどりながら、祖母が欲しいものはないかと訊いてきたが、ゆかりは首をふった。
いまは父と母との想い出に触れているだけでよかった。
門を出て、ゆかりはふいに立ち止まった。
どうしたのかと、祖母がふり返る。
「おばあちゃん。ゆかり、行きたいところがあるの」
こみ上げる想いに、ゆかりは言った。
「行きたいところ?」
「うん。この近くに、遊園地があるの」
それは新たに甦った記憶だった。
「遊園地? この近くにあるのかい?」
「うん。パパとママと三人で一緒に行ったの」
「そうなの」
祖母はゆかりの想いを察して、門の前で客待ちをする人力車の車夫に訊ねた。
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