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【第7話】

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 そのクラクションの音に佐代子は顔を向けた。
 目の前には、走り来るトラックが迫ってきていた。

 と――

 重い衝撃のあと、一瞬にして佐代子を闇が襲った。
 トラックは急ブレーキをかけたがすでに遅く、彼女は3メートルほど弾き飛ばされていた。
 佐代子にすれば、自分に何が起きたのかさえわからなかったであろう。
 娘のことを思う間もなかった。
 弾き飛ばされ、アスファルトに叩きつけられた彼女は、苦痛も未練も残さずこの世を去った。
 夫のために、そして娘のためにすべてを捧げて佐代子は死んだ。
 それは自己犠牲と言ってもいいだろう。
 通夜が執り行われた日、高木は何もできないまま酒ばかりを飲んでいた。
 あまりにもとつぜんに妻を喪ったのである。
 それも当然であった。
 通夜も深夜を過ぎて、真っ白な布団に眠る妻の横でひとり酒を飲んでいた高木は、ふらりと立ち上がった。
 居間を出ようとしたとたんに足元がふらつきよろめいた。
 壁に手をやって身体を支え、そのときになって、ずいぶん酔っているのがわかった。

「クソッ!」

 言いようのない怒りがこみ上げて、高木は壁を殴りつけて居間を出た。
 怒りは酔った頭に粘りついた。
 壁を伝いつつ、ふらつく足で高木は寝室のドアを開けた。
 廊下の灯りが寝室の闇を裂いて、小さな布団に眠る娘の顔を照らした。
 高木は静かに娘に近づいていき、枕元に坐った。
 そっと顔を覗きこむ。
 かすかな寝息を立てて、娘はすやすやと眠っている。
 愛らしいその寝顔を見ていると、高木は胸が締めつけられた。

「ゆかり……」

 いとおしさが、これほど辛く哀しいものだとは思わなかった。
 娘のことを思うと、身を切り裂かれんばかりだった。
 まだこんなにも小さく、いまがいちばん母親を必要とするときであるのに、その母親を喪ってしまったのだ。
 その要因を作ってしまったのはだれでもない、この自分だ。
 ギャンブルに狂い、家族を顧みなかったその結果が、娘から母親を奪うことになってしまったのだ。

 俺はなにをしてたんだ……。

 どんなに自分を責めても足りはしない。

 どうして、こんなことになる前に……。

 どんなに悔いても、悔いたりるということはない。
 それでも、自分を責めるしかなかった。
 悔いて悔いて悔い入るしかなかった。

「ごめんな。パパは、おまえのママを殺しちゃったんだ。許してくれよな、ゆかり」

 涙が瞬く間に溢れ出た。
 酒の力で追いやっていた涙が、とめどなくあふれ、頬をつたい落ちた。
 娘のやわらかい髪に触れる。
 この髪に、もう母親が触れることはない。
 娘が求める手の先に、母親の温もりはもうないのだ。

「ごめんな、ゆかり。ほんとにごめんな……」

 小さな手を取り、両手で包みこむ。

 俺はなんて馬鹿なんだ……。
 俺は最低の男だ……。
 許してくれ、佐代子……。

 高木は奥歯を噛みしめ、声を押し殺して泣いた。
 言いようのない怒りは、自分への憤りだった。
 その憤りが、激しいうねりとなって身体の中で暴れまわっている。

『正哉はいま、自分自身と戦っているのよ』

 妻の言った言葉が甦る。

 違う、違うよ、佐代子……。
 俺は戦ってなんかいなかったよ……。
 おまえに甘えていただけなんだ……。
 おまえが苦労していたことだって、見て見ぬふりをして、俺は……。

 会社が倒産したことは、災難としかいいようがない。
 就職先が見つからないことに、追いつめられていたのも事実だ。
 それによって高木は自暴自棄に陥り、酒とギャンブルに逃げて、妻の苦労を知りながら顧みなかった。
 そして妻は死んだ。

『自分を陥れて再生しようとしているの。だから私は、正哉が再生するまでがんばるわ』

 どうしてそんなことが言えるのだろう。
 俺は、逃げていただけなのに……。

 情けない自分。
 不甲斐ない自分。
 そんな自分が妻を殺したのだ。
 どんなときも笑顔を絶やさず、愚痴ひとつ言わない妻だった。
 どんなに辛くともどんなに苦しくとも、泣き言を言わない妻だった。
 そんな妻に、何ひとつ応えることがでなかった。

 クソッ、この俺は、この俺は……。
 ちくしょう……。
 どうして俺じゃなくて、おまえなんだ……。
 死ねばよかったのは、この俺じゃねえか……。

 高木は悶え苦しみ、喘ぐように泣いた。
 そのとき、手のひらに包み込んでいたゆかりの手がぴくりと動いた。
 知らぬ間に強く握り締めていたのだろう。
 ゆかりが眼を醒ました。
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