46 / 70
チャプター【045】
しおりを挟む
声が近づいてくる。
蝶子は足音を立てずに進んでいく。
左側、硬化ガラスを背にして、何も展示物のないディスプレイ・スタンドがあった。
そのディスプレイ・スタンドの正面には、男子トイレがある。
滴り落ちている血は、その男子トイレの中へとつづいていた。
くぐもった声も、やはりその中から聴こえてくる。
蝶子は銃を構えたまま、トイレへと入っていった。
奥の壁。
そこにはやはり、異形人の姿があった。
犬の異形人だ。蝶子は、すぐさま銃口を向けた。
だが――
(違う!)
その犬の異形人は、蝶子が捜し求めてきた、腹に傷のあるあの犬男ではなかった。
それどころか、その犬の異形人は子供だった。
人間の年齢で言えば、10歳ほどであろうか。
少年である。
少年の犬の毛は、剛毛ではなく白くやわらかな羽毛のような毛質だった。
身体つきもしなやかで、どちらかといえば華奢と言ったほうがよかった。
しかし、少年とは言えども異形人である。
警戒心を解くわけにはいかない。
犬の少年は、壁に背をあずけて、足を前に投げ出して坐りこんでいる。
左腕が肩口から失くなっていた。
その傷口から大量の血が流れ出し、肩口と胸に生えた白い毛を赤く染めていた。
息が荒い。
過呼吸の状態だった。
犬の少年は左手で傷口を押さえ、眼をきつく閉じて、痛みを堪えている。
それでも、時おり、「痛いよ、痛いよ」と言う声が洩れる。
その声は、人間の少年が発するものとなんら変わらない。
傷の痛みに意識がいっているせいか、蝶子の存在にはまだ気づいていなかった。
蝶子は、前へ一歩踏み出す。
そこでやっと気配に気づいて、犬の少年は身体をびくんとさせて顔を上げた。
幼さの残る犬の貌が、とたんに険しいものに変わった。
ぐるる……
犬の少年は、威嚇するように唸った。
それでも、やはり傷の痛みには勝てないのか、すぐに貌をゆがめて、
「痛いよ、痛いよ……おねえちゃん、助けて……」
消え入りそうな声で、助けを求めてきた。
蝶子は、出血量を眼で確かめた。
穿いているズボンの左腰から尻までが血に染まり、床にまで血は流れ出している。
その出血量からすると、もう助かる見込みはない。
持ってあと2時間といったところだろう。
いっそ、犬の少年の額か胸に、銃弾を撃ちこんだほうがいいのではないか。
そんな思いが、蝶子の胸をかすめる。
苦痛に苦悶しながら死を待つよりは、そのほうがよほど楽に違いない。
それが、この犬の少年に対する慈悲というものではないのか。
蝶子は、トリガーにかかった指に、力をこめようとする。
そんな蝶子を、犬の少年は苦痛に貌をゆがめながら見つめている。
「ぼくを撃つの?」
ふいに犬の少年が言った。
その貌からは、苦痛のゆがみが消えている。
「いいよ。ぼくを殺して」
恐怖の怯えもなく、穏やかに微笑さえ浮かべているように見える。
蝶子はトリガーから指を外した。
撃つことができなかった。
犬の少年の微笑に、心が萎えてしまった。
「どうせぼくは死ぬんでしょ? だったら、おねえちゃんのその銃で殺してよ。ぼくは、こんな身体になってから、たくさんの人たちを襲って食べてきたんだ。自分では止められなくて、どうしようもできなくて……、ぼくは、いっぱい罪を犯したんだ。だから、おねがい。ぼくを殺して」
犬の少年は涙を流していた。
蝶子はたまらなくなった。
いっぱい罪を犯したと、人間であればまだ少年の、その口から言わせてしまうこの現実が悲しくてならなかった。
どうして、こんな少年が、異形人にならなければならなかったのか。
神が存在するなら、なぜに、こんな悲惨な現状を見棄てておくのか。
これが神の意思だと言うのなら、そんな神などいらない。
そんな思いだった。
蝶子は、銃をホルスターに収めると、犬の少年のもとへ近寄っていった。
蝶子は足音を立てずに進んでいく。
左側、硬化ガラスを背にして、何も展示物のないディスプレイ・スタンドがあった。
そのディスプレイ・スタンドの正面には、男子トイレがある。
滴り落ちている血は、その男子トイレの中へとつづいていた。
くぐもった声も、やはりその中から聴こえてくる。
蝶子は銃を構えたまま、トイレへと入っていった。
奥の壁。
そこにはやはり、異形人の姿があった。
犬の異形人だ。蝶子は、すぐさま銃口を向けた。
だが――
(違う!)
その犬の異形人は、蝶子が捜し求めてきた、腹に傷のあるあの犬男ではなかった。
それどころか、その犬の異形人は子供だった。
人間の年齢で言えば、10歳ほどであろうか。
少年である。
少年の犬の毛は、剛毛ではなく白くやわらかな羽毛のような毛質だった。
身体つきもしなやかで、どちらかといえば華奢と言ったほうがよかった。
しかし、少年とは言えども異形人である。
警戒心を解くわけにはいかない。
犬の少年は、壁に背をあずけて、足を前に投げ出して坐りこんでいる。
左腕が肩口から失くなっていた。
その傷口から大量の血が流れ出し、肩口と胸に生えた白い毛を赤く染めていた。
息が荒い。
過呼吸の状態だった。
犬の少年は左手で傷口を押さえ、眼をきつく閉じて、痛みを堪えている。
それでも、時おり、「痛いよ、痛いよ」と言う声が洩れる。
その声は、人間の少年が発するものとなんら変わらない。
傷の痛みに意識がいっているせいか、蝶子の存在にはまだ気づいていなかった。
蝶子は、前へ一歩踏み出す。
そこでやっと気配に気づいて、犬の少年は身体をびくんとさせて顔を上げた。
幼さの残る犬の貌が、とたんに険しいものに変わった。
ぐるる……
犬の少年は、威嚇するように唸った。
それでも、やはり傷の痛みには勝てないのか、すぐに貌をゆがめて、
「痛いよ、痛いよ……おねえちゃん、助けて……」
消え入りそうな声で、助けを求めてきた。
蝶子は、出血量を眼で確かめた。
穿いているズボンの左腰から尻までが血に染まり、床にまで血は流れ出している。
その出血量からすると、もう助かる見込みはない。
持ってあと2時間といったところだろう。
いっそ、犬の少年の額か胸に、銃弾を撃ちこんだほうがいいのではないか。
そんな思いが、蝶子の胸をかすめる。
苦痛に苦悶しながら死を待つよりは、そのほうがよほど楽に違いない。
それが、この犬の少年に対する慈悲というものではないのか。
蝶子は、トリガーにかかった指に、力をこめようとする。
そんな蝶子を、犬の少年は苦痛に貌をゆがめながら見つめている。
「ぼくを撃つの?」
ふいに犬の少年が言った。
その貌からは、苦痛のゆがみが消えている。
「いいよ。ぼくを殺して」
恐怖の怯えもなく、穏やかに微笑さえ浮かべているように見える。
蝶子はトリガーから指を外した。
撃つことができなかった。
犬の少年の微笑に、心が萎えてしまった。
「どうせぼくは死ぬんでしょ? だったら、おねえちゃんのその銃で殺してよ。ぼくは、こんな身体になってから、たくさんの人たちを襲って食べてきたんだ。自分では止められなくて、どうしようもできなくて……、ぼくは、いっぱい罪を犯したんだ。だから、おねがい。ぼくを殺して」
犬の少年は涙を流していた。
蝶子はたまらなくなった。
いっぱい罪を犯したと、人間であればまだ少年の、その口から言わせてしまうこの現実が悲しくてならなかった。
どうして、こんな少年が、異形人にならなければならなかったのか。
神が存在するなら、なぜに、こんな悲惨な現状を見棄てておくのか。
これが神の意思だと言うのなら、そんな神などいらない。
そんな思いだった。
蝶子は、銃をホルスターに収めると、犬の少年のもとへ近寄っていった。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
【完結済み】VRゲームで遊んでいたら、謎の微笑み冒険者に捕獲されましたがイロイロおかしいです。<長編>
BBやっこ
SF
会社に、VRゲーム休があってゲームをしていた私。
自身の店でエンチャント付き魔道具の売れ行きもなかなか好調で。なかなか充実しているゲームライフ。
招待イベで魔術士として、冒険者の仕事を受けていた。『ミッションは王族を守れ』
同僚も招待され、大規模なイベントとなっていた。ランダムで配置された場所で敵を倒すお仕事だったのだが?
電脳神、カプセル。精神を異世界へ送るって映画の話ですか?!
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
ゴースト
ニタマゴ
SF
ある人は言った「人類に共通の敵ができた時、人類今までにない奇跡を作り上げるでしょう」
そして、それは事実となった。
2027ユーラシア大陸、シベリア北部、後にゴーストと呼ばれるようになった化け物が襲ってきた。
そこから人類が下した決断、人類史上最大で最悪の戦争『ゴーストWar』幕を開けた。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
INNER NAUTS(インナーノーツ) 〜精神と異界の航海者〜
SunYoh
SF
ーー22世紀半ばーー
魂の源とされる精神世界「インナースペース」……その次元から無尽蔵のエネルギーを得ることを可能にした代償に、さまざまな災害や心身への未知の脅威が発生していた。
「インナーノーツ」は、時空を超越する船<アマテラス>を駆り、脅威の解消に「インナースペース」へ挑む。
<第一章 「誘い」>
粗筋
余剰次元活動艇<アマテラス>の最終試験となった有人起動試験は、原因不明のトラブルに見舞われ、中断を余儀なくされたが、同じ頃、「インナーノーツ」が所属する研究機関で保護していた少女「亜夢」にもまた異変が起こっていた……5年もの間、眠り続けていた彼女の深層無意識の中で何かが目覚めようとしている。
「インナースペース」のエネルギーを解放する特異な能力を秘めた亜夢の目覚めは、即ち、「インナースペース」のみならず、物質世界である「現象界(この世)」にも甚大な被害をもたらす可能性がある。
ーー亜夢が目覚める前に、この脅威を解消するーー
「インナーノーツ」は、この使命を胸に<アマテラス>を駆り、未知なる世界「インナースペース」へと旅立つ!
そこで彼らを待ち受けていたものとは……
※この物語はフィクションです。実際の国や団体などとは関係ありません。
※SFジャンルですが殆ど空想科学です。
※セルフレイティングに関して、若干抵触する可能性がある表現が含まれます。
※「小説家になろう」、「ノベルアップ+」でも連載中
※スピリチュアル系の内容を含みますが、特定の宗教団体等とは一切関係無く、布教、勧誘等を目的とした作品ではありません。
MMS ~メタル・モンキー・サーガ~
千両文士
SF
エネルギー問題、環境問題、経済格差、疫病、収まらぬ紛争に戦争、少子高齢化・・・人類が直面するありとあらゆる問題を科学の力で解決すべく世界政府が協力して始まった『プロジェクト・エデン』
洋上に建造された大型研究施設人工島『エデン』に招致された若き大天才学者ミクラ・フトウは自身のサポートメカとしてその人格と知能を完全電子化複製した人工知能『ミクラ・ブレイン』を建造。
その迅速で的確な技術開発力と問題解決能力で矢継ぎ早に改善されていく世界で人類はバラ色の未来が確約されていた・・・はずだった。
突如人類に牙を剥き、暴走したミクラ・ブレインによる『人類救済計画』。
その指揮下で人類を滅ぼさんとする軍事戦闘用アンドロイドと直属配下の上位管理者アンドロイド6体を倒すべく人工島エデンに乗り込むのは・・・宿命に導かれた天才学者ミクラ・フトウの愛娘にしてレジスタンス軍特殊エージェント科学者、サン・フトウ博士とその相棒の戦闘用人型アンドロイドのモンキーマンであった!!
機械と人間のSF西遊記、ここに開幕!!
負けヒロインはくじけない
石田空
ファンタジー
気付けば「私」は、伝奇系ギャルゲー『破滅の恋獄』のルート選択後の負けヒロイン雪消みもざに転生していることに気付いた。
メインヒロインのために主人公とメインヒロイン以外が全員不幸になるメリバエンドに突入し、異形の血による先祖返りたちの暴走によりデッドオアアライブの町と化した地方都市。
そこで異形の血を引いているために、いつ暴走してしまうかわからない恐怖と共に、先祖返りたちと戦うこととなった負けヒロインたち。
陰陽寮より町殲滅のために寄越された陰陽師たち。
異形の血の暴走を止める方法は、陰陽師との契約して人間に戻る道を完全に断つか、陰陽師から体液を分け与えられるかしかない。
みもざは桜子と主従契約を交わし、互いに同じ人を好きだった痛みと、残されてしまった痛みを分かち合っていく。
pixivにて先行公開しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる