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チャプター【031】

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「そうですか。それならばいいんですが、異形人への変異の過程にあるあの子に、まさか心を動かされてしまったのではないかと心配になりましてね」

 蝶子の眼を斜(はず)から見据え、市川は言った。

「そんな心配は無用だ。そんなことより、まだ答えを聞いていないぞ」

 心の奥まで覗きこむような市川のその視線を嫌って、蝶子は横を向いた。

「答え、とは?」
「まだ、とぼけるつもりか。その化獣のことだよ。おまえも見ただろう。2頭の先祖返りが融合したのを」
「はい」
「あんなことは、いままでになかったことだ」
「確かに」
「それだけじゃない。化獣の眼が、一瞬だが赤い光を帯びた」
「そこまでは確認していません」
「そうか。――だがあれは、執行人が特質能力を発現するときに起こる現象とおなじように思えた。現にあの化獣は、私が特質能力で放った弾丸を牙で受け止めた。それを考えても、いままでの先祖返りとは違っている」
「異形人や先祖返りが現れるようになってから5年。ポール・シフトによってなぜ彼らに遺伝子の暴走が起きたのか、それはいまだ解明されていません。それだけに、彼らの遺伝子が、さらなる暴走を引き起こさないとは限らない」
「というと、やつらの変異はまだつづいているというのか」
「断定はできませんがね」
「――――」

 蝶子は眉根を寄せた。
 それだけでは、納得できないものがある。

「とは言いましても、なにも恐れることはありませんよ。あなたは見事に、新たに変異した先祖返りを駆除したのですからね」
「恐れてなんかいない。しかし……」
「しかし、なんです?」
「いや、いい。気にするな」
「気にするなと言われれば、なおさら気にかかるものですよ」
「市川。おまえ、くどいぞ。そういうところが、おまえの悪い癖だ。そんなことでは、命を縮めかねないと思え」
「これはこれは。あなたから助言をいただくとは、思ってもみませんでした。良きアドバイスとして、心に留めておきましょう」
「おしゃべりは、もういい。頼んでおいたものはどこだ」
「おっと、僕としたことが、肝心なことを忘れるところでした」

 市川はとぼけたように言うと、こちらです、と蝶子に傘を差しかけたが、蝶子は首をふってそれを断った。
 倒壊したビル群の中を歩いていく。
 しばらく行くと、

「そこです」

 市川が前方を指し示した。
 指し示す先に、蝶子は視線を向けた。
 そこには一台の黒い車が停まっていた。
 ランドクルーザータイプの四輪駆動車だ。
 蝶子には見慣れた車である。
 市川が蝶子に会いに来るときは、いつもその車を運転してやってきた。
 バイオ・オイルで走るという改良車。
 外国との交流のないいまのこの世界に、ガソリンはもう残ってはいなかった。
 市川は車の後部ゲートを開けると、

「頼まれたものは、すべて揃っています」

 積んであった大きめのバッグを叩いた。

「それと、そのバイオ・アーマー・スーツ。そこまで破れてしまったら、もう自然修復は無理でしょう」

 そう言葉をつけ足すと、おなじく積んであったジェラルミンのケースを引き寄せた。

「バイオ・アーマー・スーツとコートです。どちらも最新のものですよ。スーツはバイオ・クロムの作用で肉体にフィットし、あなたがいま身に着けているものより格段に自然修復機能が改善されています。コートのほうは耐久性と断熱性に優れています」

 蝶子は無言で、バッグとジェラルミン・ケースに眼をやった。

「狭いでしょうけれど、車の中で着替えていただけますか。そのスーツとコートは回収いたしますので」

 市川の言うままに、蝶子は後部ゲートから車に乗りこんだ。
 細い眼を向けている市川を見つめ、

「少し離れていろ」

 冷たい口調で言うと、後部ゲートを閉じた。

「やはり、着替えを見学するというわけにはいきませんか」

 残念そうに呟くと、市川は車から数歩離れて背を向けた。
 十分ほどの時間が経って、車の後部ゲートが開き、蝶子が降りてきた。
 市川が用意してきたアーマー・スーツとコートを身に着け、右手にバッグを持っている。

「おう」

 ふり向きざまに、市川が感嘆の声をあげた。

「その着こなしたフォルム。実にいいですねえ。あなたをふくめた執行人は、組織のサイエンス・テクノロジーを駆使した最高傑作と言えますが、蝶子さん、あなたは群を抜いてすばらしい」

 嬉々として絶賛する市川に眼も向けず、蝶子は無言のまま横を通りすぎた。

「いつものことながら、礼のひとつもなしですか」

 歩き去る蝶子の背に、市川は言った。
 蝶子はかまわずに歩いていく。

「それはそうと、あの子、美鈴さんでしたか。組織であずかることになりましたよ」

 その言葉に蝶子は足を止め、ふり返った。

「どういうことだ」

 市川を睨みつけた。

「おや、恐い顔をしてどうしました。やはり、あの子に心を動かされてしまったのですか?」
「そうじゃない。私が倒れているのを見つけたのはあの子だ。その借りがある。それだけだ」
「なるほど、恩義を感じているというわけですか。しかし、あの子は、じきに異形人となるのですよ。駆除の対象に、恩義もなにもないでしょう」
「市川、きさま」

 蝶子は怒りをあらわにした。

「それほど感情を剥き出しにするところをみると――」

 市川は、言葉を最後まで言うことができなかった。
 なぜなら、市川の喉元には、太刀の切っ先が立てられていた。
 蝶子が地を蹴ったと思った次の瞬間には、市川の喉元に太刀を突き立てていたのだ。
 それは、瞬く間のことだった。

「――どうやらこれは、組織に報告せざるを得ない状況ですね」
「ああ、いいさ。どうとでも報告すればいい。私は、おまえの非人道的な物言いが許せないんだよ」

 蝶子は、片手で持っていた太刀を両手に持ち替えた。

「なんども言ったはずだ。口は災いのもとだと」
「ま、待った。わかりましたよ。報告はしませんから、どうか、この刀をどけてください」
「まだわかってないようだね。なにを報告されようと、そんなことはどうだっていいんだよ」

 蝶子は腰を低くした。
 いつでも斬るという体制だ。

「そうですか。いいでしょう」

 そう言った市川の表情が変わった。
 それまで、一切崩さなかった笑みが、その顔から消えている。

「斬ると言うのなら、斬りなさい」

 そのとき、市川の身体が瞬間的に膨れあがった。
 そう見えた。だが、そうではなかった。
 膨れ上がったと見えたのは、市川の身体から発せられたものだった。
 それは、「威気(いき)」だった。
 威気――それはいわゆる潜在能力である。
 その威気が、市川の身体を取り巻く大気を陽炎のように揺らしている。
 眼に見えぬオーラを、纏っているようなものだ。
 それだけではない。
 その威気は、市川の喉元に突きつけられている太刀の刃先を押しもどしていた。
 蝶子は思わず太刀を引き、うしろに身を退いた。

「おまえ、何者だ」

 身を退きながら、太刀を構えた。

「そんなに驚かないでください。いまのは威気というものですが、これくらいの芸当ができないようでは監視人は務まりませんよ」

 そう言ったときには、市川の身体を纏(まと)っていた威気は消えていた。

「まさか、一度ならず二度までも、喉元に刀を突きつけられるとは思いませんでした」

 市川は何事もなかったように蝶子を見つめた。
 その顔には笑みがもどっている。
 それでも蝶子は、太刀を構えたままでいた。
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