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【第35話】
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「なによ、どうするつもり?」
怪訝な表情で朝子が言った。
その朝子に、
「朝子ねえちゃん――」
そう呼んではいけないのだと言うようにトオルは首をふり、衣服を身に着けてシューズを履いた。
そしてスッと朝子の前に立ち、彼女を見つめた。
「だましていてごめんなさい。もう、あなたの前に姿を現すことはありません。どうもありがとう。楽しかった」
哀しみの翳った笑みを浮かべる。
「あなたに逢えてよかった」
最後にそう言うと、トオルは病室を飛び出した。
「ちょっと待って。どこへ行くの!」
呼び止めるのもかまわず、トオルは駆け出した。
病院の門の外まで走り抜けると、一度呼吸を整え、そして歩き始めた。
そこでふと、行くあてなどないことに気づく。
それどころか、どこにいるのかもわからない。
ザイールはどこにいるのだろう。
呼べば姿を現すだろうか。
だが、いまはそんな気にはなれない。
朝子にすべてを話してしまった。
話してはならないと、ザイールに言われていたのに。
だけれど、あの状況で話さないわけにはいかなかった。
嘘でやり過ごせる状態でさえなかった。
いや、それ以前に、もう嘘をつきたくはなかった。
それでよかったのかと考えれば、決してよくはなかっただろう。
あの、驚愕に揺れた朝子の眼を見れば、彼女がどれほど動揺していたかは、火を見るよりも明らかだった。
それまでの朝子は、いい友人に囲まれ、ごくふつうの生活を送っていたのだ。
トオルが現れたりしなければ、何事もなく、その生活を送っていっただろう。
それをトオルは壊してしまった。
律子に逢いたいと願ったがために。
逢いになど来るべきではなかった。
朝子が律子の生まれ変わりだとしても、彼女は律子ではない。
そう、朝子は朝子以外の何ものでもないのだから。
朝子の人生にかかわってはならなかった。
ただそっと、見守っているだけでよかった。
(僕はなんてバカなんだ……)
後悔ばかりが胸の中に去来した。
空はよく晴れていて、歩道の端には、イヴの夜に降った雪のなごりがわずかながらに残り、陽の光をきらきらと反射していた。
(どうして僕は……)
天に手のひらを向け、夜空の闇から舞い落ちる雪に魅了されながら、ふらふらと歩く朝子を見たとき、トオルの眼に、忘れることのできない光景が甦った。
それはまさに、あのときと同じ光景だった。
そこには律子がいた。
そして律子は、あのときと同じように、身体のバランスを崩して車道へと傾いだのだ。
トオルの身体は動いていた。
あのとき律子のことを救うことができなかった想いが、一歩も動けずにいた自分への怒りが、トオルの中で爆発したのだった。
もう、喪うわけにはいかないのだと。
そして無意識のうちに、律子の名を呼んでいた。
それはしかたのないことだった。
トオルが身を挺して救おうとしたのは、律子に他ならなかったのだから。
しばらく歩くと、小さな公園があった。
トオルは園内に入り、ベンチに坐った。
ふとため息をつくと、とたんに途方に暮れた。
自分の本来の姿にもどりたかった。
未来にいることにもう意味はなかった。
残された1日はもとの世界の病院のベッドで過ごせばいい。
そして最期のときを迎え、ザイールにいざなわれて地獄への旅路に向かえばいい。
いや、いますぐにでもかまわない。
そうすれば、律子への想いも断ち切ることができるだろう。
「ザイール!」
トオルは彼を呼んだ。
「どこにいるの、ザイール。もう僕は、君と地獄へ行くよ」
だが、それに答えるものはなかった。
ザイール、どうして来てくれないんだ。
あと1日、僕をほうっておくの?
僕はどうすればいいのさ。
「ザイール、お願いだから、姿を現してよ」
懇願するようにそう言ったとき、
「トオルくん」
トオルを呼ぶ声がした。
その声に顔を向けると、公園の入口に朝子が立っていた。
怪訝な表情で朝子が言った。
その朝子に、
「朝子ねえちゃん――」
そう呼んではいけないのだと言うようにトオルは首をふり、衣服を身に着けてシューズを履いた。
そしてスッと朝子の前に立ち、彼女を見つめた。
「だましていてごめんなさい。もう、あなたの前に姿を現すことはありません。どうもありがとう。楽しかった」
哀しみの翳った笑みを浮かべる。
「あなたに逢えてよかった」
最後にそう言うと、トオルは病室を飛び出した。
「ちょっと待って。どこへ行くの!」
呼び止めるのもかまわず、トオルは駆け出した。
病院の門の外まで走り抜けると、一度呼吸を整え、そして歩き始めた。
そこでふと、行くあてなどないことに気づく。
それどころか、どこにいるのかもわからない。
ザイールはどこにいるのだろう。
呼べば姿を現すだろうか。
だが、いまはそんな気にはなれない。
朝子にすべてを話してしまった。
話してはならないと、ザイールに言われていたのに。
だけれど、あの状況で話さないわけにはいかなかった。
嘘でやり過ごせる状態でさえなかった。
いや、それ以前に、もう嘘をつきたくはなかった。
それでよかったのかと考えれば、決してよくはなかっただろう。
あの、驚愕に揺れた朝子の眼を見れば、彼女がどれほど動揺していたかは、火を見るよりも明らかだった。
それまでの朝子は、いい友人に囲まれ、ごくふつうの生活を送っていたのだ。
トオルが現れたりしなければ、何事もなく、その生活を送っていっただろう。
それをトオルは壊してしまった。
律子に逢いたいと願ったがために。
逢いになど来るべきではなかった。
朝子が律子の生まれ変わりだとしても、彼女は律子ではない。
そう、朝子は朝子以外の何ものでもないのだから。
朝子の人生にかかわってはならなかった。
ただそっと、見守っているだけでよかった。
(僕はなんてバカなんだ……)
後悔ばかりが胸の中に去来した。
空はよく晴れていて、歩道の端には、イヴの夜に降った雪のなごりがわずかながらに残り、陽の光をきらきらと反射していた。
(どうして僕は……)
天に手のひらを向け、夜空の闇から舞い落ちる雪に魅了されながら、ふらふらと歩く朝子を見たとき、トオルの眼に、忘れることのできない光景が甦った。
それはまさに、あのときと同じ光景だった。
そこには律子がいた。
そして律子は、あのときと同じように、身体のバランスを崩して車道へと傾いだのだ。
トオルの身体は動いていた。
あのとき律子のことを救うことができなかった想いが、一歩も動けずにいた自分への怒りが、トオルの中で爆発したのだった。
もう、喪うわけにはいかないのだと。
そして無意識のうちに、律子の名を呼んでいた。
それはしかたのないことだった。
トオルが身を挺して救おうとしたのは、律子に他ならなかったのだから。
しばらく歩くと、小さな公園があった。
トオルは園内に入り、ベンチに坐った。
ふとため息をつくと、とたんに途方に暮れた。
自分の本来の姿にもどりたかった。
未来にいることにもう意味はなかった。
残された1日はもとの世界の病院のベッドで過ごせばいい。
そして最期のときを迎え、ザイールにいざなわれて地獄への旅路に向かえばいい。
いや、いますぐにでもかまわない。
そうすれば、律子への想いも断ち切ることができるだろう。
「ザイール!」
トオルは彼を呼んだ。
「どこにいるの、ザイール。もう僕は、君と地獄へ行くよ」
だが、それに答えるものはなかった。
ザイール、どうして来てくれないんだ。
あと1日、僕をほうっておくの?
僕はどうすればいいのさ。
「ザイール、お願いだから、姿を現してよ」
懇願するようにそう言ったとき、
「トオルくん」
トオルを呼ぶ声がした。
その声に顔を向けると、公園の入口に朝子が立っていた。
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