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【第30話】
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耀きに満ちた街を、人々が往来している。
トオルは胸がときめいた。
幾つかの交差点を曲がるとタクシーは停まった。
一行は、眼の前のホテルのような造りのビルに入っていく。
広いフロアの奥にフロントがあり、そこに立っているのは、やはりロボットだった。
直人が手続きを済ませて、エレベーターに向かう。
エレベーターを降り、廊下を進む。
各ルームから一切の音が洩れ聴こえてこないのは、客が入っていないわけではなく、それほど防音がしっかりしているからなのだろう。
ルーム・ナンバーはすぐにみつかった。
白い壁に包まれたその部屋は、10人が入ってもじゅうぶんな広さがあったが、テーブルとソファ以外には何もなかった。
ガラスのテーブルの上に、マイクが置かれているだけである。
ふと、直人がガラスのテーブルの上を指先で触れる。
するとそこにはリモート画面が現れ、さらに指先を触れると、とたんに部屋の中が趣のある洒落たバーへと変貌した。
それはバーチャル映像で、まさにバーに来ているといっていいほどだった。
カラオケの選曲や飲み物などの注文も、そのリモート画面でできた。
最初に曲を入れたのはさゆりだった。
曲のスタンバイが始まると、天井から球体のスクリーンが下りてきた。
そのスクリーンは、どの位置からでも画像が観られるという優れたものだった。
未来の歌は、トオルには聴き慣れないものだったが、さゆりは実にいい声をしていた。
次に成実が歌い、直人が歌って、朝子が歌った。
皆、驚くほどに歌が上手い。
歌手になってもいいのではないか、といったら言いすぎかもしれないが、皆それだけの歌唱力があった。
利用時間の3時間はすぐに過ぎて、最後にプレゼントを交換し合った。
朝子はトオルのプレゼントも用意していた。
いつの間に買っていたのか、プレゼントはマフラーだった。
店を出て、これからクラブへ行こうという直人に、さゆりと成実は同意したが、朝子は遠慮して、トオルとふたりはそこで別れた。
さすがにトオルをクラブに連れていくわけにはいかないと思ったのだろう。
少し歩こう、と朝子は言って、ふたりは歩き出した。
「今日は楽しかった?」
酔った顔をほころばせて、朝子が訊いた。
「うん、とっても。みんな、いい人たちだね」
「でしょう。もう、最高の友だち」
「でも、ひとりの人は来なかったみたいだけど」
「あァ、圭介のことね」
実は、その圭介という男のことがトオルは気になっていた。
いや、というよりは、朝子に恋をし、そしてその恋に破れ、いまは他の女性と交際をしながらも朝子に好意をよせている男のことを、彼女自身はどう思っているのかがトオルは知りたかった。
「彼女ができたって聞いたけど、それでもまだ朝子ねえちゃんのことが好きなんだよね」
ずばりその矛先を向ける。
「そうみたいだけど、でもそれは、私には関係のないことだわ」
「どうして?」
「だって、圭介の気持ちに応えられないことは、ちゃんと伝えたんだもの。あとは彼の問題よ。そんなことにふり回されていたら、私が前に進めないじゃない」
「確かにそうだけど……、朝子ねえちゃんは、その人のことなんとも思ってないの?」
確信に迫る。
「友だちとしては好きよ。だけど、それ以上にはなれない。告白されたとき、正直に言えばうれ
しかった。私なりに考えたりもしたわ。でも、いい友だちでいたいっていうのが私の答えだった。だから、気を持たせるようなことはしたくなかったから、私ははっきりと言ったの。圭介とはつき合えないって」
朝子の圭介に対する気持ちを知り、それはトオルにとってうれしいことであるはずなのに、なぜか素直には歓べなかった。
朝子を想う圭介のことを考えると、どうしてなのか、他人事のようには思えずいたたまれなかった。
圭介は朝子に想いを寄せ、トオルは朝子の前世である律子を想いつづけている。
ふたりは、魂が同じである彼女を愛しているのだ。
それを思うと、圭介という男にある親近感さえトオルは感じるのだった。
とはいえそれも、朝子が圭介に好意を持っていないということを知ったからであって、これがもし、彼女にも圭介に対して友情以上の想いがあったとしたなら、そんな感情をいだくことはなかっただろう。
「あ、トオルくん。雪よ」
ふいに朝子はそう言い、天に手のひらを向けた。
酔いのせいか、おぼつかない足取りで夜空を見上げながらふらふらと歩き出す。
「朝子ねえちゃん、危ないよ」
そう声にした刹那、トオルの背に戦慄が走った。
その場面は、あのときとまったく同じだった。
夜空を見上げ、闇の中から舞い落ちてくる雪に、心を奪われている律子の姿がそこにあった。
そして彼女は、身体のバランスを崩し、車道へと傾いで、そこへ――
忘れもしないその光景が、鮮明に甦る。
そしていま、まさに彼女はバランスを崩し、身体が車道へと傾ぎそうになる。
トオルは考える間もなく、朝子へと身体が動いた。
いや、何も考えていないわけではなかった。
もう彼女を喪うわけにはいかない!
それだけが脳裡の中にあった。
その衝動のままに動いていた。
朝子の身体が傾いでいく。
そこへスピードを上げた車が走ってくる。
それはほんの数秒のことであったが、トオルにはとてもゆっくりとその場面が動いていた。
「律子! 危ない!」
トオルはそう叫び、朝子の腕を掴むと、彼女をかばうように走りくる車に自分の背を向け、そのまま車道に倒れこんだ。
トオルの瞼に電光が迸った。
そのとたんにすべての音が消え、静寂になった。
何が起きたのかなどわかるわけもない。
瞼を薄く開けると朝子の顔があった。
「律子……。無事だったんだね。よかった……」
微かな笑みの中でそう言うと、トオルは朝子の腕の中で意識を失った。
「トオルくん、しっかりして。トオルくん!」
朝子のその声は、トオルには届かなかった。
トオルは胸がときめいた。
幾つかの交差点を曲がるとタクシーは停まった。
一行は、眼の前のホテルのような造りのビルに入っていく。
広いフロアの奥にフロントがあり、そこに立っているのは、やはりロボットだった。
直人が手続きを済ませて、エレベーターに向かう。
エレベーターを降り、廊下を進む。
各ルームから一切の音が洩れ聴こえてこないのは、客が入っていないわけではなく、それほど防音がしっかりしているからなのだろう。
ルーム・ナンバーはすぐにみつかった。
白い壁に包まれたその部屋は、10人が入ってもじゅうぶんな広さがあったが、テーブルとソファ以外には何もなかった。
ガラスのテーブルの上に、マイクが置かれているだけである。
ふと、直人がガラスのテーブルの上を指先で触れる。
するとそこにはリモート画面が現れ、さらに指先を触れると、とたんに部屋の中が趣のある洒落たバーへと変貌した。
それはバーチャル映像で、まさにバーに来ているといっていいほどだった。
カラオケの選曲や飲み物などの注文も、そのリモート画面でできた。
最初に曲を入れたのはさゆりだった。
曲のスタンバイが始まると、天井から球体のスクリーンが下りてきた。
そのスクリーンは、どの位置からでも画像が観られるという優れたものだった。
未来の歌は、トオルには聴き慣れないものだったが、さゆりは実にいい声をしていた。
次に成実が歌い、直人が歌って、朝子が歌った。
皆、驚くほどに歌が上手い。
歌手になってもいいのではないか、といったら言いすぎかもしれないが、皆それだけの歌唱力があった。
利用時間の3時間はすぐに過ぎて、最後にプレゼントを交換し合った。
朝子はトオルのプレゼントも用意していた。
いつの間に買っていたのか、プレゼントはマフラーだった。
店を出て、これからクラブへ行こうという直人に、さゆりと成実は同意したが、朝子は遠慮して、トオルとふたりはそこで別れた。
さすがにトオルをクラブに連れていくわけにはいかないと思ったのだろう。
少し歩こう、と朝子は言って、ふたりは歩き出した。
「今日は楽しかった?」
酔った顔をほころばせて、朝子が訊いた。
「うん、とっても。みんな、いい人たちだね」
「でしょう。もう、最高の友だち」
「でも、ひとりの人は来なかったみたいだけど」
「あァ、圭介のことね」
実は、その圭介という男のことがトオルは気になっていた。
いや、というよりは、朝子に恋をし、そしてその恋に破れ、いまは他の女性と交際をしながらも朝子に好意をよせている男のことを、彼女自身はどう思っているのかがトオルは知りたかった。
「彼女ができたって聞いたけど、それでもまだ朝子ねえちゃんのことが好きなんだよね」
ずばりその矛先を向ける。
「そうみたいだけど、でもそれは、私には関係のないことだわ」
「どうして?」
「だって、圭介の気持ちに応えられないことは、ちゃんと伝えたんだもの。あとは彼の問題よ。そんなことにふり回されていたら、私が前に進めないじゃない」
「確かにそうだけど……、朝子ねえちゃんは、その人のことなんとも思ってないの?」
確信に迫る。
「友だちとしては好きよ。だけど、それ以上にはなれない。告白されたとき、正直に言えばうれ
しかった。私なりに考えたりもしたわ。でも、いい友だちでいたいっていうのが私の答えだった。だから、気を持たせるようなことはしたくなかったから、私ははっきりと言ったの。圭介とはつき合えないって」
朝子の圭介に対する気持ちを知り、それはトオルにとってうれしいことであるはずなのに、なぜか素直には歓べなかった。
朝子を想う圭介のことを考えると、どうしてなのか、他人事のようには思えずいたたまれなかった。
圭介は朝子に想いを寄せ、トオルは朝子の前世である律子を想いつづけている。
ふたりは、魂が同じである彼女を愛しているのだ。
それを思うと、圭介という男にある親近感さえトオルは感じるのだった。
とはいえそれも、朝子が圭介に好意を持っていないということを知ったからであって、これがもし、彼女にも圭介に対して友情以上の想いがあったとしたなら、そんな感情をいだくことはなかっただろう。
「あ、トオルくん。雪よ」
ふいに朝子はそう言い、天に手のひらを向けた。
酔いのせいか、おぼつかない足取りで夜空を見上げながらふらふらと歩き出す。
「朝子ねえちゃん、危ないよ」
そう声にした刹那、トオルの背に戦慄が走った。
その場面は、あのときとまったく同じだった。
夜空を見上げ、闇の中から舞い落ちてくる雪に、心を奪われている律子の姿がそこにあった。
そして彼女は、身体のバランスを崩し、車道へと傾いで、そこへ――
忘れもしないその光景が、鮮明に甦る。
そしていま、まさに彼女はバランスを崩し、身体が車道へと傾ぎそうになる。
トオルは考える間もなく、朝子へと身体が動いた。
いや、何も考えていないわけではなかった。
もう彼女を喪うわけにはいかない!
それだけが脳裡の中にあった。
その衝動のままに動いていた。
朝子の身体が傾いでいく。
そこへスピードを上げた車が走ってくる。
それはほんの数秒のことであったが、トオルにはとてもゆっくりとその場面が動いていた。
「律子! 危ない!」
トオルはそう叫び、朝子の腕を掴むと、彼女をかばうように走りくる車に自分の背を向け、そのまま車道に倒れこんだ。
トオルの瞼に電光が迸った。
そのとたんにすべての音が消え、静寂になった。
何が起きたのかなどわかるわけもない。
瞼を薄く開けると朝子の顔があった。
「律子……。無事だったんだね。よかった……」
微かな笑みの中でそう言うと、トオルは朝子の腕の中で意識を失った。
「トオルくん、しっかりして。トオルくん!」
朝子のその声は、トオルには届かなかった。
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