21 / 53
【第20話】
しおりを挟む
「気持ちいいでしょう」
朝子が、トオルい顔を向けて訊いた。
「うん、とっても」
トオルは、大空を眺めながら答えた。
大空はどこまでも広く青かった。
陽光がやさしく降りそそいでいる。
そして、とても静かだった。
「こんな体験ができるなんて、すごいゲームだね」
「でしょう。でも、これで初体験版チップなのよ。チップにはいろいろあって、世界一周旅行のできるチップや、冒険をしたりお金持ちになったり、ミュージシャンや俳優になれるチップだってあるんだから」
「だったら、このゲームがあれば、なんにだってなれるってわけだね」
「そうよ。それに、動物や昆虫になれるチップもあるのよ」
「だけど、そんなにいろんな経験ができると、ずっとこのゲームをやっていたくなるんじゃない?」
「その心配はないわ。このゲームは時間をプログラムするようになっているから、その時間がくると自然にシャット・ダウンするようになっているの。ゲーム・タイムは最高でも6時間。そして一度終了すると、それから12時間はゲームにログインできないのよ。だからゲームにハマっちゃうってこともないの」
「ふーん。でも、こんなすごいゲームって、すごく高かったでしょ」
「そうねえ、高級車が1台は買えちゃうかな」
こともなげに朝子は言った。
「うわ、ほんとに!」
トオルは驚いて、半身を起こした。
未来の高級車がいったいどれほどの金額がするのかはわからないが、それにしても、ゲーム機と高級車が同額とは恐れいる。
とはいえ、こんな仮想世界を疑似体験できるゲームが開発されているのだから、未来の進歩はものすごい。
そしてまた、その高級車1台分もするゲーム・マシンを買ってしまう朝子もまたすごい。
未来と過去とでは、貨幣の違いもあるだろうが、朝子の住んでいるマンションも分譲であるなら相当の金額であろうし、賃貸であってもやはり相当なものだろう。
朝子はいったいどれほどの収入を得ているのだろうか。
それとも財閥の令嬢なのか。
とはいっても、彼女にはセレブレティな雰囲気はない。
「朝子ねえちゃんて、お金持ちなんだ。住んでるところもすごいし」
深く追求するわけにもいかないので、トオルはさりげなくそう訊いた。
「そんなことないわよ。このゲーム・マシンはね、冬のボーナスを頭金に入れて、思い切ってローンで買ったの。こんなに高い買い物は初めてだったけど、今年1年がんばった自分へのご褒美のつもりでね。それと、このマンションは都営なのよ。だから家賃は格安なの。マンションが完成する3ヶ月前に入居者の応募があって、それに出してみたら当たったのよ。独身者はなかなか当たらないのに、それが当たったんだからラッキーだと思わない?」
謎はすぐに解けてしまった。
朝子は財閥の令嬢などではなくごくふつうの女性だった。
トオルは朝子がふつうの女性であったことにほっとした。
朝子がふいに立ち上がり、散歩でもするように雲の上を歩き始めた。
両手を広げ、ときおり足を止めて身体をくるりと回すその姿は、まるで踊っているようだった。
そんな朝子にトオルは、眩さに眼を細めながら見入った。
限りがないと思えるほど、雲はどこまでも広がっている。
陽光に包み込まれた朝子の姿を眺めながら、トオルは天国にいるのだと思った。
そう、ここは天国に違いない。
すぐ眼の前には、律子がいるのだから。
願いが、いまやっと叶ったのだ。
ずっとこの光景を夢見てきた。
このときが来ることを、ずっとずっと待ち望んでいた。
天国へ行けば、きっと律子が待っているとそう信じて。
逢いたくて、逢いたくて、逢いたくてしかたがなかった。
そこへ行けば、もう一度、律子の笑顔を見ることができるのだと、それだけを胸にいだきながら生きてきた。
だからこそ、どんなに哀しくとも、切なくとも、辛くとも、生きてこられたのだ。
このときのためだけに。
そしていま、夢にまで見たふたりだけの世界にいる。
きらきらと輝く朝子が踊っている。
彼女の周りを、真白な雲のかけらが粉雪のように舞い上がる。
朝子は、雪原に踊る女神だった。
そしてここは、純白に煌くホワイト・ヘヴン。
彼女を強く抱きしめて、この歓びを、この想いを伝えたかった。
すべてを打ち明けてしまいたかった。
けれど、そうすることはできない。
いまのトオルの姿は、彼女を包み込めるだけの肉体を有してはおらず、抱きしめるにはあまりにも身体は小さく幼すぎた。
そして真実は、決して口にしてはならなかった。
それが悔しくて、トオルは立ち上がると足を蹴って上空へと飛んだ。
「どこへ行くのトオルくん! そんなに高く飛んでも、その先にはなにもないわよ!」
そう言う朝子にかまわず、トオルは加速をつけてさらなる高みへと上昇していった。
なにもなくたっていい。
いまはなにもないところで、独りになりたかった。
「トオルくーん。もどっておいでよー!」
その声は、トオルにはもう届いていなかった。
どれほど高く飛んだのか、青い空はふいに闇へと変わった。
そこには、圧倒的な漆黒の闇が広がっていた。
朝子が、トオルい顔を向けて訊いた。
「うん、とっても」
トオルは、大空を眺めながら答えた。
大空はどこまでも広く青かった。
陽光がやさしく降りそそいでいる。
そして、とても静かだった。
「こんな体験ができるなんて、すごいゲームだね」
「でしょう。でも、これで初体験版チップなのよ。チップにはいろいろあって、世界一周旅行のできるチップや、冒険をしたりお金持ちになったり、ミュージシャンや俳優になれるチップだってあるんだから」
「だったら、このゲームがあれば、なんにだってなれるってわけだね」
「そうよ。それに、動物や昆虫になれるチップもあるのよ」
「だけど、そんなにいろんな経験ができると、ずっとこのゲームをやっていたくなるんじゃない?」
「その心配はないわ。このゲームは時間をプログラムするようになっているから、その時間がくると自然にシャット・ダウンするようになっているの。ゲーム・タイムは最高でも6時間。そして一度終了すると、それから12時間はゲームにログインできないのよ。だからゲームにハマっちゃうってこともないの」
「ふーん。でも、こんなすごいゲームって、すごく高かったでしょ」
「そうねえ、高級車が1台は買えちゃうかな」
こともなげに朝子は言った。
「うわ、ほんとに!」
トオルは驚いて、半身を起こした。
未来の高級車がいったいどれほどの金額がするのかはわからないが、それにしても、ゲーム機と高級車が同額とは恐れいる。
とはいえ、こんな仮想世界を疑似体験できるゲームが開発されているのだから、未来の進歩はものすごい。
そしてまた、その高級車1台分もするゲーム・マシンを買ってしまう朝子もまたすごい。
未来と過去とでは、貨幣の違いもあるだろうが、朝子の住んでいるマンションも分譲であるなら相当の金額であろうし、賃貸であってもやはり相当なものだろう。
朝子はいったいどれほどの収入を得ているのだろうか。
それとも財閥の令嬢なのか。
とはいっても、彼女にはセレブレティな雰囲気はない。
「朝子ねえちゃんて、お金持ちなんだ。住んでるところもすごいし」
深く追求するわけにもいかないので、トオルはさりげなくそう訊いた。
「そんなことないわよ。このゲーム・マシンはね、冬のボーナスを頭金に入れて、思い切ってローンで買ったの。こんなに高い買い物は初めてだったけど、今年1年がんばった自分へのご褒美のつもりでね。それと、このマンションは都営なのよ。だから家賃は格安なの。マンションが完成する3ヶ月前に入居者の応募があって、それに出してみたら当たったのよ。独身者はなかなか当たらないのに、それが当たったんだからラッキーだと思わない?」
謎はすぐに解けてしまった。
朝子は財閥の令嬢などではなくごくふつうの女性だった。
トオルは朝子がふつうの女性であったことにほっとした。
朝子がふいに立ち上がり、散歩でもするように雲の上を歩き始めた。
両手を広げ、ときおり足を止めて身体をくるりと回すその姿は、まるで踊っているようだった。
そんな朝子にトオルは、眩さに眼を細めながら見入った。
限りがないと思えるほど、雲はどこまでも広がっている。
陽光に包み込まれた朝子の姿を眺めながら、トオルは天国にいるのだと思った。
そう、ここは天国に違いない。
すぐ眼の前には、律子がいるのだから。
願いが、いまやっと叶ったのだ。
ずっとこの光景を夢見てきた。
このときが来ることを、ずっとずっと待ち望んでいた。
天国へ行けば、きっと律子が待っているとそう信じて。
逢いたくて、逢いたくて、逢いたくてしかたがなかった。
そこへ行けば、もう一度、律子の笑顔を見ることができるのだと、それだけを胸にいだきながら生きてきた。
だからこそ、どんなに哀しくとも、切なくとも、辛くとも、生きてこられたのだ。
このときのためだけに。
そしていま、夢にまで見たふたりだけの世界にいる。
きらきらと輝く朝子が踊っている。
彼女の周りを、真白な雲のかけらが粉雪のように舞い上がる。
朝子は、雪原に踊る女神だった。
そしてここは、純白に煌くホワイト・ヘヴン。
彼女を強く抱きしめて、この歓びを、この想いを伝えたかった。
すべてを打ち明けてしまいたかった。
けれど、そうすることはできない。
いまのトオルの姿は、彼女を包み込めるだけの肉体を有してはおらず、抱きしめるにはあまりにも身体は小さく幼すぎた。
そして真実は、決して口にしてはならなかった。
それが悔しくて、トオルは立ち上がると足を蹴って上空へと飛んだ。
「どこへ行くのトオルくん! そんなに高く飛んでも、その先にはなにもないわよ!」
そう言う朝子にかまわず、トオルは加速をつけてさらなる高みへと上昇していった。
なにもなくたっていい。
いまはなにもないところで、独りになりたかった。
「トオルくーん。もどっておいでよー!」
その声は、トオルにはもう届いていなかった。
どれほど高く飛んだのか、青い空はふいに闇へと変わった。
そこには、圧倒的な漆黒の闇が広がっていた。
0
お気に入りに追加
41
あなたにおすすめの小説

蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。


悪役令嬢カテリーナでございます。
くみたろう
恋愛
………………まあ、私、悪役令嬢だわ……
気付いたのはワインを頭からかけられた時だった。
どうやら私、ゲームの中の悪役令嬢に生まれ変わったらしい。
40歳未婚の喪女だった私は今や立派な公爵令嬢。ただ、痩せすぎて骨ばっている体がチャームポイントなだけ。
ぶつかるだけでアタックをかます強靭な骨の持ち主、それが私。
40歳喪女を舐めてくれては困りますよ? 私は没落などしませんからね。

親切なミザリー
みるみる
恋愛
第一王子アポロの婚約者ミザリーは、「親切なミザリー」としてまわりから慕われていました。
ところが、子爵家令嬢のアリスと偶然出会ってしまったアポロはアリスを好きになってしまい、ミザリーを蔑ろにするようになりました。アポロだけでなく、アポロのまわりの友人達もアリスを慕うようになりました。
ミザリーはアリスに嫉妬し、様々な嫌がらせをアリスにする様になりました。
こうしてミザリーは、いつしか親切なミザリーから悪女ミザリーへと変貌したのでした。
‥ですが、ミザリーの突然の死後、何故か再びミザリーの評価は上がり、「親切なミザリー」として人々に慕われるようになり、ミザリーが死後海に投げ落とされたという崖の上には沢山の花が、毎日絶やされる事なく人々により捧げられ続けるのでした。
※不定期更新です。

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます
おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。
if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります)
※こちらの作品カクヨムにも掲載します
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。


10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~
緑谷めい
恋愛
ドーラは金で買われたも同然の妻だった――
レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。
※ 全10話完結予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる