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【第14話】
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そのとき、リックが顔を上げ、鼻をヒクヒクさせた。
それにつられてサラまでが、眼を閉じて鼻をヒクヒクさせる。
〈あら、とてもいい匂い〉
リビングには、オリーヴ・オイルとガーリックの芳ばしい香りが漂っていた。
「さあ、できたわよォ。トオルくん、こっちに坐って」
朝子の声に呼ばれてダイニングに行くと、リックとサラもついてきて、テーブルの横に並んで坐った。
「リックとサラの夕食も、用意ができてるわよ」
キッチン寄りのダイニングの一面に、小さなマットが敷かれていて、その上にリックとサラの食事が置かれている。
リックはすぐさま食事の置かれたマットへと向かい、そのあとをサラがいく。
テーブルの上には、ボールに入ったサラダとガーリック・バターをまぶして焼かれたフランス・パン、そしてパスタのペペロン・チーノが載っている。
そこへトオルのメイン・ディッシュといえるクリーム・シチューが運ばれてきた。
いい匂いが鼻腔を刺激する。
トオルはスプーンを手にせず、クリーム・シチューを見つめた。
律子との想い出が次から次へと浮かんでくる。
とたんに胸が締めつけられて、トオルはそんな自分に驚いた。
律子のことを想いつづけて78という年月がすぎ、それだけ歳を重ねればやはり心も老いるのか、70歳を越えたころから、想い出に心を浸らせることはあっても胸を締めつけられるようなことはなくなっていた。
律子の顔を思い浮かべても、心は安らかに和んでいた。
それがいま、こみ上げる想いは熱く胸を焦がしている。
それは忘れ去っていた心のたぎりだった。
これも若返った影響なのだろうか。
とはいえ、8歳という年齢は若返りすぎではあるが、それでも、甦った若き日の心の昂りに、トオルは涙までがこみ上げた。
「トオルくん。クリーム・シチューは眺めるものじゃないでしょ?」
「あ、うん」
言われてやっとトオルはスプーンを手にし、「いただきます」と手を合わせ、クリーム・シチューを口に運んだ。
とたんに、濃厚なまろやかさが口の中に広がっていく。
よく煮込まれた野菜と牛肉の旨味が混ざり合って、とても味わいが深かった。
「どう? 圧縮鍋を使ったから、お肉もやわらかいでしょ」
「うん。とっても美味しい」
それに嘘はない。
だが、文句のつけようのないそのクリーム・シチューは、記憶の中の律子の味ではなかった。
「そう。よかった」
そう言って笑った顔も、やはり、忘れることのない律子の微笑みとは違っていた。
それは、改めて朝子が律子ではないということを知らせしめた。
朝子が律子ではないことは、もうじゅうぶんにわかっている。
だが、わかっていながらも、律子の面影を、いや律子自身を求めてしまうのだった。
それだけに、朝子の作ったクリーム・シチューも、律子の味がすると思いこんでいた。
もう一度、律子のクリーム・シチューを食べることができるのだと。
けれど、それが勝手な思いこみだということを、打ちのめされるように思い知らされたのだった。
落胆を覚えつつ、それでもトオルは、それを受け止めようと思った。
これが現実なのだからと。
心を切り替え、現実を受け止めよう。
そしていまを楽しむのだ。
そう思うと、少なからず気持ちも晴れた。
そう思えるのも、サラがいてくれたおかげだろう。
サラが助言をしてくれなかったら、ただ落ちこんだまま、料理も喉を通らなくなっていたに違いない。
(サラに感謝しなくちゃ……)
サラへと眼を向けると、行儀よく食事をしている背があった。
その隣には、並んで同じように食事をするリックの大きな背がある。
その光景がなんとも微笑ましい。
トオルは朝子に視線を移すと、笑顔を浮かべてクリーム・シチューを堪能した。
パスタにも手を伸ばす。
辛味がほどよく効いたペペロン・チーノは、クリーム・シチューとよくあった。
腕には自信があると言っていただけに、律子との味の違いはあるにしろ朝子の料理は申し分のない美味さだった。
(律子も生きていたら、彼女に負けないくらい料理上手になったんだろうな……)
そんなことを思うと、ふと切なくなって、その思いをトオルは料理と一緒に飲み下した。
それにつられてサラまでが、眼を閉じて鼻をヒクヒクさせる。
〈あら、とてもいい匂い〉
リビングには、オリーヴ・オイルとガーリックの芳ばしい香りが漂っていた。
「さあ、できたわよォ。トオルくん、こっちに坐って」
朝子の声に呼ばれてダイニングに行くと、リックとサラもついてきて、テーブルの横に並んで坐った。
「リックとサラの夕食も、用意ができてるわよ」
キッチン寄りのダイニングの一面に、小さなマットが敷かれていて、その上にリックとサラの食事が置かれている。
リックはすぐさま食事の置かれたマットへと向かい、そのあとをサラがいく。
テーブルの上には、ボールに入ったサラダとガーリック・バターをまぶして焼かれたフランス・パン、そしてパスタのペペロン・チーノが載っている。
そこへトオルのメイン・ディッシュといえるクリーム・シチューが運ばれてきた。
いい匂いが鼻腔を刺激する。
トオルはスプーンを手にせず、クリーム・シチューを見つめた。
律子との想い出が次から次へと浮かんでくる。
とたんに胸が締めつけられて、トオルはそんな自分に驚いた。
律子のことを想いつづけて78という年月がすぎ、それだけ歳を重ねればやはり心も老いるのか、70歳を越えたころから、想い出に心を浸らせることはあっても胸を締めつけられるようなことはなくなっていた。
律子の顔を思い浮かべても、心は安らかに和んでいた。
それがいま、こみ上げる想いは熱く胸を焦がしている。
それは忘れ去っていた心のたぎりだった。
これも若返った影響なのだろうか。
とはいえ、8歳という年齢は若返りすぎではあるが、それでも、甦った若き日の心の昂りに、トオルは涙までがこみ上げた。
「トオルくん。クリーム・シチューは眺めるものじゃないでしょ?」
「あ、うん」
言われてやっとトオルはスプーンを手にし、「いただきます」と手を合わせ、クリーム・シチューを口に運んだ。
とたんに、濃厚なまろやかさが口の中に広がっていく。
よく煮込まれた野菜と牛肉の旨味が混ざり合って、とても味わいが深かった。
「どう? 圧縮鍋を使ったから、お肉もやわらかいでしょ」
「うん。とっても美味しい」
それに嘘はない。
だが、文句のつけようのないそのクリーム・シチューは、記憶の中の律子の味ではなかった。
「そう。よかった」
そう言って笑った顔も、やはり、忘れることのない律子の微笑みとは違っていた。
それは、改めて朝子が律子ではないということを知らせしめた。
朝子が律子ではないことは、もうじゅうぶんにわかっている。
だが、わかっていながらも、律子の面影を、いや律子自身を求めてしまうのだった。
それだけに、朝子の作ったクリーム・シチューも、律子の味がすると思いこんでいた。
もう一度、律子のクリーム・シチューを食べることができるのだと。
けれど、それが勝手な思いこみだということを、打ちのめされるように思い知らされたのだった。
落胆を覚えつつ、それでもトオルは、それを受け止めようと思った。
これが現実なのだからと。
心を切り替え、現実を受け止めよう。
そしていまを楽しむのだ。
そう思うと、少なからず気持ちも晴れた。
そう思えるのも、サラがいてくれたおかげだろう。
サラが助言をしてくれなかったら、ただ落ちこんだまま、料理も喉を通らなくなっていたに違いない。
(サラに感謝しなくちゃ……)
サラへと眼を向けると、行儀よく食事をしている背があった。
その隣には、並んで同じように食事をするリックの大きな背がある。
その光景がなんとも微笑ましい。
トオルは朝子に視線を移すと、笑顔を浮かべてクリーム・シチューを堪能した。
パスタにも手を伸ばす。
辛味がほどよく効いたペペロン・チーノは、クリーム・シチューとよくあった。
腕には自信があると言っていただけに、律子との味の違いはあるにしろ朝子の料理は申し分のない美味さだった。
(律子も生きていたら、彼女に負けないくらい料理上手になったんだろうな……)
そんなことを思うと、ふと切なくなって、その思いをトオルは料理と一緒に飲み下した。
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