もう一度、君に逢いたい

星 陽月

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【第2話】

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 律子の告別式を終え、透は自分の部屋でひとり、彼女の写真を見つめていた。
 そこには、無邪気に笑う彼女がいる。
 その胸元には、まだ出逢ったばかりの頃、彼女の誕生日にプレゼントしたティファニーのブレスが耀く。
 彼女のこの笑顔を、もう見ることはできない。
 彼女の声も、囁きも、もう聴くことはできない。
 その温もりを、息吹を、感じることさえも。
 車に撥ねられたとき、律子は即死状態だった。
 透が抱きかかえたときには、もうすでに息をしていなかった。
 あの瞬間の光景が、眼に灼きついて離れない。
 律子を死なせてしまったのは僕のせいだと、なんどとなく自分を責めつづけた。
 自分も少しは酔っていたとはいえ、彼女から離れるべきではなかった。
 手を離すべきではなかった、と。
 あのとき、彼女は酔っていた。
 足元がおぼつかないほどに。
 それなのに、そんな彼女をただ笑って見つめていたのだ。
 あんなに近くにいながら、彼女を救うことができなかった。
 愛してやまない彼女を、つなぎ止めておくことができなかった。
 それはほんの一瞬の出来事で、その刹那に、彼女は亡骸を残して逝ってしまったのだ。

(僕のこの手は、彼女を掴まえておくことができなかった……)

 透は自分を責め苛んだ。
 そうすることでしか、自分を保つことができず、酒に任せてどんなに酔ったとしても、心の痛みを消すことはでき なかった。
 あまりのショックと心の痛みの苦しさに、透は会社にも行かず、部屋の中に閉じこもった。
 休職願いを出してから1ヶ月後、そのまま彼は会社を辞職し、抜け殻のようになって郷里へと帰郷した。
 畜産業を営む父と兄を手伝い、身体を使うことで、彼女を喪った哀しみから逃れようとした。
 その苦しみから救われたかった。
 それでも、月日が流れ、3年が経つ頃にはもうすっかりもとの透にもどっていた。
 違うことといえば、冗談好きであったのにもかかわらず、それを口にしなくなり、人の冗談にも心から笑うということがなくなったことだった。
 とはいえ、ひとり部屋にこもるというわけでもなく、兄嫁とも仲がよくて、その子供たちともよく遊び、勉強を教えてやったりと、なにも心配する様子はなかった。
 だが、5年が過ぎても、まったく彼女をつくろうとしない透に、家族は心配し始めた。

「そろそろ結婚を考えてもいいんじゃない?」

 家族を代表して言う兄嫁に、

「僕は結婚はしないよ。それに僕は次男だから、家のことは兄貴に任せておけばいいし、もし、僕がこの家にいるのが邪魔なら、すぐにでも出ていくよ」

 透はそう返した。

「そんな、邪魔だなんて思ったことは一度だってないわよ透さん。私はそんな意味で言ったんじゃないんだから」
「わかってるよ、義姉さん。義姉さんが僕のことを思って言ってくれてるのはね。だから僕のこともわかってよ。僕は結婚しない」

 そう言う透に、兄嫁は返す言葉がなかった。
 それからすぐ、透は家から1キロほど離れたところに部屋を借りた。
 朝、夜が明ける前に車でやってきて、1日の仕事を終えると、夕食を食べて帰っていく。
 わざわざ、そんなことすることはないだろう。
 もどってこいよ、と言う兄に、

「僕のけじめだから」

 と、家にもどることを拒否した。
 それからさらに30年が経ち、父親が死に、1年を待たずに、そのあとを追うように母親も死んだ。
 それからも、いい加減、もどってこいという兄に、透は首をふりつづけた。
 そしてまたさらに月日は流れて、兄も死に、透は70半ばを過ぎて、病院での生活を送るようになっていた。
 透は2年前に肝臓を悪くし、入院を余儀なくされ、半年ほど前からは、自力で起き上がることもできなくなっていた。
 そしていま、命があとわずかばかりだということが、透自身にもよくわかった。
 自分の生涯をふり返ってみれば、独り身を通したことに悔いはない。
 それだけに子を持つこともできなかったが、甥の長男の子供たちが、見舞いに来ては、「おじいちゃん、早く元気に なってね」と言ってくれる。
 こんなに幸せなことはない。
 入院してから1年ほどは、憎まれ口を言ったり、言うことを聞かなかったりして、踏んづけてやりたくなったこと もあったが、いまでは見舞いに来るのもめっきり減った。
 それも仕方のないことだろう。それでも可愛い子供たち。
 これ以上を望んだらばちがあたる。
 それでも望むとするなら、たったひとつ。
 律子に逢わせてほしい。
 いままでずっと、信じてきた。
 天国へ行けば律子に逢えると。
 彼女が逝ってしまったあの頃、自分の命を絶とうと思ったこともあった。
 だが、自分で命を絶てば、天国へは行けないだろう。
 そうなれば彼女と逢うことはできない。
 だからこそ、どんなに辛くとも、天国で律子に逢うんだ、という思いだけを糧に生きてきた。
 過ちを犯したことも一度としてない。
 他の女性には、脇目もふらずに通してきた。
 いや正直に言うなら、兄嫁のふくよかな胸をなんどとなく盗み見たことはあった。
 だがそれも、その頃はまだ30前の健康な男だったのだから仕方のないことだろう。
 家を出たのも、そんな自分の欲求を抑えるためだったのかもしれない。
 ただ、働いた。朝早くから、日が昏れるまで。
 友人たちの誘いにはほとんど乗らず、酒を飲むのも兄との晩酌程度だった。
 それもこれも、律子に逢いたいがためだった。
 天国に行けば彼女に逢える、そう信じていたからこそだった。
 ただただ、律子に逢いたい。いまはそれだけだ。
 そして遂にその日がやってこようとしている。
 この命もあとわずかだ。天国へと召される日は近い。
 その日が来るのをどれほど待ちわびたことか。
 彼女が逝ってから、54年という歳月を待ちつづけたのだ。
 心の準備はできている。

(いつでも迎えに来てください……)

 透は祈るようにそう思った。
 すると、その祈りが通じたのか、だれもが寝静まった病室に光が射した。

(ああ、やっとお迎えが来てくれた……)

 そう思っていると、廊下をスリッパで歩く音が聴こえてきて、その音が遠ざかるとともに光も消えた。
 どうやら、見回りきた看護師の懐中電灯だったらしい。

(お迎えはまだのようだ……)

 落胆し、窪んだ眼を閉じようとしたとき、今度はまぎれもなく天から光が射してきた。

(おお、なんと美しい。これこそほんとうに天からのお迎え……)

 煌びやかな光を見つめていると、白く輝く天衣に包まれた天使が――と思ったら、黒い帽子に黒いコートを着た男が舞い降りずに、落ちてきた。
 同室の患者たちが、起き出すのではないかと思えるほどの音を立て、その男は尻餅をつくように落ちてきたのだ。
 だが、他の患者は不思議なことに、皆ぐっすりと眠っている。

「イテテテテッ。どうにも着地がもうまくいかないぜ」

 男は尻をさすりながら、おもむろに立ち上がった。

「あの、つかぬことをお訊きしますが、あなたは天使ですか?」

 またも不思議なことに、透は自分で半身を起こし、口も利けないほどであったのに、しっかりとしゃべっていた。

「あ、オレ? 天使に見える?」
「いや、見えません」
「だよな。この恰好じゃ、天使には見えないよな」

 男は自分の姿を見やる。

「といって、悪魔にも見えません」
「カカッ、そうか、悪魔にも見えないか」
「しかし、あなたは天から落ちてきた」
「ま、そうね。天からといえば、天か」
「じゃあ、あなたは天使だ」
「え? あ、まァ、天使というかなんというか……」

 男は言葉を濁す。

「私を迎えにきたのでしょう?」
「そ、そうさ。アンタを迎えにきた」
「やはりそうですか。遂に、遂にこのときが来たのですね。天国からの使者が、やっとお迎えにきてくれたのですね」

 透は感激のあまり、男の手を両手で取った。

「ありがとう。これで私は天国へ行けるのですね。やっと、やっと律子に逢える」

 そして抱きしめていた。

「アンタ、そんな身体で力が強いな。それに、感謝してくれるのはあり難いんだが、ちょっと違うんだ」
「違う? 違うとはなにがですか」

 男から透は離れる。

「まさか、あなた――」

 男は何を言われるのかとどきりとした。

「泥棒ですか」

 それに男はズルっとこけた。

「って、身なりは確かに泥棒に見えなくもないが、泥棒は失礼だぜアンタ。オレ様はな、こう見えても――」
「じゃあ、殺し屋だ」

 男が言ってる途中で、透は言葉を被せた。

「とはいっても、明日をも知れぬ、こんな私を殺しにきても意味はない。それに私は、人に殺されるようなことをしたこともない――じゃあ、いったいだれなんだ……」

 透は考えこむ。

「おいおいおい。人の話は最後まで聴くもんだぜ、ジイさん」
「あ、これはすみません。しかし、あなたのその恰好からは、他に想像できるものがありません」
「想像なんてしなくていいんだよ。もうじき死ぬんだからな。まあいいや。とにかくだ.。オレが違うって言ったのは、アンタは天国へは行けないってことさ」
「え? いまなんとおっしゃいましたか」
「だから、アンタが行くのは天国じゃなくて地獄なの、ジ、ゴ、ク」
「じ、地獄?……」

 透は固まった。
 だがすぐに立ち直り、

「またまたご冗談を。もう、驚かせないでください。心臓が止まるかと思ったじゃないですか。私は律子が死んでから、人の冗談に笑ったことがありませんでしたが、それにしても、いまの冗談は笑えません」

 と苦笑いを浮かべた。

「いや、悪いが、冗談ではないんだ」
「――というと、それはほんとうということですか」
「あァ、ほんとうだ」
「それはなにかの間違いだ。どうして私が、地獄へ行かなければならない。過ちなど犯したことのない私が、なぜ……」
「過ちを犯したことがないだって? それこそなにかの間違いだ」
「私がどんな過ちを犯したというのですか」
「アンタ、兄嫁の胸を盗み見たことがあるだろう?」
「え? ええ、たった、それだけのことが過ちだというのですか」
「それだけのことってことはないだろ? 兄貴の嫁さんの胸を盗み見るなんざ、過ち以外のなにものでもないだろうよ。それどころか、嫁さんを頭の中で想像して、あんなことや、こんなこともしなかったか?」
「いやいや、それは断じてない。私はこんなことや、あんなことをしただけです」
「って、コラ。まったく同じだろっての。ま、とにかく、そういうことでアンタは地獄行き決定。だから諦めな。チケットも手配済みだしな」
「そんな……」

 透は愕然(がくぜん)としたのだった。
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