柴犬ゴン太のひとりごと

【Episode 74】

　クララ……。

　吾輩は、その名を胸の中で呟いた。
　そう呟いただけで、なぜか心は癒され温かいものが胸に広がった。

「ところで、クララさん」

　吾輩がそう言うと、

「あの、ゴン太さん。私のことはクララって呼んでください。クララさんなんて呼ばれると、とても照れくさいですわ」

　クララは照れくさそうに眼元で微笑した。
　眼の錯覚なのか、その眼元が赤くなったような気がした。

「うん、それじゃあ、クララ。この公園で君を見かけたのは初めてだけど、この近くに引っ越して来たのかい？」

　吾輩は訊いた。

「はい。私のご主人がここから10分ほどのところに5階建てのマンションを建てたものですから、3ヶ月ほど前にそこへ」
「へー、5階建てのマンションを建てるなんて、君のご主人はお金持ちなんだね」

　彼女はミッシェルではなかったけれど、そのミッシェルのご主人がお金持ちだと想像していたことが、そのまま彼女のご主人に当てはまっていたことに吾輩は驚いた。

「どうでしょうか。人間社会のことはよくわかりません。それに私は、ご主人がお金持ちであってもなくても、関係のないことだと思いますわ」

　クララのその言葉に、

「どういうこと？」

　思わず吾輩は訊いた。

「私たち種族は人間に忠実ですよね。それだけにご主人に危険が及べば、自分の命も顧（かえり）みずに助けようとします。だから私は、お金のあるなしじゃなく、ご主人がどれだけ愛情を注いでくれるか、だと思うんです。もし、いまのご主人に愛情がなくなってしまったら、私の居場所がなくなってしまったようで、とても不安で悲しくなってしまいますわ……」

　そう言うと、クララは吾輩から川の流れへと視線を向けた。
　そのクララを見つめながら、吾輩は思った。
　確かに、クララの言うとおりだ、と。
　たとえご主人がお金持ちであろうとなかろうと、我ら種族にとっては何の関係もないのだ。
　そして、さらに思う。
　我が主人とその家族の愛情を考えてみれば、吾輩はこのうえない愛情を注がれていると。
　真紀の乱暴狼藉DVも、子供ゆえの愛情表現なのだと。
　それを思えば、お金持ちならばきっとケンタのチキンをセットで食べれるなどと考え、それを羨ましく思っているおのれが情けなく、なんとも恥ずかしい限りであった。
　そんなさもしい考えに及ぶ吾輩は、クララの肉球のアカを煎じて飲まねばならぬ。
　クララは、沈黙したまま川の流れを見つめつづけている。
　どこか遠くへと馳せたクララのその瞳には、悲しみが滲んでいた。
　きっとクララには、辛く悲しい過去があるのではないだろうか。
　吾輩はそう思い、

「クララ。君の過去に、何があったんだい？」

　そう訊いていた。
　それにクララは、眼を閉じて顔を伏せた。
　吾輩はクララの気持ちを察して、

「会ったばかりで、こんなこと訊くのは失礼だったね」

　すまない、と謝罪した。
　すると、クララは吾輩に顔を向け、

「いえ、失礼なのは私のほうです……。私、ふとしたときに、思い出してしまうことがあって……」

　そう言うとまた、眼を伏せてしまった。
　そのクララの姿に、吾輩は胸が潰れる想いがして、

「言いたくないことはだれにでもあるけれど、でも話すことで楽になれることもあると思うんだ。それが辛い過去だとしたら、尚更ね」

　そう言っていた。
　そんな自分に、吾輩は驚いた。
　いままで、こんなことを言えたことなどなかった。
　ルーシーが悲しい眼をしたときでさえ、気の利いたことを何も言えなかった。
　それが、会ったばかりのクララの前では、自然に言葉がさらりと出くるのだった。
　もしかすると、ルーシーとの別れが、吾輩を少しだけ成長させてくれたのかもしれない。

「やさしいんですね、ゴン太さん……」
「いや、吾輩はそんな」

　やさしいと言われると、どうしても気恥ずかしくなってしまう。
　その気恥ずかしさに、またもヒップ・ホップを踊ってしまいそうになる衝動を、吾輩は必死に抑えた。
　クララは伏せた眼を吾輩に向けて、

「実は、私……」

　そう言った。