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【Episode 23】
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ふと眼を醒ますと、雨は上がっていた。
地がぬかるんでいるので、吾輩は犬小屋から出る気になれず、ひとつ大きなあくびをした。
と、かすかに靴音が聴こえてきた。それは少しずつ近づいてくる。
(パパが帰ってきた……)
吾輩はとたんにシッポをふり、ぬかるんでいるのもかまわずに犬小屋を出た。
パパが姿を現し、門を開けて入ってきた。
「ワン! ワン、ワン!」
吾輩は、シッポをふりふり出迎えた。
『パパお帰り』
「ゴン太、ただいま」
パパはかがみ込んで、吾輩の顔をなで回す。
「どうだ、今日はだれか咬み殺したか?」
なな、なんてことを言いだすんだこの人は……。
『いやいや、滅相もない。そんなことをしたら、保健所のガス室へ送られちゃいますよ』
ときにパパは、とんでもないことを口走る。
「ま、そんな勇気もないか」
勇気の問題か、っての……。
「それはそうと、彼女のひとりやふたりはできたのか? 季節は春なんだし、おまえも男にならんとな」
パパがそんなことを言った。
『へへヘ、それがですね、まだ彼女というわけではないんですが、ルーシーってコがいましてね。このコがもう実に美しいんですよ。それが今日、誘われたんです。デートとまではいかなかったんですが、それでも、今度マーキング・デートをしよう、なんて言われちゃいまして。吾輩としてはもう、天にも昇る心持で――って、あれ? パパ……』
パパは吾輩の話しを聞こうともせずに立ち上がると、玄関のチャイムを鳴らした。
(どうして、ちゃんと聞いてくれないかな……)
とは言え、はなから伝わらないのであるから、聞いてもらおうと思うほうが間違いであった。
チャイムに応えて、ママが玄関までやってきてドアを開けた。
「お帰りなさい」
ママはやさしくパパを出迎える。
「ただいま」
パパも笑顔で応えて中に入った。
それは土、日を除いた平日に見るいつもの光景である。
ママはパパを出迎えるとき、不機嫌な顔を見せたことがない。
そしてパパは、どんなに疲れて帰ってきても、玄関のドアが開くとたちまち笑顔を浮かべる。
朝は朝で、出勤するパパをママは玄関の外まで見送り、
「行ってらっしゃい」
と声をかけ、パパはそれに、
「行ってきます」
と、笑顔を返し、そして必ずふたりは軽いキスを交わす。
家の前を人が通ろうが、ふたりはお構いなしなのである。
見ているほうが気恥ずかしいかぎりだが、いいかげん吾輩も慣れた。
ママとパパは、とても仲がいいのだ。
喧嘩をしているところなど見たことがない。
お向かいさんの島田家とは、えらい違いである。
その島田家には、50代をすぎた夫婦がふたりで住んでいるのだが、毎日のように口喧嘩が絶えない。
朝はその夫婦の言い争う声ではじまり、それはご主人が会社へ出勤するまでつづく。
そしてご主人が帰宅すると、再び言い争いが勃発するのだ。
その内容といえば、どれもこれもくだらないことばかりで、口にするのが面倒なほどだ。
ほんとうに些細なことから、言い争いがくり広げられるのである。
面倒ではあるが、特別に口喧嘩のひとつを話すとしよう。
それは、今朝のことだ。
「おまえってやつは、どうしてそう、口答えばかりするんだ!」
玄関のドアを勢いよく開けて出てくるなり、ご主人はふり返ってそう言い放ったのである。
「よくもまァ、そんなことが言えるわね。だいたいが、無理難題をふっかけてくる、あなたが悪いんじゃないのよ!」
奥さんは居間から廊下へ身体半分だけを出して、言い返した。
「無理難題? 俺は、きゅうりのお新香を、もう少し厚く切ってくれと言っただけじゃないか。それのどこが無理難題だと言うんだ。まったく、呆れてものも言えん」
「それだけ御託を並べておいて、ものも言えないとは笑っちゃうわ」
「なにを! おまえの顔など見たくもない!」
「それはこっちの台詞よ!」
「うるさい!」
ご主人はドアを叩きつけるように閉めると、頭のてっぺんから噴煙をあげて会社へと向かっていったのであった。
と、まあ、毎朝がこの調子である。
その朝の行事を、吾輩は特等席で傍観しているのである。
地がぬかるんでいるので、吾輩は犬小屋から出る気になれず、ひとつ大きなあくびをした。
と、かすかに靴音が聴こえてきた。それは少しずつ近づいてくる。
(パパが帰ってきた……)
吾輩はとたんにシッポをふり、ぬかるんでいるのもかまわずに犬小屋を出た。
パパが姿を現し、門を開けて入ってきた。
「ワン! ワン、ワン!」
吾輩は、シッポをふりふり出迎えた。
『パパお帰り』
「ゴン太、ただいま」
パパはかがみ込んで、吾輩の顔をなで回す。
「どうだ、今日はだれか咬み殺したか?」
なな、なんてことを言いだすんだこの人は……。
『いやいや、滅相もない。そんなことをしたら、保健所のガス室へ送られちゃいますよ』
ときにパパは、とんでもないことを口走る。
「ま、そんな勇気もないか」
勇気の問題か、っての……。
「それはそうと、彼女のひとりやふたりはできたのか? 季節は春なんだし、おまえも男にならんとな」
パパがそんなことを言った。
『へへヘ、それがですね、まだ彼女というわけではないんですが、ルーシーってコがいましてね。このコがもう実に美しいんですよ。それが今日、誘われたんです。デートとまではいかなかったんですが、それでも、今度マーキング・デートをしよう、なんて言われちゃいまして。吾輩としてはもう、天にも昇る心持で――って、あれ? パパ……』
パパは吾輩の話しを聞こうともせずに立ち上がると、玄関のチャイムを鳴らした。
(どうして、ちゃんと聞いてくれないかな……)
とは言え、はなから伝わらないのであるから、聞いてもらおうと思うほうが間違いであった。
チャイムに応えて、ママが玄関までやってきてドアを開けた。
「お帰りなさい」
ママはやさしくパパを出迎える。
「ただいま」
パパも笑顔で応えて中に入った。
それは土、日を除いた平日に見るいつもの光景である。
ママはパパを出迎えるとき、不機嫌な顔を見せたことがない。
そしてパパは、どんなに疲れて帰ってきても、玄関のドアが開くとたちまち笑顔を浮かべる。
朝は朝で、出勤するパパをママは玄関の外まで見送り、
「行ってらっしゃい」
と声をかけ、パパはそれに、
「行ってきます」
と、笑顔を返し、そして必ずふたりは軽いキスを交わす。
家の前を人が通ろうが、ふたりはお構いなしなのである。
見ているほうが気恥ずかしいかぎりだが、いいかげん吾輩も慣れた。
ママとパパは、とても仲がいいのだ。
喧嘩をしているところなど見たことがない。
お向かいさんの島田家とは、えらい違いである。
その島田家には、50代をすぎた夫婦がふたりで住んでいるのだが、毎日のように口喧嘩が絶えない。
朝はその夫婦の言い争う声ではじまり、それはご主人が会社へ出勤するまでつづく。
そしてご主人が帰宅すると、再び言い争いが勃発するのだ。
その内容といえば、どれもこれもくだらないことばかりで、口にするのが面倒なほどだ。
ほんとうに些細なことから、言い争いがくり広げられるのである。
面倒ではあるが、特別に口喧嘩のひとつを話すとしよう。
それは、今朝のことだ。
「おまえってやつは、どうしてそう、口答えばかりするんだ!」
玄関のドアを勢いよく開けて出てくるなり、ご主人はふり返ってそう言い放ったのである。
「よくもまァ、そんなことが言えるわね。だいたいが、無理難題をふっかけてくる、あなたが悪いんじゃないのよ!」
奥さんは居間から廊下へ身体半分だけを出して、言い返した。
「無理難題? 俺は、きゅうりのお新香を、もう少し厚く切ってくれと言っただけじゃないか。それのどこが無理難題だと言うんだ。まったく、呆れてものも言えん」
「それだけ御託を並べておいて、ものも言えないとは笑っちゃうわ」
「なにを! おまえの顔など見たくもない!」
「それはこっちの台詞よ!」
「うるさい!」
ご主人はドアを叩きつけるように閉めると、頭のてっぺんから噴煙をあげて会社へと向かっていったのであった。
と、まあ、毎朝がこの調子である。
その朝の行事を、吾輩は特等席で傍観しているのである。
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